堀晄『古代インド文明の謎』
歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2008年3月に刊行されました。朝日新聞の書評ではたいへん面白そうでしたし、この6~7年、古代文明についての勉強がまったく進んでいないので、最新の見解を知っておこうという考えもあって、読んでみました。
文字が解読されておらず、そもそも文字が少ないということもあり、インダス文明については謎が多く、その担い手も確定していませんが、ドラヴィダ系住民ではないかと推測されています。昔は、インダス文明はアーリア系集団の侵入により滅亡したとされていましたが、私が古代文明について色々と調べていた頃にはこの説はすでに否定されていて、アーリア系集団の侵入前にインダス文明は衰退していた、と説明されていました。
ところが本書では、通説は言語学の危うい仮定と神話の解釈のうえに成り立っているから、考古学・人類学の検証には耐えないものだと批判され、インダス文明の担い手はアーリア系住民であり、彼らはシリア方面から新石器時代にインドにやって来たとされます。確かに、牛の神聖視など、インダス文明と後のインド文明との共通点・連続性は昔から指摘されていましたが、アーリア系集団がインダス文明の崩壊後にインドにやって来たのではなく、そもそもインダス文明の担い手だったとの本書の見解は、私にとっては衝撃的でした。インダス文明と後のインド文明をめぐる言説もなかなか興味深く、色々と多くのものを得た一冊になりました。
現在の通説では、南ロシアを故地とするアーリア系集団が中央アジアを経由し、前2000年紀半ば以降にインドに侵出したとされています。しかし、中央アジア考古学が専門の著者は、金石併用期~初期鉄器時代の中央アジアには、他地域から侵入して在地の文化を圧倒した集団あるいは文化が認められないので、定説が想定しているようなアーリア系集団の移動は否定される、と主張します。
著者は、考古学だけではなく人類学と言語学の近年の成果も取り入れて、印欧語族の故地はユーラシア西部の農耕の起源地であるシリアであり、ここから東はイランやインドへ、西は欧州へと印欧語族が拡散したと考えるのが妥当だろう、と主張します。この著者の見解の根底には、農耕の伝播は技術のみによるのではなく、農耕民の拡大を伴うものだ、との考えがあります。ただ現在の欧州では、東方からやって来た農耕民の子孫よりも、更新世から欧州に居住していた人々の子孫(彼らも元々は東方由来ですが)のほうがずっと多いとされていますので(Sykes.,2001)、本書における農耕技術の伝播についての見解は修正が必要かもしれません。
新石器時代にシリアからイランを経てインドにやって来た印欧語族(アーリア系)こそインダス文明の担い手であり、それは牛の神聖視だけではなく、都市計画や度量衡の共通性といった点からもうかがえる、というのが本書における著者の主張です。著者は、インダス文明は滅んでおらず形を変えただけであり、インダス文明はインド文明の最初の一員として、インダス文化と呼ばれるべきだ、と提言しています。もっとも、インダス文明は広範な地域に及びましたから、その担い手は必ずしもアーリア系だけではなかったかもしれません。著者が本書で提示した仮説は古代史の大胆な見直しを要求するものです。本書で提示された仮説の妥当性について、詳細に論じられるだけの見識は私にはありませんが、著者は広範な地域に及ぶ学際的研究計画を立てており、今後の研究の進展に注目していこうと考えています。
著者は、現在のインドにおけるタミル分離論やアーリア系とドラヴィダ系の民族紛争を、アーリア系征服説を前提とした通説的インド文明論に基づく、きわめて偏った議論が行われていることと結びつけています。一方著者によると、インドの国粋主義的風潮のなかから、インダス文明と後のインド文明とは連続的で、世界最古の印欧語としてのインダス語からラテン語やギリシア語が派生したのだ、との見解が提示されています。欧州の研究者はこうした見解を黙殺していますが、その欧州の研究者によるインダス文字の解読にしてもこじつけ以上のものではなく、両者を対等・冷静に見ることのできる日本の研究者の役割は、けっして小さくないだろう、とも著者は述べています。
参考文献:
Sykes B.著(2001)、大野晶子訳『イヴの七人の娘たち』(ソニー・マガジンズ社、原書の刊行は2001年)
堀晄(2008)『古代インド文明の謎』(吉川弘文館)
文字が解読されておらず、そもそも文字が少ないということもあり、インダス文明については謎が多く、その担い手も確定していませんが、ドラヴィダ系住民ではないかと推測されています。昔は、インダス文明はアーリア系集団の侵入により滅亡したとされていましたが、私が古代文明について色々と調べていた頃にはこの説はすでに否定されていて、アーリア系集団の侵入前にインダス文明は衰退していた、と説明されていました。
ところが本書では、通説は言語学の危うい仮定と神話の解釈のうえに成り立っているから、考古学・人類学の検証には耐えないものだと批判され、インダス文明の担い手はアーリア系住民であり、彼らはシリア方面から新石器時代にインドにやって来たとされます。確かに、牛の神聖視など、インダス文明と後のインド文明との共通点・連続性は昔から指摘されていましたが、アーリア系集団がインダス文明の崩壊後にインドにやって来たのではなく、そもそもインダス文明の担い手だったとの本書の見解は、私にとっては衝撃的でした。インダス文明と後のインド文明をめぐる言説もなかなか興味深く、色々と多くのものを得た一冊になりました。
現在の通説では、南ロシアを故地とするアーリア系集団が中央アジアを経由し、前2000年紀半ば以降にインドに侵出したとされています。しかし、中央アジア考古学が専門の著者は、金石併用期~初期鉄器時代の中央アジアには、他地域から侵入して在地の文化を圧倒した集団あるいは文化が認められないので、定説が想定しているようなアーリア系集団の移動は否定される、と主張します。
著者は、考古学だけではなく人類学と言語学の近年の成果も取り入れて、印欧語族の故地はユーラシア西部の農耕の起源地であるシリアであり、ここから東はイランやインドへ、西は欧州へと印欧語族が拡散したと考えるのが妥当だろう、と主張します。この著者の見解の根底には、農耕の伝播は技術のみによるのではなく、農耕民の拡大を伴うものだ、との考えがあります。ただ現在の欧州では、東方からやって来た農耕民の子孫よりも、更新世から欧州に居住していた人々の子孫(彼らも元々は東方由来ですが)のほうがずっと多いとされていますので(Sykes.,2001)、本書における農耕技術の伝播についての見解は修正が必要かもしれません。
新石器時代にシリアからイランを経てインドにやって来た印欧語族(アーリア系)こそインダス文明の担い手であり、それは牛の神聖視だけではなく、都市計画や度量衡の共通性といった点からもうかがえる、というのが本書における著者の主張です。著者は、インダス文明は滅んでおらず形を変えただけであり、インダス文明はインド文明の最初の一員として、インダス文化と呼ばれるべきだ、と提言しています。もっとも、インダス文明は広範な地域に及びましたから、その担い手は必ずしもアーリア系だけではなかったかもしれません。著者が本書で提示した仮説は古代史の大胆な見直しを要求するものです。本書で提示された仮説の妥当性について、詳細に論じられるだけの見識は私にはありませんが、著者は広範な地域に及ぶ学際的研究計画を立てており、今後の研究の進展に注目していこうと考えています。
著者は、現在のインドにおけるタミル分離論やアーリア系とドラヴィダ系の民族紛争を、アーリア系征服説を前提とした通説的インド文明論に基づく、きわめて偏った議論が行われていることと結びつけています。一方著者によると、インドの国粋主義的風潮のなかから、インダス文明と後のインド文明とは連続的で、世界最古の印欧語としてのインダス語からラテン語やギリシア語が派生したのだ、との見解が提示されています。欧州の研究者はこうした見解を黙殺していますが、その欧州の研究者によるインダス文字の解読にしてもこじつけ以上のものではなく、両者を対等・冷静に見ることのできる日本の研究者の役割は、けっして小さくないだろう、とも著者は述べています。
参考文献:
Sykes B.著(2001)、大野晶子訳『イヴの七人の娘たち』(ソニー・マガジンズ社、原書の刊行は2001年)
堀晄(2008)『古代インド文明の謎』(吉川弘文館)
この記事へのコメント
うろ覚えの記憶ですが、インド社会の基底にあるのは、蛇を祭るような文化だとあり、私は少なくともインドの稲作は長江流域から伝播したものではないかと思っています。
ネーティブアメリカンの中にも、アジア起源説に反論して、「我々は最初からここに居住しているのだ」と主張する人がいると聞きますが、この場合、少し複雑な気分になります。
ところで、牛の神聖視ですが、アーリア人だけではなく、ドラヴィダ人もしているのでしょうね。
ただ、その言語は印欧語と比較するとまだ研究蓄積が不足しているのは否めないでしょうし、今後言語やDNAの研究が進めば、その出自についても色々と分かってくるのではないかと期待されます。
横倉雅幸「東南アジアにおける稲作の始まり」『岩波講座 東南アジア史1 原史東南アジア世界』(岩波書店、2001年)によると、稲作は東南アジアと南アジアで同時期(4000年前以降)に始まったようで、どのような原因で稲作が広範な地域に拡大したのか、興味があります。
東京には世界中の郷土料理店があり、インド料理店にも何度か行きましたが、やはり牛肉ではなく鶏肉だったと記憶しています。