レヴァントの早期現生人類は絶滅した?

 中部旧石器時代の11~9万年前頃にレヴァントに進出していた早期現生人類(解剖学的現代人)は絶滅した、との見解(Oppenheimer.,2007)が現在有力なようですが、本当にそうなのか、疑問があります。

 確かに、この絶滅説には根拠があります。分子遺伝学の研究成果から、現生人類の成功した出アフリカは1回だけとの見解が有力で(Oppenheimer.,2007)、その年代については諸説ありますが、9万年前よりもさかのぼるという見解は有力視されているとは言いがたいでしょう。また、レヴァントでは11~9万年前頃の現生人類と分類される人骨が発見されていますが、その後、中部旧石器時代の間は現生人類の人骨が発見されず、ネアンデルタール人に分類される人骨が発見されています。

 こうした研究成果からは、温暖化にともない早期現生人類はレヴァントまで北上したものの、寒冷化にともない絶滅したか、南のアフリカへ撤退し、その後にはネアンデルタール人がレヴァントを占有した、と考えることができます。しかし、現生人類の人骨が発見されていないからといって、当時レヴァントには現生人類が存在しなかった、と断定することはできません。考古学的証拠からは、中部旧石器時代の間ずっと、レヴァントに現生人類が存在した、と考えることもできると思います(以下、西秋.,1997.を参照しました)。


 レヴァントのムステリアン(ムスティエ文化、中部旧石器時代の代表的文化)における石器の変遷については、タブン洞窟の石器群の分類が進展しており、この分類(タブンモデル)が使用されることが多くなっています。タブン洞窟では、三つの石器群が重なって見つかっており、上(新しい方)から順にB層→C層 →D層と呼ばれています。

 ムステリアン期を通じて、レヴァントにおける石器群の分布は変わっていきます。前期には北にC層型・南にD層型が分布します。中期には北から南へB層型→C層型→D層型が分布し、後期には北部から中部にかけてB層型が、南部にD層型が分布します。タブン洞窟におけるD層型→C層型→B層型という変化は、同一文化の時間経過による発展ではなく、地域の異なる文化が交錯していたことを表していた、というわけです。

 今のところ、アムッド・ケバラ・デデリエなど、ネアンデルタール人骨の出土する遺跡にはB層型が共伴し、カフゼー・スフールという現生人類人骨と共伴するのは、石刃の少ないC層型ということになっています。B層型はムスティエ期の中期以降に出現し、北部・中部にしか分布していません。C層型はムスティエ期の後期に消滅します。これらは、ネアンデルタール人の南下・現生人類のレヴァントからの撤退という説と整合的と言えます。


 ただ、ムスティエ期の前期から後期にかけて、レヴァント南部にはずっと石刃の豊富なD層型が分布しています。D層型には人骨が共伴しておらず、人類種と石器技術とを安易に結びつけるのは危険なのですが、D層型は上部旧石器文化に直接つながっていくので、その担い手は現生人類と考えるのがもっとも説得的だと言えそうです。

 そうすると、レヴァント南部から北上した現生人類は現地の環境に適応し、D層型とは異なるC層型石器を製作した、との解釈も可能でしょう。遊動型集団あるいは石材欠乏地住人にとって石刃は有用ですが、北部の湿潤環境で静的資源を中心に生計を立てた海岸部の集団は、石刃なしでも暮らせていけたというわけです。

 現時点では、レヴァントの現生人類は南部ではD層型、北部ではC層型の石器を製作し、寒冷化とネアンデルタール人の南下により、一時的に(とはいっても数万年単位ですが)レヴァント南部に押し込められる状況になったものの、その地でD層型の石器を製作し続け、やがて上部旧石器文化を築き、再度北上してネアンデルタール人を駆逐した、と考えるのがもっとも説得的であるように思われます。

 もっとも末期のD層型には、両設打面ルヴァロワ尖頭器製作技術やジェルフ=アジラ型石核技術といった、北アフリカのムステリアン期後半に見られた要素が認められますので、レヴァントにおける中部旧石器文化から上部旧石器文化への移行は、レヴァントだけで完結していたのではなく、アフリカからの人の流れが影響を与えていた可能性もあるでしょう。


 考古学からはこのように推測できるわけですが、分子遺伝学では、ミトコンドリアDNAやY染色体の研究から、現生人類の成功した出アフリカが1回だけのように見える理由も、考えなくてはなりません。この問題については、私は次のように考えています。

 現生人類は7万年前以前に、レヴァントだけではなく東南アジアや東アジアまで進出していました。しかし、6万年前以降に出アフリカを果たした集団が拡散したさい、各地の先住現生人類集団にたいして数で優位に立ち、先住現生人類(あるいは、ネアンデルタール人のような先住の非現生人類も)を吸収しました(両者の間で混血があったものの、先住現生人類のミトコンドリアDNAやY染色体の系統が失われたということです)。そのため、現在の非アフリカ人の遺伝的多様性は乏しくなり、現生人類の成功した出アフリカは1回だけだと見えるようになったのでしょう。

 この想定は、考古学的成果と関連させることも可能かもしれません。ヨーロッパにはじめて進出した現生人類は上部旧石器文化のオーリナシアン(オーリニャック文化)を携えていましたが、オーリナシアンはレヴァントでも外来文化として出現し(レヴァントの上部旧石器時代を6期に区分した場合は、第3期または第4期以降)、その起源地をザグロス地域に求める見解もあります。

 アフリカ東部より紅海を渡ってアラビア半島から南アジアへ進出し、そこから世界各地に進出した現生人類が、現代の非アフリカ人のミトコンドリアDNAやY染色体の祖先系統となり、そのなかで、南アジアからザグロス地域に進出してオーリナシアンを築いた現生人類集団が、レヴァントやヨーロッパで先住人類集団を数で圧倒して吸収した、とも考えられます。
 
 もちろん、このオーリナシアン集団だけではなく、その後にも南アジア起源(究極的にはアフリカ起源ですが)の現生人類集団がレヴァントやヨーロッパへと拡大したのでしょう。その結果、7万年前以前に出アフリカを果たした現生人類集団の遺伝的痕跡は、現代の非アフリカ人には見られなくなったのだと思います。


参考文献:
Oppenheimer S.著(2007)、仲村明子訳『人類の足跡10万年全史』(草思社、原書の刊行は2003年)、関連記事

西秋良宏(1997)「三大陸人類大回廊」大津忠彦、常木晃、西秋良宏『世界の考古学5 西アジアの考古学』(同成社)、関連記事(1)関連記事(2)

この記事へのコメント

kurozee
2014年10月16日 21:10
いま(2014)このブログを再読して、2008年の時点での劉さんの見方は、いい線をいっていたと思いました。
現在、"Out of Africa‟ and the Middle-Upper Palaeolithic transition in the southern Levant (Jeffrey I. Rose, 2014)を読解中ですが、レバントの事情(および原生人類の出アフリカ劇)は、北東アフリカ、アラビア半島もからんでかなり複雑な様相だと感じています。
上記の文献が入手できれば、ぜひお読みいただき、あなたのコメントをブログにしてくださることを期待しています。
2014年10月17日 00:01
該当論文を紹介したブログは見つけましたが、ブログ主の方は前刷りを読んだようで、著者のサイトでは論文は草稿扱いになっていました。著者のサイトでアップロードされたら入手しようと考えています。

ブログをざっと読んだ限りでは、最初期の上部旧石器のエミランの起源をアラビア半島、さらにその起源をアフリカのヌビア地方と推定し、5万年前頃の出アフリカと上部旧石器時代への移行いう有力説を否定しているようですね。現生人類の出アフリカは5万年前頃よりさらに前に起きている、ということで。

さらに、エミランは上部旧石器というよりは、中部旧石器からの移行期的性格が強い、という評価のようですね。エミランはヌビア→アラビア半島→レヴァント南部という技術的流れのなかで成立した、ということのようです。

ブログ主さんは、中部旧石器次代のアラビア半島の現生人類集団とレヴァントの現生人類集団とが融合して上部旧石器文化が生じ、レヴァントの現生人類集団がネアンデルタール人と交雑した、という見解のようですね。興味深い見解だと思います。
kurozee
2014年10月17日 15:39
私は、草稿と本論の両方を併読しています。(比較するとおもしろいです)
いずれもacademia.eduを経由して入手できました。
2014年10月17日 20:08
academia.eduで検索してみたのですが、現在はアップロードされていないようでした。私の検索の仕方も悪いのかもしれませんが。

この論文はかなり興味深い内容のようですので、気に留めておきます。ご教示いただき、ありがとうございます。

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