中国大陸における人類の遺伝的構成の変化(追記有)

追記(2010年9月12日)
 この研究(Wang et al.,2000)を否定する研究があることは、確か昨年知ったのですが、それほど関心の高い問題ではなかったので、とくに調べずにきました。今日になって、ヤフー掲示板の“unadon_applepie”さんの投稿により、Wang et al.,2000を否定する研究(Yao et al.,2003)を具体的に知りました。古代臨淄の住民のミトコンドリアDNAは、ヨーロッパよりも現代の中国南部の住民のほうに近い、とのことです。以下の記事は、元ネタとなった研究に大いに問題があるので、基本的には間違ったものとしてお考えくださるよう、お読みになった方にお願い申し上げます。ここは過疎ブログなのですが、この記事は、このブログにしては閲覧数の多い記事なので、念のために申し上げておきます。Wang et al.,2000のHTML版には、引用された論文としてYao et al.,2003が掲載されているのですが(どの論文に引用されたか容易に知ることができるという点では、紙媒体よりもオンライン版の論文のほうがずっと優れている、と言えるでしょう)、あまり関心が高くないということもあり、見過ごしてしまいました。なんとも恥ずかしい限りで、今後は注意を怠らないようにしなければいけない、と反省しております。


 ちくま新書の『DNAから見た日本人』を(斎藤.,2005)を読み直していて思い出したのが、中国の臨淄における人類の遺伝的構成の変化を調べた研究(Wang et al.,2000)です。この研究では、2500年前・2000年前・現代という三つの異なる時代の臨淄住民(現代については漢民族が分析対象とされました)のミトコンドリアDNAが検査され、東アジア・中央アジア・欧州の現代人のそれと比較されています。

 現代の東アジア・中央アジア・欧州集団の遺伝的関係は、東アジア集団と欧州集団がもっとも疎遠で、中央アジア集団はその中間に位置するという、おおむね地理的分布と一致するものになりました。しかし、2500年にわたる臨淄住民の遺伝的構成は、そうした地理的分布と矛盾するものになりました。

 現代の臨淄住民は東アジア集団との遺伝的類似性を示しており、これは予想通りでした。しかし、2000年前の臨淄住民は現代の中央アジア集団と、2500年前の臨淄住民にいたっては、現代の東アジア・中央アジア集団よりも現代の欧州集団に類似している、との結果が得られました。これには、研究者たちも率直に驚きを表明しています。もっとも、これはあくまでも集団の遺伝的構成であり、2500年前の臨淄住民のなかに、現代の臨淄住民と似たミトコンドリアDNAを有する人もいます。

 この研究では、こうした遺伝子構成の変化は移住によるものだろうと示唆されています。春秋戦国・魏晋南北朝・五代十国などといった中国大陸での争乱により、とくに華北に、外部からの移住が多くあっただろうと推測することは、妥当な判断と言ってよいと思います。

 現代の欧州集団と2500年前の臨淄住民との遺伝的類似性については、欧州の現生人類の故地の一つとして、中央アジアが想定されていることが参考になりそうです(Oppenheimer.,2007,3章)。現代欧州人の源流の一つ(もしくは幾つか)だった集団が中央アジアにいて、その一部が欧州方向とは逆にユーラシア大陸を東へ進み、中国大陸にまで到達したと考えることもできるでしょう。


参考文献:
Oppenheimer S.著(2007)、仲村明子訳『人類の足跡10万年全史』(草思社、原書の刊行は2003年)、関連記事

Yao YG. et al.(2003): Reconstructing the Evolutionary History of China: A Caveat About Inferences Drawn from Ancient DNA. Molecular Biology and Evolution, 20, 2, 214-219.
http://dx.doi.org/10.1093/molbev/msg026

Wang L. et al.(2000): Genetic Structure of a 2,500-Year-Old Human Population in China and Its Spatiotemporal Changes. Molecular Biology and Evolution, 17, 9, 1396-1400.
http://mbe.oxfordjournals.org/cgi/content/full/17/9/1396

斎藤成也(2005) 『DNAから見た日本人』(筑摩書房)

この記事へのコメント

2008年04月17日 21:01
劉公嗣さんならご存じだと思いますが、『三国志』の有名なある人物、孫権だった?かは「碧眼児」だったそうですね。
2008年04月17日 21:49
孫権の碧眼の話は有名ですね。

孫権が碧眼だとしているのは『演義』のようですが、『呉書』の注に「目有精光」とあるのが元ネタかもしれません。

青い眼の起源は10000~6000年前にさかのぼるそうで、じっさいに孫権が碧眼だったかは定かではありませんが、その可能性もあるだろうと思います。
2008年04月18日 19:32
2500年前と言えば、中国は春秋時代です。いわゆる「都市国家」分立段階で、人々は氏族部族単位で生活していたと思われます。
ところで臨淄と言えば、斉国の首都で、周初、太公望・呂尚が封ぜられた所です。太公望呂尚と言えば、元々は中国西北部の羌族の出身です。春秋時代(ちょうど2500年前ぐらい)など、臨淄は中国西北部から移住した太公望呂尚の一族、つまり羌族が居住していた可能性があると思います。
 この羌族などは、現代欧州人の源流の一つと共通する遺伝子を持つ集団だったのでしょうか。
2008年04月18日 21:01
集団遺伝学の成果と文献上の集団とを照合するのはなかなか難しいと思いますが、今後古人骨からのDNA抽出・分析例が増加していけば、春秋時代の臨淄住民と羌族の関係や、羌族の出自についてかなり分かるようになるかもしれません。

環境の違いも考慮に入れなければなりませんが、更新世の人骨からのDNA抽出・分析の成功例もすでにかなりの数になりますから、春秋時代や周代の古人骨のDNA抽出・分析の進展は今後大いに期待できます。

そうすれば、古代中国大陸における地域差も見えやすくなるのではないかと思われます。

この記事へのトラックバック