崎谷満『DNAでたどる日本人10万年の旅』第2刷(1)
昭和堂より2008年2月に刊行されました。初版第1刷の刊行は2008年1月です。遺伝学(おもにY染色体DNAの分析)の分野から日本人の起源・形成を論じた書籍としては、現時点では最新のものと言ってよいでしょう。また、遺伝学のみならず、考古学・言語学などの成果も取り入れられ、複数の分野を総合した学際的研究の成果が提示されています。繰り返しが多く、やや冗長なところがありますが、日本人起源論を扱った書籍としては、今後しばらくは必読と言えるでしょう。以下、まずは、本書で提示された見解について自分なりに整理し、その後に雑感を述べていくことにしますが、長くなってしまったので、この前編と後編とに分けて掲載します。
日本列島におけるY染色体の系統
本書では地理・民族・言語の観点から、日本列島は北海道(アイヌ民族)・中間部(本州・四国・九州)・琉球の三つに区分され、それぞれ異なる歴史を経て現在にいたっているとされます。そうした歴史を反映して、日本列島においてはY染色体DNA(基本的に父系遺伝)の多様性が維持されてきました。
Y染色体の系統は、アフリカ固有のA・Bと、それ以外のC~R(アフリカ集団と非アフリカ集団)のハプログループに分類されます。現代人にとってのY染色体における最終共通祖先の存在年代は、9万年前頃になります。Y染色体の系統では、まずA系統とB~R系統が分岐し、その後にB系統とC~R系統が分岐しました。A系統とB系統はアフリカでしか確認されず、Y染色体DNAの分析からも、現生人類(ホモ=サピエンス)のアフリカ単一起源説が支持されることになりました。
出アフリカを果たしたC~R系統(すべてが出アフリカを果たしたわけではありません)は、C・D~E・F~Rの三つに大別され、日本列島にはその三つの系統のいずれも存在します。出アフリカの経路としては、北アフリカからレバノン回廊を通る中東ルートと、東アフリカ(アフリカの角)からアラビア半島を経てインドへといたる南アジアルートが想定されています。日本列島中間部のY染色体DNAの収容な系統は、次のようになります。
●C系統・・・日本列島全体としては、C3系統もC1系統も低頻度になります。シベリアにおいて高頻度で見られるC3系統は、九州では比較的高頻度で、四国・本州でもわずかに見られ、アイヌ民族にも認められますが、琉球では確認されていません。C1系統は太平洋側を中心に見られ、琉球にも認められますが、アイヌ民族では確認されていません。C系統はまずユーラシア南部(インド)へ達した後、東へ南経路で移動してインドネシア東部とパプアニューギニアへ達し、オセアニア各地やオーストラリア(Cの特殊な亜型が見られます)へ到達したと思われます。C1系統は日本でしか見られず、インドの集団から直接日本の集団へ分岐したと推定されますが、その移動ルートは不明です。C1系統は、航海術と貝文土器を携えて新石器時代早期に日本中部に達した、貝文文化の民との関連が注目されます。C3系統はユーラシア南部を経てユーラシア東部を北上していき、シベリアで大繁栄したと推定されます。C3系統の一部はシベリアからサハリン経由で北海道へ達したと想定されますが、朝鮮半島経由で九州へ達した経路も想定できます。
●D系統・・・D1・D2・D3という各系統に分かれるD系統は、ユーラシア東部に限局されます。日本列島では世界的に稀なほどD2系統の高い集積が見られますが、D1系統は低頻度で、D3系統は見られません。チベットではD1系統(16%)とD3系統(33%)に高い集積が見られます。D系統は出アフリカ後、ユーラシア南部を東へ移動した後、東南アジアを経て北上し、華北からモンゴル・チベット・朝鮮半島~日本列島へと達したようです。D系統の祖型の分布時期は13000年前と推定されており、D系統は新石器時代のユーラシア東部においてもっと広がっていた系統である可能性が考えられます。しかし現在、ユーラシア東部ではD系統は稀な系統になっており、日本列島に最大の集積地点が残り、その他では遠く西に離れたチベットにD系統が高頻度で存続するだけですから、両者を分ける広大な地域には、後に別の集団が割り込んできたと予想されます。
●N系統・・・シベリア北西部と北欧(とくにウラル系)に高い集積を示していますが、シベリア東部や日本列島では低頻度でしか見られず、アイヌ民族と琉球では確認されていません。N系統はO系統とひじょうに近い分化の経路をたどり、N系統の分岐年代は8800年前または6900年前と推定されています。N系統は新石器時代に中国大陸から朝鮮半島を経て日本列島に流入してきた集団と関連と想定されていますが、その文化についてはまだよく分かっていません。
●O系統・・・O系統はユーラシア東部に限局して見られます。O系統の発祥地としては東南アジア南部が想定されており、O系統の分岐時期は17500年前か10700年前、その移動開始時期は8100年前と推定されています。O2b系統の分岐時期は3300年前、その移動開始時期は2800年前と推定されています。O2a系統は華南から東南アジアに高い集積が見られますが、日本列島ではほとんど確認されておらず、日本列島と朝鮮半島ではO2b系統が高頻度で認められます。03系統はO2系統と比較すると日本列島ではやや少なく、O3系統の亜型とされる03e系統は東京で9%と確認されています。O3c系統はミャオ・ヤオ系に高い集積が認められ、その他では華南・東南アジアを中心に広がっていますが、日本列島ではほとんど確認されていません。O系統はアイヌでは未確認ですが、琉球では主要な系統になっています。O1系統は台湾先住民の間において特異的に高頻度で見られる他、フィリピンやその他の南方島嶼部でも認められ、言語的にはオーストロネシア系との関連が想定されています。O1系統は東アジア南部でも見られ、東アジア北部や日本列島でも低頻度ながら見られます。
まとめると、それぞれ頻度に差があるとはいえ、日本列島の主要な系統はC1・C3・D2・N・O2b・O3と言え、この主要6系統以外では、D1・O1・O2a・Qなどが散発的に見られます。Q系統の祖先型は、後期旧石器時代に中央アジアを経てシベリアのアルタイ山脈へ達して石刃文化の担い手となり、分化したQ系統がシベリア東部へ向かい、その一部は南下して日本列島へ達したと推定されています。
アイヌ民族のY染色体DNAについてはじゅうぶんなデータが得られておらず、正確なことは不明ですが、少ない報告例によると、C3とD2の2系統に分けられます。現在までの報告では、O・N・C1・Qの各系統はアイヌ民族には認められていません。
琉球諸島は南北に分けられます。まだ調査が不充分という限界を踏まえたうえで現在までの報告を見ていくと、琉球ではC3系統とN系統が確認されておらず、C1系統が沖縄で4%確認されていることと、琉球の南北でD系統とO2b系統の頻度に大きな違いがあることが注目されます。D系統は、北琉球では39%と高頻度で認められますが、南琉球では4%しか見られません。O2b系統は、北琉球では日本列島中間部とほぼ同程度の30%ていど見られるのにたいして、南琉球では67%と世界的にもっとも高頻度で認められ、朝鮮半島においても高頻度で見られます。日本列島は、出アフリカの三大グループ(C系統・D~E系統・F~R系統)のそれぞれに由来する系統がいずれも確認できるという、世界的にも珍しい地域です。
旧石器時代
本書では、日本列島の大まかな時期区分は、中期旧石器時代→後期旧石器時代→新石器時代→金属器時代とされます。縄文時代とせず新石器時代となっているのは、日本列島を一つの縄文文化が覆ったとするには無理があるくらい、日本列島の文化が多様だからとされています。なお本書では、現生人類(ホモ=サピエンス)以外の人類については取り上げられていません。日本列島への人類の移住を大まかに見ていくと、後期旧石器時代にC3・Q系統が、新石器時代(縄文時代)にD2・C1・N系統が、金属器時代(弥生時代)以降にO2b・O2a系統とその他のO3・O1系統などが渡来したと推定され、現在までそれぞれの集団を維持しています。
日本列島の旧石器時代の区分法としては、次のようなものが提唱されています。後期旧石器時代以前(中期旧石器時代末)は45000~36000年前で、スクレイパーと基部加工剥片などによる石器が特徴です。後期旧石器時代前半は36000~29000年前で、台形石器・ナイフ型石器が中心で石刃技法も確立しました。後期旧石器時代中期~後半は29000~17000年前で、尖頭器と地域性が大きいナイフ型石器が特徴的です。後期旧石器時代末は17000~15000年前で、細石刃石器が日本列島各地に広がり、地域性の大きさが特徴です。29000年前に九州の姶良カルデラから噴出した姶良Tn火山灰によって、後期旧石器時代は前半と後半に分けられ、石器群の様相が29000年前を境に大きく変容を見せます。
そのため、後期旧石器時代前半に確立された石刃技法に基づく石器文化と、後期旧石器時代晩期にシベリアとの関連性が深いなかで流入してきた細石刃文化とでは、文化の相違とともに、その文化を担ってきた集団の相違も想定されています。まず石刃文化の担い手は、Q系統集団が想定されています。北海道では石刃技法に基づく石器の発掘が稀ですから、北海道経路ではなくシベリア-華北(極東)-朝鮮半島-九州という経路で石刃文化がもたらされた可能性が高いと思われます。
次に細石刃文化の担い手は、C3系統集団が想定されています。C3系統集団は、マンモス・ステップが2万年前頃に日本列島へ拡大したので、シベリアから日本列島へ南下してきたマンモスゾウを追ってきたと思われます。そのため、C3系統集団の日本列島への移動経路としては、サハリン→北海道が考えられますが、アイヌ民族と九州で比較的高頻度のC3系統が確認されることから、極東→朝鮮半島→九州という経路も考えられます。
後期旧石器時代には、マンモスゾウの他に華北由来のナウマンゾウとヤベオオツノシカも日本列島へ移動してきましたが、これを追ってきた人類集団は、C3系統ではなくQ系統の可能性が高そうです。ビタミンが壊されない生の肉食をするシベリア狩猟民の例からして、後期旧石器時代の狩猟民は、植物栄養源の採集に多くを頼らなくても、大型動物からの栄養源だけでじゅうぶんだったと思われます。
新石器時代のユーラシア東部
ユーラシア東部では、新石器時代の展開は地域の生態系などの要因によって異なっており、大きく三つに分かれていました。シベリアでは旧石器時代とあまり替わらない移動型狩猟採集生活が新石器時代になっても続けられていて、黄河流域や長江流域では、新石器時代を特徴づけるものとして農耕の開始が認められます。両者の中間地帯である日本列島や極東では、魚介類を対象とする漁撈・小型動物の狩猟・堅果類を中心とする植物採集を組み合わせた、定住型の生活が展開されました。
現在の中国に相当する地域の新石器時代における自然地理による地域区分は、華北・華中・華南・東北・モンゴル高原・新疆・チベット高原の七つとされます。華北における新石器時代の開始は、農耕・牧畜・磨製石器・土器・織物の出現を指標とし、その時期は12000年前とされます。華北ではアワを中心とする畑作農耕(雑穀農耕)と牧畜が同時に見られるようになりました。6500~6000年前頃に始まる、仰韶文化以降の雑穀農耕による黄河流域の文明を、黄河文明と称しています。黄河文明の担い手は、シナ・チベット語族の中国語を母語とする集団(03系統、漢民族に特異的な系統はO3e系統)とされています。
長江流域は、後期旧石器時代に細石刃文化ではなく剥片石器・礫器が広がっていて、黄河流域や東北部とは別の文化圏でした。長江流域を中心とする華中では、新石器時代になって世界ではじめて水稲を中心とする農耕が始まり、牧畜も行なわれていたようです。黄河文明より早く7000年前頃には始まる河姆渡文化以降の水稲農耕に基づく長江流域の文明を、長江文明と称しています。雑穀農耕の黄河文明と水稲農耕の長江文明は質的にも異なるうえに、担い手も異なっていたと推定されます。長江文明の担い手はオーストロアジア語族のO2系だと推定されています。長江文明は華北の黄河文明(中原の政治勢力)の拡大による圧迫により春秋戦国時代の末に崩壊してしまい(前473年の呉の滅亡と、前334年頃の越の滅亡とが指標となります)、長江文明を担った民であるO2系統は四散してしまいました。南方へ逃れた越の集団(O2a系統)以外にも、北東方向へ逃亡した集団(O2b系統)があり、その一部が倭と呼ばれていたようです。現在の長江流域には長江文明の母胎となった人々の言語は残っていませんが、東南アジアへ広く四散しているオーストロアジア系言語の民族へ、その言語と文化は受け継がれているようです。02系統は、現在にまでいたる水稲農耕という共通文化の基礎を提供しているかもしれません。
新石器時代早期の華南では、旧石器時代に連続する食糧採集型の移動生活が見られたようです。極東では日本列島と同様に新石器時代になり森林化が進んだことにより、ドングリやクルミなどの温帯落葉広葉樹林の堅果類による植物質食糧が容易に手に入るようになったため、アワ・キビなどの雑穀やイネによる農耕の必要性があまりなかったと思われますが、漁労は活発に行なわれていたようです。
朝鮮半島の水稲農耕は紀元前1000年紀中ごろまでには出現していたようで、その期限は直接的には長江文明に由来します。朝鮮半島南部では、紀元前5000年紀に西北九州と共通する漁撈文化が対馬海峡を挟んで出現してきますが、水稲文化の伝播以前なので、その担い手はO2系統ではなくD2系統と推定されます。朝鮮半島への黄河文明の影響は、文化的には早くからありましたが、政治的には遅れ、紀元前300年頃における中原勢力の嚥による遼西から遼東への進出に始まります。漢~晋による朝鮮半島西北部の400年にわたる直接支配による黄河文明の政治文化的影響は、朝鮮半島にとどまらず、日本列島にたいしても甚大だったたようです。
新石器時代の日本列島
完新世へと向かう気候の温暖化の進行とともに、大型動物の生存に適していたマンモス・ステップが減少し、人類による乱獲もあって大型動物がほとんどいなくなり、動物相の貧弱化を招いてしまいました。こうした状況のなか、旧石器時代における大型動物の狩猟中心の移動型生活から、植物質栄養源の採集比率の増加・漁撈による動物質栄養資源の確保・補助的ながら雑穀農耕による植物栄養資源の生産・小動物の狩猟など、多様な栄養源確保様式の組み合わせによる定住生活の新石器時代へと、日本列島は移行していくことになります。新石器時代には多くの新技術が出現しますが、それは環境変化に対応してのことだったかもしれません。
土器の製作・漁撈技術の発達・植物資源の積極的確保(植物栽培・雑穀農耕)の開始・日本列島を南限とするユーラシア北部特徴的な長期定住生活にむいた竪穴式住居の建設などが、新石器時代の始まりの特徴です。新石器時代の開始年代については、土器の出現と石器の変化のどちらを重視するかで見解が分かれており、15000年前説と12000年前説とがあります。日本列島では地域ごとに新石器時代への移行年代が異なりますが、この背景として、多様な文化的接触や多種類の集団の日本列島への移住が考えられます。
日本列島が新石器時代に移行するにあたって重要な役割を果たしたと考えられるのが、朝鮮半島経由で九州へ流入したと思われるD2系統集団で、縄文文化の形成に大きく寄与したと推定されます。その他には、新石器時代に経路不明ながら南九州へ達したC1集団が貝文文化をもたらしたと推定され、新石器時代における多様な文化の形成に役立っています。N系統の流入も新石器時代と考えられ、なんらかの影響を与えたと想定されます。
新石器時代草創期においてすでに、後期旧石器時代にとどまる北海道・東日本型隆起線文土器文化圏・西日本型隆起線文土器文化圏・九州型隆起線文土器に細石刃を伴う北部九州文化圏・南九州文化圏・土器のない琉球諸島というように、日本列島は多様な文化圏に分かれて発展していき、西北九州は朝鮮半島南部と、北海道はシベリアと密接な関係を築きました。この時代の日本列島の文化は縄文文化で代表されることもありますが、南九州は6300年前の鬼界カルデラの大爆発まで、南方島嶼部との関連性が推定されている縄文文化とは異質の貝文土器が栄えていましたし、琉球も縄文文化とは異なる文化を築いていました。琉球の場合、南北でも文化の大きな違いが指摘されています。
金属器時代以降の日本列島中間部
金属器時代(弥生時代)になり、長江文明起源の水稲農耕文化が日本列島にも及ぶようになりました。長江文明崩壊(紀元前5~4世紀の呉越の滅亡)により、その担い手であるO2b系統集団が朝鮮半島や日本列島へ避難してきたことが指摘されていますが、考古学的には、朝鮮半島における無文土器時代の水稲農耕拡大の時期、および日本列島に大規模な水稲農耕がもたらされた弥生時代の開始時期とも一致しています。
いわゆる渡来系弥生人は、長江文明の担い手だったオーストロアジア語系02b系統集団であり、一度に多数が移住してきたのではなく、少数の集団が何回にも分かれて細々と九州へたどり着いたと推定されています。形質人類学からも、弥生時代の九州では渡来系弥生人と先住の縄文系が共存していることが指摘されており、D2系統がO2b系統に駆逐されなかったことからも、渡来系弥生人と先住系縄文の共存がうかがえます。
日本列島への黄河文明の政治的影響が強まるのは、前107年の楽浪郡設置以降のことです。朝鮮半島経由で国家形成の政治的動きが伝わることで、日本列島でも地域国家間の争いが起き、混乱の時代を迎えたと想像できます。3世紀後半以降の古墳時代になると、朝鮮半島と連動してさらに黄河(中華)文明の影響が強まり、それは仏教の導入、その後の中国式政治制度の導入により続き、さらに中華文明の支配下へ組み込まれることになりました。ただ、黄河文明の担い手と考えられるO3系統、とくに漢民族に特異的なO3e系統は本州での比率があまり高くなく、漢民族の日本列島中間部への直接の流入はわずかだと推定されます。
日本列島中間部の言語
日本列島の言語は、アイヌ語・日本語・琉球語に大きく分けられます。本来のアイヌ語地域は、現在のように北海道だけではなく、サハリンの南半分と千島列島全域(クリル諸島)も含んでいました。青森・秋田・岩手も、アイヌ語地名が存在し、古代エミシの居住地域だったことから、かつてはアイヌ語地域だったと考えられます。北海道のアイヌ語内部において、相互理解が困難な複数の言語が確認されますが、まだアイヌ語内部の差異についてじゅうぶんな解明はなされていません。北海道アイヌ語の大まかな分類は、東部・中部・西部の三つとなりますが、東部は広範囲で内部の言語差が大きいのが特徴です。
琉球語の分類の一例は、北(奄美・沖縄諸島北部・沖縄諸島中南部)・南(宮古・八重山・与那国)というものです。こうしたことから、日本語圏としての本来の地域は、日本列島中間部に限定するのが適切だと思われます。日本語と琉球語は同系統の言語ですが、アイヌ語は両者とは別系統で、世界的にみても孤立言語です。
日本列島中間部では、19世紀まで地域語間あるいは方言間の差異がひじょうに大きく、ときには相互疎通性を欠くほどの違いが認められました。日本列島中間部の諸語の分類例の一つが、九州(西九州・南九州・北東部九州)・西部日本(山陽山陰・四国・関西・出雲・北陸・中京)・東部日本(東海東山・関東・八丈島・東北)で、九州語は相互の言語学的差異がとくに大きく、そのなかでも西九州語内部の差異がとくに大きいと指摘されています。
一般に言語的差異の大きい地域は言語発祥の地とみさなれ、日本語の成立において九州、とくに西九州の重要性が注目されています。逆に、広い地域で言語の共通性が認められる場合は、二次的な言語交替が起きた可能性があり、本州語地域では関西語・北陸語・東海東山語・関東語・東北語などが、海外ではヨーロッパ語・テュルク語などがその例として挙げられます。
日本語の成立過程については、まだ有力な仮説がほとんどない状態ですが、渡来系弥生人O2b系統集団が元々はオーストロアジア語族だったとすると、渡来系弥生人は母語を喪失し、移住先の日本語を使用するようになったと考えるのが妥当でしょう。ただ、日本語のなかの水稲文化関連の用語とオーストロアジア系言語との近親性が報告されており、O2b系統集団が日本語に与えた影響もあると思われます。
日本語(の祖語)を日本列島に持ち込んだ可能性が高いのは、縄文系集団の中心であるD2系統です。旧石器時代以来、日本列島は多様な文化を育んできており、新石器時代草創期・早期の日本列島では、さまざまな系統の言語が使用されていたと考えられます。しかし新石器時代前期以降、地域性を残しながらも、次第に縄文文化による共通性が見られるようになり、結果的にはD2系統集団が日本列島で多数を占めるようになったと考えられます。
D系統は15000年前かそれ以前に、東南アジアを経てユーラシア東部を陸伝いに北上してきたとも考えられており、現代オーストロネシア系言語の基層語となっているものの、現在では消滅してしまった諸言語との接触があった可能性もあります。じゅうらいの日本語・アイヌ語系統論では、オーストロネシア系言語との接触の可能性が想定されていましたが、D系統の移動経路を考慮すると、その可能性もあります。D2系統がまとまって確認できるのは日本列島だけなので、日本語祖語と同系統の言語を世界中で探しても発見できなかったのは当然と言えます。
アイヌ民族と北海道の歴史
北海道の考古学的時代区分は、20000~13000年前までの後期旧石器時代・13000~2300年前までの新石器時代・2300年前~紀元後7世紀までの続新石器時代・7~13世紀までのオホーツク文化擦文文化並立時代・13世紀以降のアイヌ文化時代に分けられます。紀元後5~10世紀にかけて道北およびオホーツク海岸に展開したオホーツク文化は、民族的にも文化的にもアイヌとは異なる北方系の文化です。
アイヌ民族の母胎は、後期旧石器時代にサハリン経由で北海道へ流入した細石刃文化系C3系統集団であり、アイヌ語の提示部表示言語や包合語という北方的性格からすると、この細石刃文化系に由来する言語がアイヌ語である可能性が推定されます。その後、新石器時代になって日本列島中間部を経て北上してきた縄文文化とその担い手D2系統集団と出会うことで、シベリア系北方文化と縄文系日本系文化というアイヌ文化の二つの要素が備わることになりました。
その後、北海道へは北からの文化が数次にわたって流入してきて、地域ごとに異なった文化圏が並存することになりますが、続新石器時代の道央を基礎とする江別文化が原アイヌ文化とも言える存在で、江別文化の南方(東北北部)と北方(サハリン南部・クリル諸島南部)への拡大とが、アイヌ語地名拡大の理由と推定されます。その後、江別文化の衰退、本州北部を通しての日本文化の影響の強い擦文文化への変化、オホーツク文化の影響を直接受けることによる北方的要素の増強を経て、13世紀頃から再度北方シベリア系の要素が強いアイヌ文化の成立を見ることになったと思われます。
こうしてみると、アイヌ文化を縄文文化と同一視することはできません。DNA多型でも文化でも、アイヌ民族・文化はシベリア系北方文化の要素を強く保持し、日本列島中間部に固有の要素が加味されたものだと想定されます。言語については、アイヌ語の南限が東北北部であること、縄文系言語(日本語)とアイヌ語が系統的にまったく異なることなどから、アイヌ語はシベリア系の古い言語を保持している可能性が高いと思われます。新石器時代人の言語(縄文語)は一つではなかった可能性もありますが、アイヌ語は少なくとも、日本列島中間部の縄文語を形成したとは考えにくく、アイヌ語の故地は北海道であり、その使用域は北海道とその周辺に限定されていたと考えるのが妥当なようです。
アイヌ民族の価値観
以上のように、アイヌ文化を単純に縄文文化と同一視するわけにはいきませんが、北海道の新石器時代文化の要素をもっとも多く現代に伝えているのがアイヌ文化であるとの判断は妥当でしょう。アイヌ文化の特質を挙げると、次のようになります。
●一般に、宗教的伝統のなかにはそれを生んだ社会の構成原理が刻印されていますから、カムイ(アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在)とヒト(アイヌ)との存在論的平等性というアイヌ民族の宗教観念から、平等を旨とした社会構成原理がうかがえます。また、周囲の生物だけではなく自然現象にまでカムイの力を感じることができるアイヌ文化の繊細な心は、食料とする生物への畏敬とその犠牲への感謝の念へと至り、環境に活かされているという安心感を得ることへのお返しとして、環境を守るという積極的な姿勢を生み出していると考えられます。このような存在論的平等性の世界観をもつ文化では、他者にたいする寛容も育んでいるようです。アイヌ文化に内包されているこうした価値は、強力な統率者による民衆支配という社会構成原理を有する欧州・キリスト教文明の人々にはまったく理解されなかったようです。アイヌ文化は、現在支配的な欧州・キリスト教文明に対する代替原理を提示しうるものです。
●自然資源や生態系の全体的把握と存在論的平等性により、自然資源を枯渇させないようにする智慧(持続可能性についての理解)が備わっているようです。縄文文化の生活様式は必ずしも環境に優しくありませんでしたが、ある一つの資源を枯渇するまで採取することは避けて、生態系全体への理解があったことが縄文文化の本質だと指摘されています。21世紀という環境問題が逼迫する時代において、新たな解決策を示すことができる可能性を秘めています。
●超越的世界と地上の世界とが共存しあうようなアイヌ民族の世界観は、存在論的裂け目をもたない安定性を有しており、キリスト教、とくにキリスト教終末論のなかにその源泉がある、不完全なものから完全なものへと絶えず進んでいかなければならないという時間軸を持つ、不安定な文化的要素とは対照的です。このようなキリスト教を背景とする欧州文明は、「唯一の価値をもつ欧州文明の支配が進歩主義の目標点」であるかのような誤解を与えかねません。また、進歩主義が内包する問題点として、先進国の文化のみが優れているとし、非欧州的伝統にある少数民族に内包される精神的価値観がもつ重要性を見落とす危険性が指摘できます。
●このような伝統的精神的遺産をもつアイヌ文化は、アイヌ語を媒体としてしかその価値観を表現できません。アイヌ語存続の必要性は、アイヌ語の言語保護という観点、さらに他に類似する言語がないという希少価値の観点からも論じられることが多いのですが、もっとも重要なのは、アイヌ語を媒体としてのみでしかアイヌ文化の価値が十全に表現できず、アイヌ語が消滅してしまえば、そのようなアイヌ文化の精神的遺産も消滅してしまうことにあるのではないかと思われます。
琉球の歴史
ここでの琉球とはかつての琉球王国の範囲であり、薩南諸島から大隅諸島(種子島・屋久島など)とトカラ諸島をのぞいて奄美諸島のみを琉球に含み、奄美諸島と沖縄諸島とが北琉球、先島諸島の宮古諸島と八重山諸島が南琉球ということになります。
琉球の先史時代は、日本列島中間部とはかなり異なります。北琉球の歴史は、7000年前から始まる漁撈を中心とした貝塚文化に代表されますが、これは縄文文化とは本質的に異なります。これにたいして南琉球では、貝塚文化と本質的に異なる先島先史文化が、4000年前から興ってくるようです。紀元後11~12世紀頃より南北に共通するグスク時代へと移っていき、琉球諸島全体が一つの文化圏へと統合されていきました。14世紀から沖縄本島に三つの政治勢力が起こり対立した後、1429年に統一王朝時代へと移っていきました。
北琉球先史時代人である貝塚文化人についてはまだはっきりしたことが分からず、南方系と考えられるC1系統の可能性が考えられます。形質人類学からも、貝塚文化人は中間部縄文人D2系統と異なることが指摘されています。もしそうなら、南九州では貝文文化を起した集団が北琉球では貝塚文化を起したということになります。その他には、南方島嶼部に特徴的なM系統・K系統・他のC系統などの集団が、貝塚文化を担った可能性があります。
南琉球の先島先史文化人については、台湾やフィリピンなどのオーストロネシア系文化の影響にあったことが推定されていて、現在でも、オーストロネシア系文化が先島諸島に色濃く残っているので、O1系統の可能性が高そうです。また、貝文文化人C1系統が先島先史文化に関係していた可能性も同時に想定できます。
こうしたことから、琉球諸島の先史時代の住民は、日本列島中間部の縄文人D2系統集団とは異なり、C1系統・O1系統が想定されます。これは、琉球諸島先住民がC3系統・D2系統のアイヌ民族の祖先とは異なる集団だったことを支持します。つまり、アイヌ琉球同系論およびその前提となっている二重構造モデルは琉球において支持されないことを意味し、形質人類学からも同じような見解が表明されています。
こうした状況はグスク時代の到来とともに様変わりしてしまいます。形質人類学からは、先史時代とは異なり、グスク時代の琉球諸島集団は日本列島中間部とあまり相違しないという報告がなされており、先史時代とグスク時代とでは、琉球諸島において集団の大きな交替が起きたことが指摘されています。これはDNA多型分析からも支持され、北琉球で先史時代のC1系統からグスク時代以降のD2・O2b・O3系統へ交替があったと推定されます。
こうした交替には理由があり、グスク時代において、西九州・長崎産の石鍋が南北琉球全域で流通するようになり、徳之島に亀焼窯が設置され、石鍋とともに亀焼が流通する経済圏が琉球諸島全体で形成されるようになりました。この変化は、琉球内部の発展というよりも、九州からの人の流れが決定的な役割を果たしたと推定されます。同時に、先史時代の非琉球語から、九州よりもたらされた日本語系の琉球語への転換も引き起こされました。その流れは北琉球にとどまらず、南琉球を含む琉球諸島全域にまで及んだようです。グスク時代には農耕も始まります。
琉球民族は、日本列島中間部と北海道で共通する縄文文化を欠き、琉球王国という独自の国家を500年間維持し、独自に中国との外交関係を築いて東南アジアや朝鮮半島などとも広範な交易関係を結んで、多くの海外文化を独自に取り入れてきたという形成過程を経ているので、狭義の日本文化の範疇ではとらえられない、広範囲な検討を要する独自の文化的伝統を築いてきました。
日本列島におけるY染色体の系統
本書では地理・民族・言語の観点から、日本列島は北海道(アイヌ民族)・中間部(本州・四国・九州)・琉球の三つに区分され、それぞれ異なる歴史を経て現在にいたっているとされます。そうした歴史を反映して、日本列島においてはY染色体DNA(基本的に父系遺伝)の多様性が維持されてきました。
Y染色体の系統は、アフリカ固有のA・Bと、それ以外のC~R(アフリカ集団と非アフリカ集団)のハプログループに分類されます。現代人にとってのY染色体における最終共通祖先の存在年代は、9万年前頃になります。Y染色体の系統では、まずA系統とB~R系統が分岐し、その後にB系統とC~R系統が分岐しました。A系統とB系統はアフリカでしか確認されず、Y染色体DNAの分析からも、現生人類(ホモ=サピエンス)のアフリカ単一起源説が支持されることになりました。
出アフリカを果たしたC~R系統(すべてが出アフリカを果たしたわけではありません)は、C・D~E・F~Rの三つに大別され、日本列島にはその三つの系統のいずれも存在します。出アフリカの経路としては、北アフリカからレバノン回廊を通る中東ルートと、東アフリカ(アフリカの角)からアラビア半島を経てインドへといたる南アジアルートが想定されています。日本列島中間部のY染色体DNAの収容な系統は、次のようになります。
●C系統・・・日本列島全体としては、C3系統もC1系統も低頻度になります。シベリアにおいて高頻度で見られるC3系統は、九州では比較的高頻度で、四国・本州でもわずかに見られ、アイヌ民族にも認められますが、琉球では確認されていません。C1系統は太平洋側を中心に見られ、琉球にも認められますが、アイヌ民族では確認されていません。C系統はまずユーラシア南部(インド)へ達した後、東へ南経路で移動してインドネシア東部とパプアニューギニアへ達し、オセアニア各地やオーストラリア(Cの特殊な亜型が見られます)へ到達したと思われます。C1系統は日本でしか見られず、インドの集団から直接日本の集団へ分岐したと推定されますが、その移動ルートは不明です。C1系統は、航海術と貝文土器を携えて新石器時代早期に日本中部に達した、貝文文化の民との関連が注目されます。C3系統はユーラシア南部を経てユーラシア東部を北上していき、シベリアで大繁栄したと推定されます。C3系統の一部はシベリアからサハリン経由で北海道へ達したと想定されますが、朝鮮半島経由で九州へ達した経路も想定できます。
●D系統・・・D1・D2・D3という各系統に分かれるD系統は、ユーラシア東部に限局されます。日本列島では世界的に稀なほどD2系統の高い集積が見られますが、D1系統は低頻度で、D3系統は見られません。チベットではD1系統(16%)とD3系統(33%)に高い集積が見られます。D系統は出アフリカ後、ユーラシア南部を東へ移動した後、東南アジアを経て北上し、華北からモンゴル・チベット・朝鮮半島~日本列島へと達したようです。D系統の祖型の分布時期は13000年前と推定されており、D系統は新石器時代のユーラシア東部においてもっと広がっていた系統である可能性が考えられます。しかし現在、ユーラシア東部ではD系統は稀な系統になっており、日本列島に最大の集積地点が残り、その他では遠く西に離れたチベットにD系統が高頻度で存続するだけですから、両者を分ける広大な地域には、後に別の集団が割り込んできたと予想されます。
●N系統・・・シベリア北西部と北欧(とくにウラル系)に高い集積を示していますが、シベリア東部や日本列島では低頻度でしか見られず、アイヌ民族と琉球では確認されていません。N系統はO系統とひじょうに近い分化の経路をたどり、N系統の分岐年代は8800年前または6900年前と推定されています。N系統は新石器時代に中国大陸から朝鮮半島を経て日本列島に流入してきた集団と関連と想定されていますが、その文化についてはまだよく分かっていません。
●O系統・・・O系統はユーラシア東部に限局して見られます。O系統の発祥地としては東南アジア南部が想定されており、O系統の分岐時期は17500年前か10700年前、その移動開始時期は8100年前と推定されています。O2b系統の分岐時期は3300年前、その移動開始時期は2800年前と推定されています。O2a系統は華南から東南アジアに高い集積が見られますが、日本列島ではほとんど確認されておらず、日本列島と朝鮮半島ではO2b系統が高頻度で認められます。03系統はO2系統と比較すると日本列島ではやや少なく、O3系統の亜型とされる03e系統は東京で9%と確認されています。O3c系統はミャオ・ヤオ系に高い集積が認められ、その他では華南・東南アジアを中心に広がっていますが、日本列島ではほとんど確認されていません。O系統はアイヌでは未確認ですが、琉球では主要な系統になっています。O1系統は台湾先住民の間において特異的に高頻度で見られる他、フィリピンやその他の南方島嶼部でも認められ、言語的にはオーストロネシア系との関連が想定されています。O1系統は東アジア南部でも見られ、東アジア北部や日本列島でも低頻度ながら見られます。
まとめると、それぞれ頻度に差があるとはいえ、日本列島の主要な系統はC1・C3・D2・N・O2b・O3と言え、この主要6系統以外では、D1・O1・O2a・Qなどが散発的に見られます。Q系統の祖先型は、後期旧石器時代に中央アジアを経てシベリアのアルタイ山脈へ達して石刃文化の担い手となり、分化したQ系統がシベリア東部へ向かい、その一部は南下して日本列島へ達したと推定されています。
アイヌ民族のY染色体DNAについてはじゅうぶんなデータが得られておらず、正確なことは不明ですが、少ない報告例によると、C3とD2の2系統に分けられます。現在までの報告では、O・N・C1・Qの各系統はアイヌ民族には認められていません。
琉球諸島は南北に分けられます。まだ調査が不充分という限界を踏まえたうえで現在までの報告を見ていくと、琉球ではC3系統とN系統が確認されておらず、C1系統が沖縄で4%確認されていることと、琉球の南北でD系統とO2b系統の頻度に大きな違いがあることが注目されます。D系統は、北琉球では39%と高頻度で認められますが、南琉球では4%しか見られません。O2b系統は、北琉球では日本列島中間部とほぼ同程度の30%ていど見られるのにたいして、南琉球では67%と世界的にもっとも高頻度で認められ、朝鮮半島においても高頻度で見られます。日本列島は、出アフリカの三大グループ(C系統・D~E系統・F~R系統)のそれぞれに由来する系統がいずれも確認できるという、世界的にも珍しい地域です。
旧石器時代
本書では、日本列島の大まかな時期区分は、中期旧石器時代→後期旧石器時代→新石器時代→金属器時代とされます。縄文時代とせず新石器時代となっているのは、日本列島を一つの縄文文化が覆ったとするには無理があるくらい、日本列島の文化が多様だからとされています。なお本書では、現生人類(ホモ=サピエンス)以外の人類については取り上げられていません。日本列島への人類の移住を大まかに見ていくと、後期旧石器時代にC3・Q系統が、新石器時代(縄文時代)にD2・C1・N系統が、金属器時代(弥生時代)以降にO2b・O2a系統とその他のO3・O1系統などが渡来したと推定され、現在までそれぞれの集団を維持しています。
日本列島の旧石器時代の区分法としては、次のようなものが提唱されています。後期旧石器時代以前(中期旧石器時代末)は45000~36000年前で、スクレイパーと基部加工剥片などによる石器が特徴です。後期旧石器時代前半は36000~29000年前で、台形石器・ナイフ型石器が中心で石刃技法も確立しました。後期旧石器時代中期~後半は29000~17000年前で、尖頭器と地域性が大きいナイフ型石器が特徴的です。後期旧石器時代末は17000~15000年前で、細石刃石器が日本列島各地に広がり、地域性の大きさが特徴です。29000年前に九州の姶良カルデラから噴出した姶良Tn火山灰によって、後期旧石器時代は前半と後半に分けられ、石器群の様相が29000年前を境に大きく変容を見せます。
そのため、後期旧石器時代前半に確立された石刃技法に基づく石器文化と、後期旧石器時代晩期にシベリアとの関連性が深いなかで流入してきた細石刃文化とでは、文化の相違とともに、その文化を担ってきた集団の相違も想定されています。まず石刃文化の担い手は、Q系統集団が想定されています。北海道では石刃技法に基づく石器の発掘が稀ですから、北海道経路ではなくシベリア-華北(極東)-朝鮮半島-九州という経路で石刃文化がもたらされた可能性が高いと思われます。
次に細石刃文化の担い手は、C3系統集団が想定されています。C3系統集団は、マンモス・ステップが2万年前頃に日本列島へ拡大したので、シベリアから日本列島へ南下してきたマンモスゾウを追ってきたと思われます。そのため、C3系統集団の日本列島への移動経路としては、サハリン→北海道が考えられますが、アイヌ民族と九州で比較的高頻度のC3系統が確認されることから、極東→朝鮮半島→九州という経路も考えられます。
後期旧石器時代には、マンモスゾウの他に華北由来のナウマンゾウとヤベオオツノシカも日本列島へ移動してきましたが、これを追ってきた人類集団は、C3系統ではなくQ系統の可能性が高そうです。ビタミンが壊されない生の肉食をするシベリア狩猟民の例からして、後期旧石器時代の狩猟民は、植物栄養源の採集に多くを頼らなくても、大型動物からの栄養源だけでじゅうぶんだったと思われます。
新石器時代のユーラシア東部
ユーラシア東部では、新石器時代の展開は地域の生態系などの要因によって異なっており、大きく三つに分かれていました。シベリアでは旧石器時代とあまり替わらない移動型狩猟採集生活が新石器時代になっても続けられていて、黄河流域や長江流域では、新石器時代を特徴づけるものとして農耕の開始が認められます。両者の中間地帯である日本列島や極東では、魚介類を対象とする漁撈・小型動物の狩猟・堅果類を中心とする植物採集を組み合わせた、定住型の生活が展開されました。
現在の中国に相当する地域の新石器時代における自然地理による地域区分は、華北・華中・華南・東北・モンゴル高原・新疆・チベット高原の七つとされます。華北における新石器時代の開始は、農耕・牧畜・磨製石器・土器・織物の出現を指標とし、その時期は12000年前とされます。華北ではアワを中心とする畑作農耕(雑穀農耕)と牧畜が同時に見られるようになりました。6500~6000年前頃に始まる、仰韶文化以降の雑穀農耕による黄河流域の文明を、黄河文明と称しています。黄河文明の担い手は、シナ・チベット語族の中国語を母語とする集団(03系統、漢民族に特異的な系統はO3e系統)とされています。
長江流域は、後期旧石器時代に細石刃文化ではなく剥片石器・礫器が広がっていて、黄河流域や東北部とは別の文化圏でした。長江流域を中心とする華中では、新石器時代になって世界ではじめて水稲を中心とする農耕が始まり、牧畜も行なわれていたようです。黄河文明より早く7000年前頃には始まる河姆渡文化以降の水稲農耕に基づく長江流域の文明を、長江文明と称しています。雑穀農耕の黄河文明と水稲農耕の長江文明は質的にも異なるうえに、担い手も異なっていたと推定されます。長江文明の担い手はオーストロアジア語族のO2系だと推定されています。長江文明は華北の黄河文明(中原の政治勢力)の拡大による圧迫により春秋戦国時代の末に崩壊してしまい(前473年の呉の滅亡と、前334年頃の越の滅亡とが指標となります)、長江文明を担った民であるO2系統は四散してしまいました。南方へ逃れた越の集団(O2a系統)以外にも、北東方向へ逃亡した集団(O2b系統)があり、その一部が倭と呼ばれていたようです。現在の長江流域には長江文明の母胎となった人々の言語は残っていませんが、東南アジアへ広く四散しているオーストロアジア系言語の民族へ、その言語と文化は受け継がれているようです。02系統は、現在にまでいたる水稲農耕という共通文化の基礎を提供しているかもしれません。
新石器時代早期の華南では、旧石器時代に連続する食糧採集型の移動生活が見られたようです。極東では日本列島と同様に新石器時代になり森林化が進んだことにより、ドングリやクルミなどの温帯落葉広葉樹林の堅果類による植物質食糧が容易に手に入るようになったため、アワ・キビなどの雑穀やイネによる農耕の必要性があまりなかったと思われますが、漁労は活発に行なわれていたようです。
朝鮮半島の水稲農耕は紀元前1000年紀中ごろまでには出現していたようで、その期限は直接的には長江文明に由来します。朝鮮半島南部では、紀元前5000年紀に西北九州と共通する漁撈文化が対馬海峡を挟んで出現してきますが、水稲文化の伝播以前なので、その担い手はO2系統ではなくD2系統と推定されます。朝鮮半島への黄河文明の影響は、文化的には早くからありましたが、政治的には遅れ、紀元前300年頃における中原勢力の嚥による遼西から遼東への進出に始まります。漢~晋による朝鮮半島西北部の400年にわたる直接支配による黄河文明の政治文化的影響は、朝鮮半島にとどまらず、日本列島にたいしても甚大だったたようです。
新石器時代の日本列島
完新世へと向かう気候の温暖化の進行とともに、大型動物の生存に適していたマンモス・ステップが減少し、人類による乱獲もあって大型動物がほとんどいなくなり、動物相の貧弱化を招いてしまいました。こうした状況のなか、旧石器時代における大型動物の狩猟中心の移動型生活から、植物質栄養源の採集比率の増加・漁撈による動物質栄養資源の確保・補助的ながら雑穀農耕による植物栄養資源の生産・小動物の狩猟など、多様な栄養源確保様式の組み合わせによる定住生活の新石器時代へと、日本列島は移行していくことになります。新石器時代には多くの新技術が出現しますが、それは環境変化に対応してのことだったかもしれません。
土器の製作・漁撈技術の発達・植物資源の積極的確保(植物栽培・雑穀農耕)の開始・日本列島を南限とするユーラシア北部特徴的な長期定住生活にむいた竪穴式住居の建設などが、新石器時代の始まりの特徴です。新石器時代の開始年代については、土器の出現と石器の変化のどちらを重視するかで見解が分かれており、15000年前説と12000年前説とがあります。日本列島では地域ごとに新石器時代への移行年代が異なりますが、この背景として、多様な文化的接触や多種類の集団の日本列島への移住が考えられます。
日本列島が新石器時代に移行するにあたって重要な役割を果たしたと考えられるのが、朝鮮半島経由で九州へ流入したと思われるD2系統集団で、縄文文化の形成に大きく寄与したと推定されます。その他には、新石器時代に経路不明ながら南九州へ達したC1集団が貝文文化をもたらしたと推定され、新石器時代における多様な文化の形成に役立っています。N系統の流入も新石器時代と考えられ、なんらかの影響を与えたと想定されます。
新石器時代草創期においてすでに、後期旧石器時代にとどまる北海道・東日本型隆起線文土器文化圏・西日本型隆起線文土器文化圏・九州型隆起線文土器に細石刃を伴う北部九州文化圏・南九州文化圏・土器のない琉球諸島というように、日本列島は多様な文化圏に分かれて発展していき、西北九州は朝鮮半島南部と、北海道はシベリアと密接な関係を築きました。この時代の日本列島の文化は縄文文化で代表されることもありますが、南九州は6300年前の鬼界カルデラの大爆発まで、南方島嶼部との関連性が推定されている縄文文化とは異質の貝文土器が栄えていましたし、琉球も縄文文化とは異なる文化を築いていました。琉球の場合、南北でも文化の大きな違いが指摘されています。
金属器時代以降の日本列島中間部
金属器時代(弥生時代)になり、長江文明起源の水稲農耕文化が日本列島にも及ぶようになりました。長江文明崩壊(紀元前5~4世紀の呉越の滅亡)により、その担い手であるO2b系統集団が朝鮮半島や日本列島へ避難してきたことが指摘されていますが、考古学的には、朝鮮半島における無文土器時代の水稲農耕拡大の時期、および日本列島に大規模な水稲農耕がもたらされた弥生時代の開始時期とも一致しています。
いわゆる渡来系弥生人は、長江文明の担い手だったオーストロアジア語系02b系統集団であり、一度に多数が移住してきたのではなく、少数の集団が何回にも分かれて細々と九州へたどり着いたと推定されています。形質人類学からも、弥生時代の九州では渡来系弥生人と先住の縄文系が共存していることが指摘されており、D2系統がO2b系統に駆逐されなかったことからも、渡来系弥生人と先住系縄文の共存がうかがえます。
日本列島への黄河文明の政治的影響が強まるのは、前107年の楽浪郡設置以降のことです。朝鮮半島経由で国家形成の政治的動きが伝わることで、日本列島でも地域国家間の争いが起き、混乱の時代を迎えたと想像できます。3世紀後半以降の古墳時代になると、朝鮮半島と連動してさらに黄河(中華)文明の影響が強まり、それは仏教の導入、その後の中国式政治制度の導入により続き、さらに中華文明の支配下へ組み込まれることになりました。ただ、黄河文明の担い手と考えられるO3系統、とくに漢民族に特異的なO3e系統は本州での比率があまり高くなく、漢民族の日本列島中間部への直接の流入はわずかだと推定されます。
日本列島中間部の言語
日本列島の言語は、アイヌ語・日本語・琉球語に大きく分けられます。本来のアイヌ語地域は、現在のように北海道だけではなく、サハリンの南半分と千島列島全域(クリル諸島)も含んでいました。青森・秋田・岩手も、アイヌ語地名が存在し、古代エミシの居住地域だったことから、かつてはアイヌ語地域だったと考えられます。北海道のアイヌ語内部において、相互理解が困難な複数の言語が確認されますが、まだアイヌ語内部の差異についてじゅうぶんな解明はなされていません。北海道アイヌ語の大まかな分類は、東部・中部・西部の三つとなりますが、東部は広範囲で内部の言語差が大きいのが特徴です。
琉球語の分類の一例は、北(奄美・沖縄諸島北部・沖縄諸島中南部)・南(宮古・八重山・与那国)というものです。こうしたことから、日本語圏としての本来の地域は、日本列島中間部に限定するのが適切だと思われます。日本語と琉球語は同系統の言語ですが、アイヌ語は両者とは別系統で、世界的にみても孤立言語です。
日本列島中間部では、19世紀まで地域語間あるいは方言間の差異がひじょうに大きく、ときには相互疎通性を欠くほどの違いが認められました。日本列島中間部の諸語の分類例の一つが、九州(西九州・南九州・北東部九州)・西部日本(山陽山陰・四国・関西・出雲・北陸・中京)・東部日本(東海東山・関東・八丈島・東北)で、九州語は相互の言語学的差異がとくに大きく、そのなかでも西九州語内部の差異がとくに大きいと指摘されています。
一般に言語的差異の大きい地域は言語発祥の地とみさなれ、日本語の成立において九州、とくに西九州の重要性が注目されています。逆に、広い地域で言語の共通性が認められる場合は、二次的な言語交替が起きた可能性があり、本州語地域では関西語・北陸語・東海東山語・関東語・東北語などが、海外ではヨーロッパ語・テュルク語などがその例として挙げられます。
日本語の成立過程については、まだ有力な仮説がほとんどない状態ですが、渡来系弥生人O2b系統集団が元々はオーストロアジア語族だったとすると、渡来系弥生人は母語を喪失し、移住先の日本語を使用するようになったと考えるのが妥当でしょう。ただ、日本語のなかの水稲文化関連の用語とオーストロアジア系言語との近親性が報告されており、O2b系統集団が日本語に与えた影響もあると思われます。
日本語(の祖語)を日本列島に持ち込んだ可能性が高いのは、縄文系集団の中心であるD2系統です。旧石器時代以来、日本列島は多様な文化を育んできており、新石器時代草創期・早期の日本列島では、さまざまな系統の言語が使用されていたと考えられます。しかし新石器時代前期以降、地域性を残しながらも、次第に縄文文化による共通性が見られるようになり、結果的にはD2系統集団が日本列島で多数を占めるようになったと考えられます。
D系統は15000年前かそれ以前に、東南アジアを経てユーラシア東部を陸伝いに北上してきたとも考えられており、現代オーストロネシア系言語の基層語となっているものの、現在では消滅してしまった諸言語との接触があった可能性もあります。じゅうらいの日本語・アイヌ語系統論では、オーストロネシア系言語との接触の可能性が想定されていましたが、D系統の移動経路を考慮すると、その可能性もあります。D2系統がまとまって確認できるのは日本列島だけなので、日本語祖語と同系統の言語を世界中で探しても発見できなかったのは当然と言えます。
アイヌ民族と北海道の歴史
北海道の考古学的時代区分は、20000~13000年前までの後期旧石器時代・13000~2300年前までの新石器時代・2300年前~紀元後7世紀までの続新石器時代・7~13世紀までのオホーツク文化擦文文化並立時代・13世紀以降のアイヌ文化時代に分けられます。紀元後5~10世紀にかけて道北およびオホーツク海岸に展開したオホーツク文化は、民族的にも文化的にもアイヌとは異なる北方系の文化です。
アイヌ民族の母胎は、後期旧石器時代にサハリン経由で北海道へ流入した細石刃文化系C3系統集団であり、アイヌ語の提示部表示言語や包合語という北方的性格からすると、この細石刃文化系に由来する言語がアイヌ語である可能性が推定されます。その後、新石器時代になって日本列島中間部を経て北上してきた縄文文化とその担い手D2系統集団と出会うことで、シベリア系北方文化と縄文系日本系文化というアイヌ文化の二つの要素が備わることになりました。
その後、北海道へは北からの文化が数次にわたって流入してきて、地域ごとに異なった文化圏が並存することになりますが、続新石器時代の道央を基礎とする江別文化が原アイヌ文化とも言える存在で、江別文化の南方(東北北部)と北方(サハリン南部・クリル諸島南部)への拡大とが、アイヌ語地名拡大の理由と推定されます。その後、江別文化の衰退、本州北部を通しての日本文化の影響の強い擦文文化への変化、オホーツク文化の影響を直接受けることによる北方的要素の増強を経て、13世紀頃から再度北方シベリア系の要素が強いアイヌ文化の成立を見ることになったと思われます。
こうしてみると、アイヌ文化を縄文文化と同一視することはできません。DNA多型でも文化でも、アイヌ民族・文化はシベリア系北方文化の要素を強く保持し、日本列島中間部に固有の要素が加味されたものだと想定されます。言語については、アイヌ語の南限が東北北部であること、縄文系言語(日本語)とアイヌ語が系統的にまったく異なることなどから、アイヌ語はシベリア系の古い言語を保持している可能性が高いと思われます。新石器時代人の言語(縄文語)は一つではなかった可能性もありますが、アイヌ語は少なくとも、日本列島中間部の縄文語を形成したとは考えにくく、アイヌ語の故地は北海道であり、その使用域は北海道とその周辺に限定されていたと考えるのが妥当なようです。
アイヌ民族の価値観
以上のように、アイヌ文化を単純に縄文文化と同一視するわけにはいきませんが、北海道の新石器時代文化の要素をもっとも多く現代に伝えているのがアイヌ文化であるとの判断は妥当でしょう。アイヌ文化の特質を挙げると、次のようになります。
●一般に、宗教的伝統のなかにはそれを生んだ社会の構成原理が刻印されていますから、カムイ(アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在)とヒト(アイヌ)との存在論的平等性というアイヌ民族の宗教観念から、平等を旨とした社会構成原理がうかがえます。また、周囲の生物だけではなく自然現象にまでカムイの力を感じることができるアイヌ文化の繊細な心は、食料とする生物への畏敬とその犠牲への感謝の念へと至り、環境に活かされているという安心感を得ることへのお返しとして、環境を守るという積極的な姿勢を生み出していると考えられます。このような存在論的平等性の世界観をもつ文化では、他者にたいする寛容も育んでいるようです。アイヌ文化に内包されているこうした価値は、強力な統率者による民衆支配という社会構成原理を有する欧州・キリスト教文明の人々にはまったく理解されなかったようです。アイヌ文化は、現在支配的な欧州・キリスト教文明に対する代替原理を提示しうるものです。
●自然資源や生態系の全体的把握と存在論的平等性により、自然資源を枯渇させないようにする智慧(持続可能性についての理解)が備わっているようです。縄文文化の生活様式は必ずしも環境に優しくありませんでしたが、ある一つの資源を枯渇するまで採取することは避けて、生態系全体への理解があったことが縄文文化の本質だと指摘されています。21世紀という環境問題が逼迫する時代において、新たな解決策を示すことができる可能性を秘めています。
●超越的世界と地上の世界とが共存しあうようなアイヌ民族の世界観は、存在論的裂け目をもたない安定性を有しており、キリスト教、とくにキリスト教終末論のなかにその源泉がある、不完全なものから完全なものへと絶えず進んでいかなければならないという時間軸を持つ、不安定な文化的要素とは対照的です。このようなキリスト教を背景とする欧州文明は、「唯一の価値をもつ欧州文明の支配が進歩主義の目標点」であるかのような誤解を与えかねません。また、進歩主義が内包する問題点として、先進国の文化のみが優れているとし、非欧州的伝統にある少数民族に内包される精神的価値観がもつ重要性を見落とす危険性が指摘できます。
●このような伝統的精神的遺産をもつアイヌ文化は、アイヌ語を媒体としてしかその価値観を表現できません。アイヌ語存続の必要性は、アイヌ語の言語保護という観点、さらに他に類似する言語がないという希少価値の観点からも論じられることが多いのですが、もっとも重要なのは、アイヌ語を媒体としてのみでしかアイヌ文化の価値が十全に表現できず、アイヌ語が消滅してしまえば、そのようなアイヌ文化の精神的遺産も消滅してしまうことにあるのではないかと思われます。
琉球の歴史
ここでの琉球とはかつての琉球王国の範囲であり、薩南諸島から大隅諸島(種子島・屋久島など)とトカラ諸島をのぞいて奄美諸島のみを琉球に含み、奄美諸島と沖縄諸島とが北琉球、先島諸島の宮古諸島と八重山諸島が南琉球ということになります。
琉球の先史時代は、日本列島中間部とはかなり異なります。北琉球の歴史は、7000年前から始まる漁撈を中心とした貝塚文化に代表されますが、これは縄文文化とは本質的に異なります。これにたいして南琉球では、貝塚文化と本質的に異なる先島先史文化が、4000年前から興ってくるようです。紀元後11~12世紀頃より南北に共通するグスク時代へと移っていき、琉球諸島全体が一つの文化圏へと統合されていきました。14世紀から沖縄本島に三つの政治勢力が起こり対立した後、1429年に統一王朝時代へと移っていきました。
北琉球先史時代人である貝塚文化人についてはまだはっきりしたことが分からず、南方系と考えられるC1系統の可能性が考えられます。形質人類学からも、貝塚文化人は中間部縄文人D2系統と異なることが指摘されています。もしそうなら、南九州では貝文文化を起した集団が北琉球では貝塚文化を起したということになります。その他には、南方島嶼部に特徴的なM系統・K系統・他のC系統などの集団が、貝塚文化を担った可能性があります。
南琉球の先島先史文化人については、台湾やフィリピンなどのオーストロネシア系文化の影響にあったことが推定されていて、現在でも、オーストロネシア系文化が先島諸島に色濃く残っているので、O1系統の可能性が高そうです。また、貝文文化人C1系統が先島先史文化に関係していた可能性も同時に想定できます。
こうしたことから、琉球諸島の先史時代の住民は、日本列島中間部の縄文人D2系統集団とは異なり、C1系統・O1系統が想定されます。これは、琉球諸島先住民がC3系統・D2系統のアイヌ民族の祖先とは異なる集団だったことを支持します。つまり、アイヌ琉球同系論およびその前提となっている二重構造モデルは琉球において支持されないことを意味し、形質人類学からも同じような見解が表明されています。
こうした状況はグスク時代の到来とともに様変わりしてしまいます。形質人類学からは、先史時代とは異なり、グスク時代の琉球諸島集団は日本列島中間部とあまり相違しないという報告がなされており、先史時代とグスク時代とでは、琉球諸島において集団の大きな交替が起きたことが指摘されています。これはDNA多型分析からも支持され、北琉球で先史時代のC1系統からグスク時代以降のD2・O2b・O3系統へ交替があったと推定されます。
こうした交替には理由があり、グスク時代において、西九州・長崎産の石鍋が南北琉球全域で流通するようになり、徳之島に亀焼窯が設置され、石鍋とともに亀焼が流通する経済圏が琉球諸島全体で形成されるようになりました。この変化は、琉球内部の発展というよりも、九州からの人の流れが決定的な役割を果たしたと推定されます。同時に、先史時代の非琉球語から、九州よりもたらされた日本語系の琉球語への転換も引き起こされました。その流れは北琉球にとどまらず、南琉球を含む琉球諸島全域にまで及んだようです。グスク時代には農耕も始まります。
琉球民族は、日本列島中間部と北海道で共通する縄文文化を欠き、琉球王国という独自の国家を500年間維持し、独自に中国との外交関係を築いて東南アジアや朝鮮半島などとも広範な交易関係を結んで、多くの海外文化を独自に取り入れてきたという形成過程を経ているので、狭義の日本文化の範疇ではとらえられない、広範囲な検討を要する独自の文化的伝統を築いてきました。
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