旧石器時代の西アジア
以前、大津忠彦・常木晃・西秋良宏『世界の考古学5 西アジアの考古学』(同成社、1997年)をもとに、旧石器時代の西アジアについてまとめようと思ったら、前置きが長くなりすぎて、それだけで一つの記事にしてしまいました。
今回は、同書の記述を自分なりに整理しようと思いますが、同書の旧石器時代の記述はレヴァントが中心になっていますので、おもに旧石器時代のレヴァントの変遷についてまとめることになります。同書は10年以上前に刊行されましたが、基本的には今でも通用する内容になっていると思います。
(1-1)下部旧石器時代(前期アシューリアン)
西アジアの最古級の旧石器遺跡としては、イスラエル北部のチベリアス湖畔にあるウベイディヤ遺跡(140~110万年前頃)が知られています。本書では暫定的に、西アジア経由の出アフリカは150万年前頃とされていますが、本文中でも触れられているように、東・東南アジアの遺跡のなかには、180万年前頃にまでさかのぼると主張されているものもありますから(ただし、必ずしも説得的ではない、と述べられています)、ウベイディヤ以前の遺跡が今後発見されても不思議ではありません。
グルジアのドマニシ遺跡についても、本書では少し触れられていますが、本書刊行後にも新たな発見があり、180万年前頃に近い年代に人類がグルジアまで進出していた可能性はきわめて高くなったと言えるでしょう。その意味では、今後西アジアにおいて、200~180万年前頃の遺跡が発見される可能性は、けっして低くないだろうと思います。とはいえ、現時点で西アジア最古級であり、なおかつよく調査されている遺跡となると、やはりウベイディヤということになりますので、西アジアの旧石器時代について整理するとなると、まずはこの遺跡の特徴から述べていくことになります。
ウベイディヤ遺跡の石器群にはアフリカ的な特徴が認められ、オルドヴァイ遺跡のII層中部上半から上部(160~140万年前頃)の石器群と酷似しています。両面石器の割合は低く、最下層ではほとんど発見されませんでした。この点からは、最下層の石器群は発展型オルドヴァイB型、それ以降はアシューリアン(アシュール文化)に対比できそうです。しかし、出土した石器を多角的に検証すると、あらゆる点で各層の石器群は均質でした。その意味では、ウベイディヤ遺跡の全石器群を前期アシューリアンに分類することも可能です。
ウベイディヤ遺跡の石器群と類似した石器群の出土している遺跡としては、イスラエルのエヴロン=カリー、シリアのシット=マルホー、レバノンのジュブ=ジャニンIIなどがあります。これらの年代には曖昧なところがありますが、両面石器の発達具合から、ウベイディヤよりやや新しいと考えられています。
ウベイディヤ遺跡の動物骨群が東アフリカの動物相を示しているように、西アジアにおける初期石器群が出土した時期に、おそらくは気候の乾燥化のため、肉食獣がアフリカからユーラシアへ進出しています。人類の出アフリカも同じような文脈で考えられ、西アジアにおける人類の初期の移住地は、アフリカと同じような生態条件を備えた地溝帯および海岸部でした。
(1-2)下部旧石器時代(中期アシューリアン)
中期アシューリアンになると遺跡数が増えます。この時期の人類の活動をもっともよく伝える遺跡は、地溝帯の一部を構成するガーブ平原にある、シリアのラムタネです。ラムタネ遺跡の年代は80~60万年前頃とされています。このラムタネ遺跡から出土した動物骨は、象など大型哺乳類が目立ち、前期アシューリアンと同じく、東アフリカの動物相を示しています。ラムタネ遺跡では、燧石や石灰岩礫があるパターンで並んでいたので、それらはテントや風除けの基礎石として持ち込まれたのではないか、と考えられています。
ラムタネ遺跡の石器群の8割以上は燧石で作られており、前期アシューリアンと比較すると、両面石器の量が飛躍的に増加しています。アフリカとの関係をとくに示すものとして注目されるのは、三稜型の技術です。これは、両面石器の先端部の断面を三角形にする技術で、多方向からの打撃でそれを仕上げる点に特徴があり、アフリカ北部のアッバシーエやテルニフィーニに類例が見られます。
中期アシューリアンにおいては、ラムタネ遺跡とはまったく系統が異なった石器群も発見されています。それはイスラエルのジスル=バノト=ヤコブ遺跡(今年2月8日分の記事で取り上げました)で、ラムタネ遺跡と同様に地溝帯に位置し、開地の遺跡です。ジスル=バノト=ヤコブ遺跡の石器群の特徴として、玄武岩をさかんに用いたクリーヴァー製作が挙げられ、同時代の北アフリカの石器群と酷似していることが指摘されています。クリーヴァー製作には、コンベワ式やルヴァロワ式の剥片剥離技術が見られますが、これらは当時の西アジアには類例がなく、アフリカからの人類の移住が想定されます。
こうした例から、中期アシューリアンにおいても、アフリカからの人類の移住が続いていた、と推測されます。80万年前頃にアフリカの気候が乾燥化したことが判明していますが、そのために、その頃人類による第二の本格的出アフリカがなされたのではないか、とも推測されています。
(1-3)下部旧石器時代(後期以降のアシューリアン)
後期アシューリアンは、50~40万年前頃に始まります。前・中期と比較しての後期以降のアシューリアンの特徴は、道具の変化速度が増すこと、資源開発領域の拡大、石器のスタイルが明確化することです。こうした違いは、以前よりも人口密度・社会間交渉の頻度・適応能力が増大したことを示している、と考えられます。
後期以降のアシューリアンは、後期(50または40~25万年前頃)・晩期(25~20万年前頃)・末期(20~15万年前頃)と分類され、石器群は連続的かつ急速に変化していきます。後期以降のアシューリアンにおいては、中期アシューリアンで特徴的だった多面体石器や球状石器がまれになり、洗練された両面石器が用いられるようになります。両面石器は小型化し薄身になっていきますが、洗練の度合いは晩期が頂点であり、末期になると製作が粗雑になって数も減少します。剥片剥離については、石核を多方面から叩くものが減少してルヴァロワ式が増加し、剥片石器自体も増加します。
後期アシューリアン以降に資源開発の領域が広がったことは、遺跡の分布から分かります。中期までの遺跡が、東アフリカから景観の連続する死海地溝帯から海岸部に集中していたのにたいして、後期以降は、イスラエルのユダヤ砂漠やヨルダンのアズラク盆地、シリアのエル=コウム盆地やドゥアラ盆地など、内陸の乾燥地にも遺跡が現れます。これは、気候の湿潤化もあるのでしょうが、人類の源郷であるアフリカとは異なる環境にも、人類が適応できるようになったためと思われます。
石器のスタイルについては、後期以降、明確に異なった別個の石器群が出現し、その傾向は末期に顕著です。これらは、両面石器系(上述)・剥片石器系・石刃石器系の三つに大別されます。剥片石器系では、分厚い剥片に加工した削器がひじょうに多く、ルヴァロワ式の石核剥離はほとんど行なわれていません。
石刃石器系は、単打面の石核から剥離した大量の石刃が含まれることに特徴があり、出土した剥片類の半数以上を石刃が占めることもある、本格的な石刃石器群です。石刃石器系はさまざまに分類されていますが、技術的には相互に類似が顕著であり、一括して考えてよさそうです。
こうした多用な石器群の出現が、伝統の異なる集団が共存していたためなのか、同一集団の適応の差のためなのか、微妙に年代の差があるためなのか、まだ検証は不充分です。ただ、あるていど分布に地域性が見られることから、なんらかの集団の違いによるものだ、と考えるのがよさそうです。
末期アシューリアンはそれ以前からの発展と考えられますが、末期後半における石刃石器群は、下部旧石器時代においては異様なほどの石刃指向性があり、その出現については唐突な感が否めません。かつて、フランスの旧石器時代研究の大家であるフランソワ=ボルドが、本気で西欧の上部旧石器との時期的並行を考えたくらいです。
レヴァントのものよりも古い石刃石器群はアフリカで発見されていますが、レヴァントのそれと関わってきそうなのは、北アフリカのハウア=フテア洞窟出土のもので、レヴァントのものと類似しています。レヴァントの石刃石器群は、中南部と内陸の乾燥地に密に分布していますから、アフリカ起源とも考えられます。ただ、ハウア=フテア洞窟出土の石刃石器群については、むしろ西アジアからの伝播であるとの見解もあります。
石刃石器群は上部旧石器文化の特徴とされますが、西アジアにおいてはまったく当てはまりません。また石刃石器群の起源は、現生人類の起源と結びつけて考えられがちですが、西アジアにおける下部旧石器時代末の人骨は少なく、初期石刃石器群の製作者については、推測が難しいというのが現状です。
(2)中部旧石器時代
以前は、中部旧石器時代はネアンデルタール人の時代との見解もありましたが、現生人類(解剖学的現代人)の人骨が中部旧石器文化の遺跡から発見されているので、今ではこの見解は捨て去られたと言ってよいでしょう。レヴァントの中部旧石器時代の人骨は、ネアンデルタール人と現生人類とに分類されています。タブン(17万年前頃)とケバラ(6万年前頃)とアムッド(5万年前頃)出土の人骨がネアンデルタール人、スフールとカフゼー出土の人骨(ともに11~9万年前頃)が現生人類(解剖学的現代人)とされています。
そうすると、現在のところ確認できるレヴァントの中部旧石器時代における人類の変遷は、ネアンデルタール人→現生人類→ネアンデルタール人ということになります。これは、よく気候変動との関連で説明されています。アフリカの熱帯地域起源の現生人類は温暖な時期にレヴァントに進出(北上)し、寒冷な欧州で進化したネアンデルタール人は、寒冷な時期にレヴァントに進出(南下)した、というわけです。じっさい、カフゼーの現生人類人骨に共伴しているのがアフリカ起源の熱帯動物相なのにたいして、ケバラのネアンデルタール人骨に共伴しているのは寒冷期の動物相です。
酸素同位体ステージでみても、タブンにネアンデルタール人が進出したのはステージ6の寒冷な時期、スフールやカフゼーに現生人類が進出したのはステージ5の比較的温暖な時期、ケバラにネアンデルタール人が進出したのはステージ4の寒冷な時期、ということになります。ただ、出土した人骨は少なく、このような「美しい仮説」が本当に妥当なのかというと、疑問も残ります。
もっとも、そうした懸念はあるものの、中部旧石器時代まで、人類は気候や環境の変化に応じた動植物相の南北移動と結びついていた、と言えるようです。これは、人類が生態系の一部であり、動物相の一部を構成していたことを示しているのでしょう。これが変わるのは上部旧石器時代以降で、人類の適応能力は他の捕食者とは質的な違いをもつにいたったのでしょう。
レヴァントのムステリアン(ムスティエ文化、中部旧石器時代の代表的文化)における石器の変遷については、タブン洞窟の石器群の分類が進展しており、この分類(タブンモデル)が使用されることが多くなっています。タブン洞窟では、三つの石器群が重なって見つかっており、上(新しい方)から順にB層→C層→D層と呼ばれています。
D層の石器群はルヴァロワ尖頭器が特徴的で、ルヴァロワ・非ルヴァロワ式の石刃も豊富に出土しました。単軸的な石核調整が採用されています。被二次加工石器には、彫器を中心とした上部旧石器的石器が比較的多く見られます。
C層の石器群には幅広のルヴァロワフレークが多く、全体に幅広で石刃はわずかしかありませんでした。求心的調整による典型的ルヴァロワ石核が用いられ、単軸的な石核はほとんど認められません。被二次加工石器は削器が主で、上部旧石器文化的石器は少ないのが特徴です。
B層では短躯なルヴァロワ尖頭器が大量に発見されました。石器群は全体的に小形であり、石核調整には求心的・単軸的の両方が用いられました。被二次加工石器には、ムスティエ文化的石器と上部旧石器文化的石器の両方が見つかっています。
この基準にしたがってレヴァントにおけるムステリアンの石器群を分類すると、ムステリアン期を通じて石器群の分布が変わっていくことが分かります。前期には北にC層型・南にD層型が分布します。中期には北から南へB層型→C層型→D層型が分布し、後期には北部から中部にかけてB層型が、南部にD層型が分布します。タブン洞窟におけるD層型→C層型→B層型という変化は、同一文化の時間経過による発展ではなく、地域の異なる文化が交錯していたことを表していた、というわけです。
今のところ、アムッド・ケバラ・デデリエなど、ネアンデルタール人骨の出土する遺跡にはB層型が共伴し、カフゼー・スフールという現生人類人骨と共伴するのは、C層型ということになっています。B層型はムスティエ期の中期以降に出現し、北部・中部にしか分布していません。C層型はムスティエ期の後期に消滅します。これらは、ネアンデルタール人の南下・現生人類のレヴァントからの撤退という説と整合的と言えます。
ただ、ムスティエ期の前期から後期にかけて、レヴァント南部にはずっとD層型が分布しています。そうすると、C層型の担い手の現生人類がアフリカ出身と言えるのか、微妙になってきます。D層型には人骨が共伴していないのですが、D層型は上部旧石器に直接つながっていくので、現生人類と考えるのがもっとも説得的だと言えそうです。
そうすると、レヴァント南部から北上した現生人類は現地の環境に適応し、D層型とは異なるC層型を築いた、との解釈も可能でしょう。遊動型集団あるいは石材欠乏地住人にとって石刃は有用ですが、北部の湿潤環境で静的資源を中心に生計を立てた海岸部の集団は、石刃なしでも暮らせていけたというわけです。
末期のD層型には、両設打面ルヴァロワ尖頭器製作技術やジェルフ=アジラ型石核技術といった、北アフリカのムステリアン期後半に見られた要素が認められます。これは、アフリカからレヴァントへの移住があったことを示すもの、と解釈するのが妥当でしょう。
(3)上部旧石器時代
上述したように、レヴァントにおける中部旧石器文化から上部旧石器文化への移行(48000~45000年前頃)は連続的でした。上部旧石器文化の起源となったのはタブンD層型で、それを層位的に証明したのは、南部のネゲヴ砂漠にあるボーカー=タクチト遺跡でした。この遺跡では、下層の第1層から上層の第4層にかけて(古い層から新しい層へということになります)、両設打面のルヴァロワ式石刃技術から、単設打面の本格的石刃技術へと移行していく様子が、はっきりと確認されました。
レヴァントの上部旧石器文化は、古くは6期に区分されていました。第1期はルヴァロワ方式による石刃生産など、中部旧石器の様相を残していました。第2期には、石刃尖頭器や同じく石刃の掻器・彫器が現れます。第3期には、エル=ワド式尖頭器やオーリナシアン(オーリニャック文化)式掻器が用いられるようになります。第4期は第3期と同様の特徴を示しますが、エル=ワド式尖頭器が減少します。第5期は、細石刃が増加するものの、二次加工のある細石器は少ないのが特徴です。第6期は、現在では続旧石器時代(中石器時代)とされています。
現在では、レヴァント随一の長い堆積をもつクサール=アキル遺跡の再分析の結果をうけて、第1期をクサールアキル期A、第2期をクサールアキル期B、第3期をレヴァント地方オーリナシアンA、第4期をレヴァント地方オーリナシアンB、第5期をレヴァント地方オーリナシアンC、第6期をケバラン(ケバラ文化)と呼んでいます。なお、第1期はかつてエミランと呼ばれていました。両者は、地域性のためか石器の形式に若干の違いはありますが、石器製作技術の類似は顕著です。
ただ、レヴァント南部の上部旧石器文化の研究の進展から、別系統の石器群が同時に存在していたのではないか、とも指摘されています。そこでは、レヴァント地方オーリナシアンよりもさらに石刃志向の強い石器群が発見されました。それはアハマリアンと呼ばれ、第3期~第5期と並行するものとされています。アハマリアンは南部から内陸砂漠を中心に分布しており、中部旧石器タブンD層型→エミラン(第1~2期)→アハマリアン(第3~5期)→ケバラン(第6期)という、一貫した石刃製作発展のなかで位置づけられます。
いっぽう、石刃を含むとはいえ、基本的には剥片生産が卓越する石器群であるレヴァント地方オーリナシアンは、クサールアキル期とは連続せず、先行するレヴァントの石器群に起源が見当たりません。さらに、レヴァント地方オーリナシアンAとBの間に断絶または交代があり、レヴァント地方オーリナシアンAにはアハマリアン的要素が認められる、との指摘もあります。どうも、レヴァント地方オーリナシアンは外来文化のようです。
オーリナシアンは、フランスのオーリニャック洞窟を標識遺跡とする文化で、龍骨型と呼ばれる独特の掻器や鼻型彫器、全周に比較的急角度の二次加工のあるオーリナシアン石刃、かえしがなく基部が二つに分かれた骨尖頭器などが特徴的です。レヴァント地方オーリナシアンは、欧州のオーリナシアンと比較して、オーリナシアン石刃や骨器が少なく、エル=ワド式尖頭器が見られるなどといった違いはありますが、基本的には欧州のオーリナシアンに対比できます。
西欧のオーリナシアンは明らかに外来文化であり、東方からの侵入とされています。東欧では西欧よりも古いオーリナシアン遺跡が発見されていますが、中部旧石器時代からの連続的移行は認められていません。そのため、オーリナシアンは西アジアが起源地とも考えられていますが、上述のように、レヴァントでもオーリナシアンは外来文化として現れます。
最近になってオーリナシアンの起源地として注目されているのが、ザグロス地域です。ザグロスの上部旧石器文化は、1950年代に定義されたバラドスティアンが代表的ですが、石器群が充分には記載されないまま、イランとイラクの政情不安のため、1960年代以降に科学的発掘が止まってしまいました。
最近の石器の再検討によると、バラドスティアンがオーリナシアンと酷似していることが分かってきて、ザグロス地方オーリナシアンと呼んではどうか、と提唱されています。また、バラドスティアンは先行するムステリアンと連続的だ、とも主張されています。ただ、年代測定が進展していないため、この仮説の当否を検証にはまだ時間がかかりそうです。
ザグロス地域のムステリアン遺跡のうち、有名なシャニダール洞窟からはネアンデルタール人骨が出土しています。しかし、シャニダール洞窟のムステリアン層は厚さが8m以上もあるのに、各層の出土石器群が一括してD層として記載されています。この間の石器群の時代的変化、じっさいにネアンデルタール人に共伴した石器の類型など、タブン洞窟で行なわれたような分析がなされるまで、製作者が誰なのかという問題の解決は難しいでしょう。
今回は、同書の記述を自分なりに整理しようと思いますが、同書の旧石器時代の記述はレヴァントが中心になっていますので、おもに旧石器時代のレヴァントの変遷についてまとめることになります。同書は10年以上前に刊行されましたが、基本的には今でも通用する内容になっていると思います。
(1-1)下部旧石器時代(前期アシューリアン)
西アジアの最古級の旧石器遺跡としては、イスラエル北部のチベリアス湖畔にあるウベイディヤ遺跡(140~110万年前頃)が知られています。本書では暫定的に、西アジア経由の出アフリカは150万年前頃とされていますが、本文中でも触れられているように、東・東南アジアの遺跡のなかには、180万年前頃にまでさかのぼると主張されているものもありますから(ただし、必ずしも説得的ではない、と述べられています)、ウベイディヤ以前の遺跡が今後発見されても不思議ではありません。
グルジアのドマニシ遺跡についても、本書では少し触れられていますが、本書刊行後にも新たな発見があり、180万年前頃に近い年代に人類がグルジアまで進出していた可能性はきわめて高くなったと言えるでしょう。その意味では、今後西アジアにおいて、200~180万年前頃の遺跡が発見される可能性は、けっして低くないだろうと思います。とはいえ、現時点で西アジア最古級であり、なおかつよく調査されている遺跡となると、やはりウベイディヤということになりますので、西アジアの旧石器時代について整理するとなると、まずはこの遺跡の特徴から述べていくことになります。
ウベイディヤ遺跡の石器群にはアフリカ的な特徴が認められ、オルドヴァイ遺跡のII層中部上半から上部(160~140万年前頃)の石器群と酷似しています。両面石器の割合は低く、最下層ではほとんど発見されませんでした。この点からは、最下層の石器群は発展型オルドヴァイB型、それ以降はアシューリアン(アシュール文化)に対比できそうです。しかし、出土した石器を多角的に検証すると、あらゆる点で各層の石器群は均質でした。その意味では、ウベイディヤ遺跡の全石器群を前期アシューリアンに分類することも可能です。
ウベイディヤ遺跡の石器群と類似した石器群の出土している遺跡としては、イスラエルのエヴロン=カリー、シリアのシット=マルホー、レバノンのジュブ=ジャニンIIなどがあります。これらの年代には曖昧なところがありますが、両面石器の発達具合から、ウベイディヤよりやや新しいと考えられています。
ウベイディヤ遺跡の動物骨群が東アフリカの動物相を示しているように、西アジアにおける初期石器群が出土した時期に、おそらくは気候の乾燥化のため、肉食獣がアフリカからユーラシアへ進出しています。人類の出アフリカも同じような文脈で考えられ、西アジアにおける人類の初期の移住地は、アフリカと同じような生態条件を備えた地溝帯および海岸部でした。
(1-2)下部旧石器時代(中期アシューリアン)
中期アシューリアンになると遺跡数が増えます。この時期の人類の活動をもっともよく伝える遺跡は、地溝帯の一部を構成するガーブ平原にある、シリアのラムタネです。ラムタネ遺跡の年代は80~60万年前頃とされています。このラムタネ遺跡から出土した動物骨は、象など大型哺乳類が目立ち、前期アシューリアンと同じく、東アフリカの動物相を示しています。ラムタネ遺跡では、燧石や石灰岩礫があるパターンで並んでいたので、それらはテントや風除けの基礎石として持ち込まれたのではないか、と考えられています。
ラムタネ遺跡の石器群の8割以上は燧石で作られており、前期アシューリアンと比較すると、両面石器の量が飛躍的に増加しています。アフリカとの関係をとくに示すものとして注目されるのは、三稜型の技術です。これは、両面石器の先端部の断面を三角形にする技術で、多方向からの打撃でそれを仕上げる点に特徴があり、アフリカ北部のアッバシーエやテルニフィーニに類例が見られます。
中期アシューリアンにおいては、ラムタネ遺跡とはまったく系統が異なった石器群も発見されています。それはイスラエルのジスル=バノト=ヤコブ遺跡(今年2月8日分の記事で取り上げました)で、ラムタネ遺跡と同様に地溝帯に位置し、開地の遺跡です。ジスル=バノト=ヤコブ遺跡の石器群の特徴として、玄武岩をさかんに用いたクリーヴァー製作が挙げられ、同時代の北アフリカの石器群と酷似していることが指摘されています。クリーヴァー製作には、コンベワ式やルヴァロワ式の剥片剥離技術が見られますが、これらは当時の西アジアには類例がなく、アフリカからの人類の移住が想定されます。
こうした例から、中期アシューリアンにおいても、アフリカからの人類の移住が続いていた、と推測されます。80万年前頃にアフリカの気候が乾燥化したことが判明していますが、そのために、その頃人類による第二の本格的出アフリカがなされたのではないか、とも推測されています。
(1-3)下部旧石器時代(後期以降のアシューリアン)
後期アシューリアンは、50~40万年前頃に始まります。前・中期と比較しての後期以降のアシューリアンの特徴は、道具の変化速度が増すこと、資源開発領域の拡大、石器のスタイルが明確化することです。こうした違いは、以前よりも人口密度・社会間交渉の頻度・適応能力が増大したことを示している、と考えられます。
後期以降のアシューリアンは、後期(50または40~25万年前頃)・晩期(25~20万年前頃)・末期(20~15万年前頃)と分類され、石器群は連続的かつ急速に変化していきます。後期以降のアシューリアンにおいては、中期アシューリアンで特徴的だった多面体石器や球状石器がまれになり、洗練された両面石器が用いられるようになります。両面石器は小型化し薄身になっていきますが、洗練の度合いは晩期が頂点であり、末期になると製作が粗雑になって数も減少します。剥片剥離については、石核を多方面から叩くものが減少してルヴァロワ式が増加し、剥片石器自体も増加します。
後期アシューリアン以降に資源開発の領域が広がったことは、遺跡の分布から分かります。中期までの遺跡が、東アフリカから景観の連続する死海地溝帯から海岸部に集中していたのにたいして、後期以降は、イスラエルのユダヤ砂漠やヨルダンのアズラク盆地、シリアのエル=コウム盆地やドゥアラ盆地など、内陸の乾燥地にも遺跡が現れます。これは、気候の湿潤化もあるのでしょうが、人類の源郷であるアフリカとは異なる環境にも、人類が適応できるようになったためと思われます。
石器のスタイルについては、後期以降、明確に異なった別個の石器群が出現し、その傾向は末期に顕著です。これらは、両面石器系(上述)・剥片石器系・石刃石器系の三つに大別されます。剥片石器系では、分厚い剥片に加工した削器がひじょうに多く、ルヴァロワ式の石核剥離はほとんど行なわれていません。
石刃石器系は、単打面の石核から剥離した大量の石刃が含まれることに特徴があり、出土した剥片類の半数以上を石刃が占めることもある、本格的な石刃石器群です。石刃石器系はさまざまに分類されていますが、技術的には相互に類似が顕著であり、一括して考えてよさそうです。
こうした多用な石器群の出現が、伝統の異なる集団が共存していたためなのか、同一集団の適応の差のためなのか、微妙に年代の差があるためなのか、まだ検証は不充分です。ただ、あるていど分布に地域性が見られることから、なんらかの集団の違いによるものだ、と考えるのがよさそうです。
末期アシューリアンはそれ以前からの発展と考えられますが、末期後半における石刃石器群は、下部旧石器時代においては異様なほどの石刃指向性があり、その出現については唐突な感が否めません。かつて、フランスの旧石器時代研究の大家であるフランソワ=ボルドが、本気で西欧の上部旧石器との時期的並行を考えたくらいです。
レヴァントのものよりも古い石刃石器群はアフリカで発見されていますが、レヴァントのそれと関わってきそうなのは、北アフリカのハウア=フテア洞窟出土のもので、レヴァントのものと類似しています。レヴァントの石刃石器群は、中南部と内陸の乾燥地に密に分布していますから、アフリカ起源とも考えられます。ただ、ハウア=フテア洞窟出土の石刃石器群については、むしろ西アジアからの伝播であるとの見解もあります。
石刃石器群は上部旧石器文化の特徴とされますが、西アジアにおいてはまったく当てはまりません。また石刃石器群の起源は、現生人類の起源と結びつけて考えられがちですが、西アジアにおける下部旧石器時代末の人骨は少なく、初期石刃石器群の製作者については、推測が難しいというのが現状です。
(2)中部旧石器時代
以前は、中部旧石器時代はネアンデルタール人の時代との見解もありましたが、現生人類(解剖学的現代人)の人骨が中部旧石器文化の遺跡から発見されているので、今ではこの見解は捨て去られたと言ってよいでしょう。レヴァントの中部旧石器時代の人骨は、ネアンデルタール人と現生人類とに分類されています。タブン(17万年前頃)とケバラ(6万年前頃)とアムッド(5万年前頃)出土の人骨がネアンデルタール人、スフールとカフゼー出土の人骨(ともに11~9万年前頃)が現生人類(解剖学的現代人)とされています。
そうすると、現在のところ確認できるレヴァントの中部旧石器時代における人類の変遷は、ネアンデルタール人→現生人類→ネアンデルタール人ということになります。これは、よく気候変動との関連で説明されています。アフリカの熱帯地域起源の現生人類は温暖な時期にレヴァントに進出(北上)し、寒冷な欧州で進化したネアンデルタール人は、寒冷な時期にレヴァントに進出(南下)した、というわけです。じっさい、カフゼーの現生人類人骨に共伴しているのがアフリカ起源の熱帯動物相なのにたいして、ケバラのネアンデルタール人骨に共伴しているのは寒冷期の動物相です。
酸素同位体ステージでみても、タブンにネアンデルタール人が進出したのはステージ6の寒冷な時期、スフールやカフゼーに現生人類が進出したのはステージ5の比較的温暖な時期、ケバラにネアンデルタール人が進出したのはステージ4の寒冷な時期、ということになります。ただ、出土した人骨は少なく、このような「美しい仮説」が本当に妥当なのかというと、疑問も残ります。
もっとも、そうした懸念はあるものの、中部旧石器時代まで、人類は気候や環境の変化に応じた動植物相の南北移動と結びついていた、と言えるようです。これは、人類が生態系の一部であり、動物相の一部を構成していたことを示しているのでしょう。これが変わるのは上部旧石器時代以降で、人類の適応能力は他の捕食者とは質的な違いをもつにいたったのでしょう。
レヴァントのムステリアン(ムスティエ文化、中部旧石器時代の代表的文化)における石器の変遷については、タブン洞窟の石器群の分類が進展しており、この分類(タブンモデル)が使用されることが多くなっています。タブン洞窟では、三つの石器群が重なって見つかっており、上(新しい方)から順にB層→C層→D層と呼ばれています。
D層の石器群はルヴァロワ尖頭器が特徴的で、ルヴァロワ・非ルヴァロワ式の石刃も豊富に出土しました。単軸的な石核調整が採用されています。被二次加工石器には、彫器を中心とした上部旧石器的石器が比較的多く見られます。
C層の石器群には幅広のルヴァロワフレークが多く、全体に幅広で石刃はわずかしかありませんでした。求心的調整による典型的ルヴァロワ石核が用いられ、単軸的な石核はほとんど認められません。被二次加工石器は削器が主で、上部旧石器文化的石器は少ないのが特徴です。
B層では短躯なルヴァロワ尖頭器が大量に発見されました。石器群は全体的に小形であり、石核調整には求心的・単軸的の両方が用いられました。被二次加工石器には、ムスティエ文化的石器と上部旧石器文化的石器の両方が見つかっています。
この基準にしたがってレヴァントにおけるムステリアンの石器群を分類すると、ムステリアン期を通じて石器群の分布が変わっていくことが分かります。前期には北にC層型・南にD層型が分布します。中期には北から南へB層型→C層型→D層型が分布し、後期には北部から中部にかけてB層型が、南部にD層型が分布します。タブン洞窟におけるD層型→C層型→B層型という変化は、同一文化の時間経過による発展ではなく、地域の異なる文化が交錯していたことを表していた、というわけです。
今のところ、アムッド・ケバラ・デデリエなど、ネアンデルタール人骨の出土する遺跡にはB層型が共伴し、カフゼー・スフールという現生人類人骨と共伴するのは、C層型ということになっています。B層型はムスティエ期の中期以降に出現し、北部・中部にしか分布していません。C層型はムスティエ期の後期に消滅します。これらは、ネアンデルタール人の南下・現生人類のレヴァントからの撤退という説と整合的と言えます。
ただ、ムスティエ期の前期から後期にかけて、レヴァント南部にはずっとD層型が分布しています。そうすると、C層型の担い手の現生人類がアフリカ出身と言えるのか、微妙になってきます。D層型には人骨が共伴していないのですが、D層型は上部旧石器に直接つながっていくので、現生人類と考えるのがもっとも説得的だと言えそうです。
そうすると、レヴァント南部から北上した現生人類は現地の環境に適応し、D層型とは異なるC層型を築いた、との解釈も可能でしょう。遊動型集団あるいは石材欠乏地住人にとって石刃は有用ですが、北部の湿潤環境で静的資源を中心に生計を立てた海岸部の集団は、石刃なしでも暮らせていけたというわけです。
末期のD層型には、両設打面ルヴァロワ尖頭器製作技術やジェルフ=アジラ型石核技術といった、北アフリカのムステリアン期後半に見られた要素が認められます。これは、アフリカからレヴァントへの移住があったことを示すもの、と解釈するのが妥当でしょう。
(3)上部旧石器時代
上述したように、レヴァントにおける中部旧石器文化から上部旧石器文化への移行(48000~45000年前頃)は連続的でした。上部旧石器文化の起源となったのはタブンD層型で、それを層位的に証明したのは、南部のネゲヴ砂漠にあるボーカー=タクチト遺跡でした。この遺跡では、下層の第1層から上層の第4層にかけて(古い層から新しい層へということになります)、両設打面のルヴァロワ式石刃技術から、単設打面の本格的石刃技術へと移行していく様子が、はっきりと確認されました。
レヴァントの上部旧石器文化は、古くは6期に区分されていました。第1期はルヴァロワ方式による石刃生産など、中部旧石器の様相を残していました。第2期には、石刃尖頭器や同じく石刃の掻器・彫器が現れます。第3期には、エル=ワド式尖頭器やオーリナシアン(オーリニャック文化)式掻器が用いられるようになります。第4期は第3期と同様の特徴を示しますが、エル=ワド式尖頭器が減少します。第5期は、細石刃が増加するものの、二次加工のある細石器は少ないのが特徴です。第6期は、現在では続旧石器時代(中石器時代)とされています。
現在では、レヴァント随一の長い堆積をもつクサール=アキル遺跡の再分析の結果をうけて、第1期をクサールアキル期A、第2期をクサールアキル期B、第3期をレヴァント地方オーリナシアンA、第4期をレヴァント地方オーリナシアンB、第5期をレヴァント地方オーリナシアンC、第6期をケバラン(ケバラ文化)と呼んでいます。なお、第1期はかつてエミランと呼ばれていました。両者は、地域性のためか石器の形式に若干の違いはありますが、石器製作技術の類似は顕著です。
ただ、レヴァント南部の上部旧石器文化の研究の進展から、別系統の石器群が同時に存在していたのではないか、とも指摘されています。そこでは、レヴァント地方オーリナシアンよりもさらに石刃志向の強い石器群が発見されました。それはアハマリアンと呼ばれ、第3期~第5期と並行するものとされています。アハマリアンは南部から内陸砂漠を中心に分布しており、中部旧石器タブンD層型→エミラン(第1~2期)→アハマリアン(第3~5期)→ケバラン(第6期)という、一貫した石刃製作発展のなかで位置づけられます。
いっぽう、石刃を含むとはいえ、基本的には剥片生産が卓越する石器群であるレヴァント地方オーリナシアンは、クサールアキル期とは連続せず、先行するレヴァントの石器群に起源が見当たりません。さらに、レヴァント地方オーリナシアンAとBの間に断絶または交代があり、レヴァント地方オーリナシアンAにはアハマリアン的要素が認められる、との指摘もあります。どうも、レヴァント地方オーリナシアンは外来文化のようです。
オーリナシアンは、フランスのオーリニャック洞窟を標識遺跡とする文化で、龍骨型と呼ばれる独特の掻器や鼻型彫器、全周に比較的急角度の二次加工のあるオーリナシアン石刃、かえしがなく基部が二つに分かれた骨尖頭器などが特徴的です。レヴァント地方オーリナシアンは、欧州のオーリナシアンと比較して、オーリナシアン石刃や骨器が少なく、エル=ワド式尖頭器が見られるなどといった違いはありますが、基本的には欧州のオーリナシアンに対比できます。
西欧のオーリナシアンは明らかに外来文化であり、東方からの侵入とされています。東欧では西欧よりも古いオーリナシアン遺跡が発見されていますが、中部旧石器時代からの連続的移行は認められていません。そのため、オーリナシアンは西アジアが起源地とも考えられていますが、上述のように、レヴァントでもオーリナシアンは外来文化として現れます。
最近になってオーリナシアンの起源地として注目されているのが、ザグロス地域です。ザグロスの上部旧石器文化は、1950年代に定義されたバラドスティアンが代表的ですが、石器群が充分には記載されないまま、イランとイラクの政情不安のため、1960年代以降に科学的発掘が止まってしまいました。
最近の石器の再検討によると、バラドスティアンがオーリナシアンと酷似していることが分かってきて、ザグロス地方オーリナシアンと呼んではどうか、と提唱されています。また、バラドスティアンは先行するムステリアンと連続的だ、とも主張されています。ただ、年代測定が進展していないため、この仮説の当否を検証にはまだ時間がかかりそうです。
ザグロス地域のムステリアン遺跡のうち、有名なシャニダール洞窟からはネアンデルタール人骨が出土しています。しかし、シャニダール洞窟のムステリアン層は厚さが8m以上もあるのに、各層の出土石器群が一括してD層として記載されています。この間の石器群の時代的変化、じっさいにネアンデルタール人に共伴した石器の類型など、タブン洞窟で行なわれたような分析がなされるまで、製作者が誰なのかという問題の解決は難しいでしょう。
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