最近の「チベット」情勢と歴史問題

 最初に断っておきますと、「東アジア世界論」についての私見(前編後編)でも述べたように、私は中国を中華人民共和国の略称として用いており、通時的な地理的呼称としては中国大陸を用いています。他の方の文章・発言から引用するさいに、通時的な地理的呼称として「中国」が用いられているような場合は、原則として「」をつけることにしています。なお、「チベット」としているのは、中国大陸についてもそうであるように、地理的区分にはどうしても曖昧なところがあるとはいえ、「チベット」の範囲については、とくにそうした性格が強いように思われるからです。以下、本題です。


 中国の西蔵自治区の中心都市ラサの情勢が緊迫し、インドでもこれに呼応した?動きがおきているようですが、中国は情報統制の厳しい国であり、「チベット」問題についてもよく分からないところがあります。こうした情勢の緊迫はこれまでも頻繁にあったものの、情報統制により外国にはあまり伝わらなかったのだけれども、北京五輪直前で中国の諸問題について世界的に関心が高まっているので、情報が漏れて外国にも伝わっているのか、同様の理由で「チベット」の分離独立派などが好機とみて大規模な行動を起こしたのか、あるいはその両方なのか、「チベット」問題に詳しくない私としては、断言の難しいところです。

 この問題で興味深いのは、インドでの中国政府への抗議運動にたいする、「世界のどの国もチベットを独立国とは認識していない。チベットは太古の昔から中国の一部だ」との中国外務省の秦剛報道官の発言です。私の語学力では秦剛報道官の発言を訳すことはできないので、あくまでもこの報道からの推測にすぎないのですが、「太古の昔から」ということは、おそらく18世紀半ば以降のことというわけではないでしょうから、たとえば、「チベット」を「支配」したトゥプト(吐蕃)も「中国」の一部ということなのでしょう。

 トゥプトを「中国」に組み入れること、さらには「チベット」を「中国を中心とした東アジア世界」に組み込むことの問題点については、「東アジア世界論」についての私見で述べましたが、中国政府の公式見解としては、「チベット」も太古の昔から「中国」の一部ということなのでしょう。しかし、中国が「チベット」を領有する直接の「歴史的根拠」は、どんなに古くさかのぼらせても、18世紀半ばにダイチン=グルン(いわゆる清朝)が宿敵ジューン=ガルを滅ぼし、「チベット」を「支配」してから後のことだと思います。

 しかもそれは、近代的国際関係が導入されていない時代の歴史的事象ですから、現代における独立・領有の「歴史的根拠」根拠として主張するのは、多分に無理があると言うべきでしょう。しかし現代国家においても、少なからぬ領土問題がそうであるように、前近代の歴史的事象はしばしば重要な根拠とされます。このような国家の論理は、あくまでも政治的論理と言うべきで、学術上の妥当性とは区別しなければなりません。

 その意味で、学問はあくまでも政治から独立した存在であるべきですが、じっさいにはなかなか理想通りにはいきません。それは、自国の政府からの圧力に屈するというような場合だけではなく、主観的には「良心」にしたがって「研究」をしているつもりである場合にも、じゅうぶん起こり得ます。学問の独立のためには言論の自由が欠かせず、研究者にかぎらず、できるだけ多くの人が言論の自由と多様性の維持に自覚的であることも必要なのでしょう。

 なお、国家の論理は多分に建前でもあるので、秦剛報道官が本気で「チベットは太古の昔から中国の一部だ」と考えているのかというと、疑問もあります。しかし、たとえ個人的な見解としては疑問に思っていたとしても、中国外務省の報道官としてはそのように言わざるを得ない、ということなのでしょう。

 今後の「チベット」情勢ですが、本気で「チベット」独立を支持している大国は存在しないようですし、青蔵鉄道の開通で中国政府による武力弾圧がますます容易になりましたから、「チベット」の独立は少なくとも短中期的にはないでしょう。なお、中国政府による「チベット」の「近代化」を強調し、その前提として、「チベットの旧体制」において農奴たちが苦しめられており、中国統治以前のチベットが暗黒社会であったかのように強調する見解もあるようですが、そこには誇張があるかもしれず、冷静な評価が必要だろうと思います。一方、中国政府による「チベット弾圧」を告発する言説において主張される、さまざまな抑圧・残虐行為の実態についても、冷静な評価が必要でしょう。

この記事へのコメント

2008年03月29日 09:39
何度もコメントを付けて申し訳ありません。上秦剛報道官の発言ですが、「チベットは太古の昔から中国の一部だ」との日本側メディアの訳はやはり適切でないと思います。というのは、27日にも秦剛報道官は同趣旨の発言をしているのですが、中国側日本語メディアは、これを「西蔵(チベット)は古来中国の一部であり」と訳しています。実際、私も「自古以来」というような中国語表現を目にした記憶があり、秦剛氏が使用したのはおそらくこの「自古以来」という表現であり、これは「古来」と訳すのがやはり妥当だと考えます。はっきり言って、私は「太古の昔から」というのは、日本側メディアの意図的な「誤訳」(誇張)の可能性が高いと考えています。
2008年03月29日 09:41
時数制限に引っかかったので続きを書きます。
 ただ、それでも「チベットは古来中国の一部」という表現にも違和感を感じる人も少なくないかもしれません実際、「古来」=「昔から」というのは、何とも微妙な表現であり、実際、100年までも昔なら、1000年前でも昔なわけです。 しかし、これをもって秦剛氏の発言を笑えるかというと、我が国政府などもよく「北方領土は我が国固有の領土です。」というような発言を行っているわけですが、この「固有」という言葉も秦剛氏の「古来」と同じようなものだと思います。
参考
 http://www.people.ne.jp/a/9fe591ed7c794f6282cbff11e3dcf9c0
2008年03月29日 12:37
この記事の趣旨は、秦剛報道官の発言を笑いものにすることではありません。

古来の意味が100年前であれ1000年前であれ、秦剛報道官の発言は、国家の論理・公的発言としては別におかしくはないでしょう。

私が言いたいのは、学問は国家の論理から独立した存在であるべきだ、ということです。

もちろん、国家の論理に従属した見解を研究者が公表する自由もあります。

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  • 「チベット」と「中国」について

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