「東アジア世界論」とその問題点(2)
文字数制限にひっかかったので、2回に分けました。(1)の続きです。
日本列島は中国大陸文明圏に含まれるのか
「中国」という呼称の問題については一応結論を出したので、文明の問題に戻ります。「東アジア文明」よりも「中国文明」のほうが相応しい呼称だとしたら、「中国大陸」という通時的な地理的呼称を採用したわけですから、くどいというか語感が悪いのですが、「中国大陸文明」と呼ぶことにします。以下、「中国大陸」や「中国大陸文明」や「日本列島」や「日本」などについては、原則として「」をつけないことにします。
漢字をもっとも重要な指標とする中国大陸文明の範囲が、必ずしも中国大陸と一致していないことは言うまでもありません。それは、中国大陸文明がある時期以降に日本列島や朝鮮半島の大部分をも含むと考えられるからということだけではなく、中国大陸においても、中国大陸文明がじゅうぶんに浸透していない地域が、かなり後まで存在したと思われるためです。そのことを前提として、以下文明圏の問題について述べていきます。
ある時期以降の日本列島の大半を中国大陸文明の一員とみなすか否かという問題については、見解が分かれています。日本はそもそも「東アジア」ではないという見解においては、日本列島(の大半)と中国大陸・朝鮮半島との社会構造の違いや、それに起因する価値観の違いが根拠とされます(古田『新しい神の国』)。
確かに、日本と中華人民共和国との社会構造・価値観の違いは大きく、それは「資本主義国家」と「社会主義国家」の違いというよりも、前近代からの大きな違いに由来する根の深いものであることは間違いないでしょう。その意味で、この対立は中華人民共和国がかりに「自由化・民主化」されたとしても解消されるようなものではなく、日本人にしても中国人(とくに漢族)にしても、なんとなくお互いに相手を自分と似たような存在と考えるのではなく、「同文同種」だとの幻想を捨て、価値観の大きく異なる他者なのだと認識することが必要なのだと思います。そもそも、「同文同種」だから「団結・仲良く」すべしとの観念は、グローバル化の進展した現代世界ではもはや不要の考えといってよいでしょうし、相互の差異を無視して過剰な期待感を抱かせることにもなりますから、有害だと言うべきでしょう。
ただ、だからといって前近代において日本列島は中国大陸とは異なる文明圏に属していたのかというと、そうではなかろうと考えています。これは、文明圏をどのように認識するのかという問題であり、現代日本は近現代欧米文明の一員であるとの私の認識から言うと、前近代におけるある時期以降の日本列島の大半は、中国大陸文明圏に含まれることになります。
もちろん、キリスト教的価値観が重要な背景として存在するか否かということを要因とする、日本と欧米との価値観の違いは小さくありません。ただ、グレゴリオ暦や定時法の採用、ほとんどの場合で「公的服装」が欧米由来であること、「西洋式建築」の一般化など、生活文化から政治・経済・学術など社会のあらゆる面において欧米化が進んでいます。このような現状は、現代日本を近現代欧米文明の一員と区分するのに相応しい、と私は考えています。
この観点からは、中華人民共和国、とくにその沿岸地域も近現代欧米文明圏に分類されます。もちろん、このような区分は日本や中華人民共和国と欧米との違いを過小評価している、との批判はあるでしょうし、それはもっともなところではありますが、文明圏という概念においては、文明圏の乱立を防ぐためにも、私は分割派(スプリッター)ではなく統合派(ランパー)でいようと思います。欧米文明圏の拡大は、近現代における重要な特徴でした。
前近代の日本列島においては、中国大陸文明は現代日本における欧米文明ほど浸透しておらず、しょせんは一部の知識層のものでしかなかった、との見解もあるでしょう(古田『新しい神の国』)。しかし、前近代の日本列島における仏教の影響力の強さ、農書の導入を含む諸技術の導入なども考慮に入れると、現代日本の基層が前近代において形成されるうえで、決定的な役割を果たしたのが中国大陸文明であることは否定できないでしょう。中国大陸文明は前近代の日本列島の社会にとって、現代における欧米文明のような「普遍的規範」としての性格を有していたのだと思います。
遣唐使の廃止による「国風文化」以降、日本は中国大陸文明から独立したとの見解もあるでしょうが、日本列島が中国大陸文明から大きな影響を受けるのはむしろ中世以降であり、江戸時代の日本は、中国と正式な国交がなかったにもかかわらず、日本の歴史においてもっとも中国文化を尊重した時代であり、儒教がこの時代ほど日本に普及したことはなかったのである(西嶋『邪馬台国と倭国』P295)というわけです。
「東アジア」という区分と「中国」概念の拡大の問題
このように前近代において、中国大陸を重要な発信地として、日本列島や朝鮮半島の大半をも含む中国大陸文明の範囲ですが、中国大陸を日本列島や朝鮮半島と並置させるには地理的範囲も影響力も大きすぎ、華北・華中・華南・関中・四川(蜀)など、より細分化された地域と並置させるのがよいでしょう。もちろん、中国大陸文明の範囲は歴史的に移り変わっているので、固定不変の地理的範囲とはなりません。
現代の日本では、これら中国大陸文明圏を「東アジア」とする区分がよく用いられます。もちろん、「アジア」にせよ「ヨーロッパ」にせよいろいろと問題のある概念だということは大前提なのですが、その大前提のもとで日本における「アジア」という概念を用いた場合、中国大陸文明圏の地理的範囲からして、これを「東アジア」と呼ぶことはさほど不当ではないだろうと思います。
しかし、前近代において「東アジア世界」なるものを想定する場合、この中国大陸文明圏を大きく超えた地理的範囲に設定することは、ほとんど無理だろうと思います。たとえば、ジュシェン(女真)族が支配しており後に「満洲」とも呼ばれた地域、あるいは突厥やウイグルやトゥプト(吐蕃)が支配していた領域の大部分を、「東アジア世界」として一まとめにするのはほとんど無理だと思います。
それらの勢力が中国大陸の一部または大部分を領有する王朝と「交流(戦いも含みます)」があったから、あるいはいわゆる二十四史をはじめとする漢文史料に記載があったから、または中国大陸の一部もしくは大部分を領有したからといって、それらの勢力の政治的影響の及んだ地域をすべて中国大陸または「東アジア」という区分に含めるのは、多分に虚構である「冊封体制」や「華夷秩序」を実体化してしまったことと、同じような過ちを犯すことになるのではないかと思います。
ジュシェン族や「モンゴル人」や「チベット人」には、前近代において中国大陸文明にたいする思慕の念はとくになく、ダイチン=グルン(いわゆる清朝)が宿敵ジューン=ガルを滅ぼし、「新疆」と名づけられた土地や「チベット」を含む広大な土地を「支配」するにあたっても、中国大陸文明が有効に機能したわけではありませんでした(平野聡『興亡の世界史17』P134、146)。「新疆維吾爾」や「西蔵」や「内蒙古」は、「北アジア」や「内陸アジア」などといった区分で把握するのが妥当でしょう。もちろん、「北アジア」や「内陸アジア」をさらに細かく区分する必要があるでしょうが、現在の私の学識ではとても無理なので、大雑把な区分を提示するにとどめておきます。
「新疆維吾爾」や「西蔵」や「内蒙古」を「中国」や「東アジア」といった区分に含めるのは、ダイチン=グルンの「支配領域」を「中国」と読み替えるようになった、近代(もしくは近世末期)以降の中国大陸における「漢族」知識層を中心としたナショナリズムの影響を強く受けた認識と言うべきでしょう(平野聡『興亡の世界史17』)。中華人民共和国が、中華民国を経由してダイチン=グルンの領域の大半を継承したことにより、こうしたナショナリズムは「公式見解」となり、強い影響力を有することになりました。中華人民共和国は中国大陸・北アジア・内陸アジアなどを含む大帝国であり、そのような広大な領土は、たんなる中国大陸の一王朝ではなく、広大な地域を「支配」した複合的な大帝国たるダイチン=グルンの後継国であることに由来します。
そうした意味で、18世紀半ば以降の「新疆維吾爾」などを「中国」と一体のものとする見解には、多少なりとも説得力があると言えるかもしれませんが、やはり観念の産物であり、虚構性の強い認識と言うべきでしょう。18世紀前半以前の「新疆維吾爾」などを「中国」と一体ものとする認識が、虚構であることは言うまでもありません。小島毅『足利義満』では、皇国史観・日本一国史観が何度も「夜郎自大」だとして批判されていましたが、そうした表現を認めるならば、18世紀前半以前の「新疆維吾爾」などを「中国」と一体ものとする、「中華至上主義」とも「漢族ナショナリズム」とも言うべき歴史認識も、同様に「夜郎自大」と言うべきでしょう。
なお、余談になりますが、中華民国を経由してはいるものの、中華人民共和国がダイチン=グルンの後継国であり、それが現在の中華人民共和国の広大な領域の「歴史的根拠」になっているとすると、「外蒙古」とも呼ばれるモンゴル国にたいしても、中華人民共和国は領有権を主張するのではないか、との疑念もあるでしょう。しかし、中華人民共和国はモンゴル人民共和国の独立を認めたので、公式には「外蒙古」の領有を主張しておらず、長期的にはともかく短中期的には、中華人民共和国がモンゴルを併合することはないでしょう。ただ、中華人民共和国と「正統」を争っている中華民国は、共産党との争いに敗れて台湾とその周囲の諸島群に領域が限定されてからは、モンゴルの独立を認めていません。
中華人民共和国が「チベット」を領有する「歴史的根拠」も、ダイチン=グルンの後継国であることに求められるのですが、一方で「チベット」独立の「歴史的根拠」も主張されています。そもそも、近代的国際関係が導入されていない時代の歴史的事象を根拠として、独立・領有の「歴史的根拠」を主張するのは多分に無理があると言えますが、現代の領土紛争において、それらが重要な「歴史的根拠」とされていることも否定できません。中華人民共和国が「チベット」を領有する「歴史的根拠」も、「チベット」が独立する「歴史的根拠」もあるとなると、独立が達成されるか否かは、現実の力関係により決まると言えるでしょう。その意味で、長期的にはともかくとして短中期的には、「チベット」が独立する可能性は皆無に近いでしょう。
日本における「中華至上主義」の問題
さて、近代以降の「漢族」知識層のナショナリズムに由来する、「中国」を「新疆ウイグル」や「チベット」などにまで拡大して歴史的にとらえる見解は、現在の日本では違和感を抱く人が多いでしょう。しかし現在の日本においては、「漢族」知識層のナショナリズムとも関連する、「中華至上主義」または「漢族至上主義」とでも言うべきものが、必ずしも克服されておらず、今後歴史的な「中国」の範囲が拡大して行く恐れがあるように思われます。この問題を考えるには、前近代にさかのぼって日本における中国大陸文明観を見ていく必要があります。
中国大陸文明が近現代における欧米文明のような「普遍的規範」であった前近代の日本において、国学などから中国大陸文明への批判があったとしても、「中華至上主義」が強い影響力をもったのは当然のことと言えるかもしれません。そうした状況だったからこそ、文天祥が幕末の志士の間で英雄視され、その詩「正気の歌」は彼らを鼓舞激励するとともに、大きな教訓を与えていたというわけです(小島毅『中国の歴史07』P369、小島毅『靖国史観』P128、宮崎市定他『世界の歴史6』P372~373)。
明治時代になってからというもの、日本はさまざまな分野で近代欧米文明の摂取に努めますが、一方では、倒幕思想の重要な根拠ともなった朱子学的価値観が、教育勅語などを通じて国民に浸透していきます。日清戦争以降敗戦まで、日本はダイチン=グルンや中華民国や諸軍閥といった、中国大陸を支配する現実の国家・勢力を見下すようになりますが、それは近代欧米的価値観によるものであり、必ずしも「中華至上主義」を克服できていませんでした。
敗戦後の1949年に、日本では自国よりも遅れていると考えられていた中国大陸に、先進的(と考えられていた)社会主義国としての中華人民共和国が成立したことは、少なからぬ日本人に衝撃を与えました。「遅れた封建制」の克服を掲げた中華人民共和国は、論理的には「中華至上主義」とは結びつかないはずですが、情緒的には、その「清新な」印象が過去の「偉大な中国」像と結びつけられる傾向にあったように思われます。
中華人民共和国は、文革後に実質的に社会主義路線を放棄し、前近代における中国大陸文明の「過去の遺産・偉業」を堂々と賞賛する方向に転換しました。そのため、中華人民共和国の高度経済成長・政治および軍事大国化が進み、その影響力が高まるにつれて、自信をもった中国人、とくに漢族系国民は、過去の中国大陸文明の「素晴らしさ」を強く主張し始めてきたように見えます。たとえば、鄭和の航海にたいする異常なまでの過大評価が、中華人民共和国や中華民国を中心に声高に主張されるようになっています(杉山正明『興亡の世界史09』P103・350)。
そうした言説において語られる肥大化した「中国」像、さらにはそれに多少手をくわえて日本で語られる「東アジア」像は、上述したように、近代以降の「漢族」知識層のナショナリズムに由来するものであり、歴史認識としてはきわめて問題の多いものです。しかし、今後中華人民共和国の影響力が強まるにつれて、日本においても、「中国」と現代の中華人民共和国の領域とが同一視されて肥大化した「中国」や、それを多少読み替えて「中国を中心とした東アジア世界」を主張する見解が、「正しい歴史認識」として声高に語られるようになる日が来るかもしれません。
しかも、そのような「東アジア世界論」なる主張は、ポストモダン社会に突入した現代日本においては、「一国史観」を克服するという意味で、「正論」であると受け止められる可能性さえあります。そのようにならないためには、「中華至上主義」を克服する必要があり、その意味では、行き過ぎた面もあるように思われるとはいえ、杉山正明氏のような研究者が積極的に一般向け啓蒙書を執筆するのは、現代日本において必要なことだと言えるでしょう。
中華人民共和国の影響力拡大と「中華至上主義」の浸透を結びつけるのは杞憂だ、との見解もあるでしょうが、勢威盛んな大国や、先進的で倫理道徳的に優れていると考えられている国家の、公的もしくは主流の見解に迎合するような言説は、日本では珍しくありませんでした。
たとえば、戦後ずっとアメリカ合衆国に迎合するような言説は絶えませんし、ソビエト社会主義共和国連邦や文革終結の頃までの中華人民共和国を、日本が目指すべき「先進的社会主義国」の模範として賞賛する見解は珍しくなく、同様にかつては朝鮮民主主義人民共和国も賞賛されていました。もちろん、アメリカ合衆国にしても社会主義諸国にしても、批判されることは少なくありませんでしたが。
さすがに今では、中華人民共和国を「先進的社会主義国」の模範として賞賛する見解はほぼ消え去ったと言ってよいでしょうが、経済成長・軍事力拡大の様相を見て、中華人民共和国に迎合する見解は珍しくありません。過去の例から言うと、中華人民共和国の影響力が拡大するにつれて、「中華至上主義」なり「漢族至上主義」に迎合した言説が日本でも影響力を強めていくでしょう。
もっとも、多民族国家としての中華人民共和国にとって、「中華・中国」の範囲を拡大したうえでの「中華至上主義」は問題ないにしても、「漢族至上主義」は公的には認められないでしょうが、国民のうち圧倒的な人口を占める漢族の間で「漢族至上主義」が盛んになれば、それを抑えるのは難しいでしょう。
ただ、じつは外国に迎合的な言説の当事者たちのなかには、必ずしも自らが迎合していることを自覚していない人も少なくないかもしれません。たとえば、朝鮮史研究者の梶村秀樹氏は、大韓民国の歴史教科書でも一応は認めている漢による朝鮮半島(全域ではありませんが)支配(申奎燮他訳『新版韓国の歴史』)を、朝鮮民主主義人民共和国の歴史学界と同様に否定しています(梶村『朝鮮史』P33~34)。
梶村氏は、「朝鮮史専門家は朝鮮人にこびへつらっている」という見当ちがいの論難(梶村『朝鮮史』P11)と述べています。確かに梶村氏の主観としては、自身は朝鮮民主主義人民共和国や朝鮮ナショナリズムに迎合してはいなかったのでしょう。しかし客観的には、梶村氏は朝鮮ナショナリズムに多分に迎合していた、と言わざるを得ないでしょう。
このような私見にたいして、中華人民共和国を見下している日本人はずっといたし、近年になって「嫌中層」が増えているではないか、との指摘もあるでしょうが、上述したように、それは戦前と同様、おもに近代化(欧米化)という観点からの現実の中華人民共和国への軽蔑であり、必ずしも「中華至上主義」、とくに前近代についての歴史認識におけるそれの克服に結びつくものではありません。
現代日本における「中華至上主義」と過去の私見にたいする反省
こうした「中華至上主義」の広がりを懸念する見解にたいしては、そもそも現代の日本に「中華至上主義」など存在するのか?といった疑問もあるでしょう。正直なところ、現代日本に「中華至上主義」があるのか、あるとしてどの程度なのかという問題は、実証が難しいものです。
ただ、日本における中国大陸史に関する書籍(学術書だけではなく小説や随筆なども含みます)やゲームなどに接していると、中国大陸という「高度文明」の地域と周辺の「野蛮な」地域、「正義」の「漢族」知識人・政治家と「悪」の「蛮族」といった図式を、知らず知らずのうちに受け入れてしまう可能性がけっして低くないのではなかろうか、との危惧はあります。
もっとも、これは自分の体験に基づいた懸念なので、私よりも知的水準の高い人はこのような偏見にとらわれないのかもしれませんが、私よりも本質的に知的水準の高い人でも、10代半ばあたりまでに中国大陸史に関する書籍やゲームに深く接してしまうと、やはり偏見にとらわれてしまう可能性が高いだろうと思います。
恥ずかしい話ですが、小学校高学年の頃より、少年を対象にした中国大陸史に関する書籍を読み始めた私は、その後も色々と中国大陸史に関する書籍を読み進めた結果、20歳頃までは、衛青や霍去病の活躍を喜び、宋が金に華北を奪われたのを悲しみ、明が「野蛮な」元から中国大陸を奪回したのを喜び、明の滅亡を悲しんで呉三桂の「裏切り」を不快に思うような心情を有していました。
もちろん、真剣に悲憤慷慨していたわけではなく、なんとなくといった曖昧な心情ではあったのですが、「漢族」系国家が中国大陸を有するのが正しく、ジュシェン族を含む「蛮族」が中国大陸に国家を樹立するのは間違っている、といった観念を漠然と有していました。
今になってみると、まことに馬鹿げた歴史認識あるいは価値観としか言いようがありませんが、江戸時代半ばから近代まで日本において猛威を振るった「正統史観」は、戦後にも根強く残っており、それが昔の私のような「中国かぶれ」を生んでいるように思われます。たとえば、私はその方の著作を一冊も読んだことがないので具体名は挙げませんが、現代日本のある人気作家の中国大陸史に関する小説のなかには、文天祥を賛美するものがあるそうです。またゲームでは、中国大陸を支配する諸王朝と、その周囲の蛮族という構図が堂々と描かれています(光栄『三國志IV』など)。
まともな研究者の執筆した概説書を読んでいれば、私のようになる心配はあまりないでしょうが、作家の小説や評論家の随筆、少年向けの中国大陸史関連本、さらにはゲームなどに深く接していると、私のような心情・認識を有する危険性は低くないと思います。多感な思春期にそうした作品に接していると、その危険性は高くなるでしょう。
ここまでこの記事では、「一国史観」を克服するという美辞麗句のもとに、「中華至上主義」、さらにはそれによって助長されかねない、17世紀以前の「新疆ウイグル」や「チベット」を「中国」と一体の地域としたり、「中国を中心とする東アジア世界」に含めたりするといった見解(近代以降の「漢族」知識層のナショナリズムに由来します)を批判してきました。こうした見解が現在もあり、今後強まるかもしれないという予測のもとにこうした見解を批判しているわけですが、それは直接には、現実の個人や団体というよりは、過去の自分を対象としています。
こうした状況においては、「正統史観」的な中国大陸史像にたいして冷ややかな見方をすることも必要でしょう。たとえば上述した文天祥について言えば、文天祥は隙をねらって逃走し、故郷の江西へ帰って義兵をあげた。こういえばはなはだ勇ましく聞こえるのであるが、当時の彼の行動も意見も、ごく一部を代表するだけで、彼の義挙に応じた者も、じつははなはだ少数であった(宮崎他『世界の歴史6』P374)との見解があります。
また、かたや内陸部で抵抗をつづける文天祥は、戦意だけはあるものの、度量と将才と人望に欠けていた。(中略)また、かの文天祥は厓山の戦いの前に、信じられないような浅ましい所業もふくめ、失態をかさねて捕虜となり、クビライのもとに送られた。人材好みのクビライは、たとえ虚名であれ、文天祥の「心意気」はなにかと役に立つと判断したのだろう、さかんに仕官をすすめた。しかし、当の本人は余計に依怙地となり、みずからの名声を異様なほどに意識して、あくまで斬死を熱望し、見事に後世の称賛を受けることに成功した(杉山『中国の歴史08』P322~323)との見解もあります。あるいは、杉山氏の見解には行き過ぎた面があるかもしれませんが、基本的には、こうした見解が一般向け書籍にてさらに増えることが望ましいと思います。
地理的区分の限界と問題点
では、かりに「中華至上主義」を克服した「東アジア世界論」が可能だとして、そこに問題はないのかというと、このような区分はあくまで便宜的なものであるし、固定不変的なものでもない、という常識を思い起こせば、たとえ「中華至上主義」を克服できたとしても、さまざまな前提や留保なしに「東アジア世界」を語るのは無理だと、容易に理解できるでしょう。
具体的に言えば、人間の営みは、時間だけではなくほとんどの場合地理的にも連続していますから、「東アジア」世界はそれだけで完結しているのではなく、陸海両方の経路を通じて、「北アジア」や「内陸アジア」や「東南アジア」や「南アジア」や「西アジア」と結びついていたわけです。その場合、たとえば華南のなかのある地域では、「東アジア」の他地域との結びつきよりも、「東南アジア」との結びつきのほうが強いかもしれません。華北であれば、「北アジア」との結びつきの強い地域もあるでしょう。
そう考えると、中国大陸や華北・華南などとはいっても、そのなかには別の区分のほうが妥当だという地域が少なからずあることになります。もっとも、地理的区分とはあくまで便宜的なものであり、あまりにも細分してしまっては意味がないので、あるていど割り切る必要があります。とはいっても、上述したように、人間の営みが地理的に連続していることを過大視し、「北アジア(の一部)」など「東アジア」と「交流」のある地域を、「東アジア世界」の一員と考えるという見解は疑問です。このように「東アジア世界」を拡大していこうとする願望は、中国大陸文明においてかつて重要な役割を果たした天下思想に由来する、と言えるかもしれません。
地理区分の便宜的性格は日本列島についても同様で、たとえば北海道は、更新世の頃も10世紀以降も、「北アジア東部」との結びつきの強さが知られています(松木武彦『日本の歴史第1巻』P46、網野『日本の歴史第00巻』P53)。また中世(あくまでも日本での時代区分です)には、西日本・朝鮮半島沿岸・華南にまたがる「倭寇的海上世界」が出現しました。このような現生人類の複雑な営みを考えると、日本列島なる通時的な地理的呼称を設定することにも深刻な疑問が生じますが、今回は日本と日本列島との関係について上手く整理できなかったので、これは今後の課題としておきます。
ただ結局のところ、地理的区分も含めて分類という行為は、人間の知的営みにおいてたいへん重要ではあるものの、あくまでも理解を助けるための手段だという側面もあります。人間の営みが、時間だけではなくほとんどの場合地理的にも連続していることを考えると、現在の地理的区分も過去の地理的区分もあくまでも便宜的措置であり、多くの前提・留保のもとに、あるていど割り切りつつも、慎重に区分してそれを使用していくしかないのでしょう。
所詮人類は総括的に観察すれば一つの群である。歴史は始より終まで一つの世界の歴史である。世界史の可能不可能の如きは問題ではない。当然あるべき歴史の姿は世界史の外にない。只歴史年代の長い時間と、遠い距離に隔てられて自然に生じた無数の小群の特殊な様相を如何に綜合し、如何に簡単化して、正確にその相貌を把握するかが問題である(宮崎市定「世界史序説」P269)との指摘は、一見すると暴論のようですが、やはり碩学に相応しく深く鋭いものだと思います。
そうした意味で、ある区分を過度に強調したり大前提としたりしてしまうのは、その区分を実態以上に過大なものにしてしまうという意味で、たいへん危険な行為だと思います。「一国史観」にたいする批判は、ポストモダン社会に突入したこともあり、日本では受け入れられやすくなっています。その「一国史観」を批判しそれを超えるものとして提唱される「東アジア世界論」もまた、「一国史観」とも通ずる近代「漢族ナショナリズム」の影響を強く受けている場合もあります。
しかし、「一国史観」を超えた「広い視野」に立脚した歴史認識との美辞麗句が、ポストモダン社会では受け入れられやすいこともあり、その虚構性が見過ごされがちになる危険性があります。しかも、今後中華人民共和国の影響力はさらに拡大していくでしょうが、それにつれて「中華至上主義」の影響力が強まることにより、日本において「東アジア世界論」がさらに実態から乖離した歴史認識になる危険性は、けっして低くないと思います。
終わりに
以上、長々と述べてきましたが、歴史的な地理区分や呼称の問題はたいへん難しく、私ていどの学識では、万人を納得させられるような見解を提示できません。また、今後自分の見解が変わる可能性も高いでしょう。地理区分・名称・歴史認識については、色々と気づいていない錯誤・不統一があるでしょうから、もしお読みいただいた方がいらしたら、色々とご教示いただければ幸いです。
参考文献:
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網野善彦『日本の歴史第00巻 「日本」とは何か』(講談社、2000年)
いき一郎編訳『中国正史の古代日本記録』第2刷(葦書房、1992年、第1刷の刊行は1984年)
梶村秀樹『朝鮮史 新書東洋史10』第27刷(講談社、1992年、第1刷の刊行は1977年)
川本芳昭「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって : 遣隋使覚書」『史淵』141号、P53-77(2004年)
川本芳昭「倭国における対外交渉の変遷について : 中華意識の形成と大宰府の成立との関連から見た」『史淵』143号、P27-64(2006年)
京大東洋史辞典編纂会編『新編東洋史辞典』13版(東京創元社、1999年)
倉野憲司校注『古事記』第66刷(岩波書店、2001年、第1刷の刊行は1963年)
黒板勝美、国史大系編集会編集『新訂増補国史大系 日本書紀 前編』普及版第12刷(吉川弘文館、1993年)
黒板勝美、国史大系編集会『新訂増補国史大系 日本書紀 後編』普及版第14刷(吉川弘文館、1996年)
小島毅『中国の歴史07 中国思想と宗教の奔流』(講談社、2005年)
小島毅『靖国史観-幕末維新という深淵』(筑摩書房、2007年)
小島毅『足利義満 消された日本国王』(光文社、2008年)
申奎燮、大槻健、君島和彦訳『新版 韓国の歴史―国定韓国高等学校歴史教科書』(明石書店、2000年)
杉山正明『中国の歴史08 疾駆する草原の征服者』(講談社、2005年)
杉山正明『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』(講談社、2008年)
西尾幹二代表執筆、伊藤隆・大石慎三郎・高橋史朗・田久保忠衛・芳賀徹監修、伊藤隆・小林よしのり・坂本多加雄・高森明勅・田中英道・広田好信・藤岡信勝・八木哲・谷原茂生・扶桑社執筆『新しい歴史教科書 市販本』(扶桑社、2001年)
西嶋定生『邪馬台国と倭国 古代日本と東アジア』(吉川弘文館、1994年)
西嶋定生『倭国の出現-東アジア世界のなかの日本』(東京大学出版会、1999年)
旗田巍「朝鮮史を学ぶために」朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』第23刷(三省堂、1992年、第1刷の刊行は1974年)
平野聡『興亡の世界史17 大清帝国と中華の混迷』(講談社、2007年)
古田博司『新しい神の国』(筑摩書房、2007年)
堀敏一『中国と古代東アジア世界』(岩波書店、1993年)
堀敏一『東アジアのなかの古代日本』(研文出版、1998年)
松木武彦『日本の歴史第1巻 列島創世記』(小学館、2007年)
宮崎市定、佐伯富『世界の歴史6 宋と元』中公文庫版17版(中央公論社、1989年、初版の刊行は1975年)
宮崎市定「世界史序説」『宮崎市定全集2 東洋史』(岩波書店、1992年)
日本列島は中国大陸文明圏に含まれるのか
「中国」という呼称の問題については一応結論を出したので、文明の問題に戻ります。「東アジア文明」よりも「中国文明」のほうが相応しい呼称だとしたら、「中国大陸」という通時的な地理的呼称を採用したわけですから、くどいというか語感が悪いのですが、「中国大陸文明」と呼ぶことにします。以下、「中国大陸」や「中国大陸文明」や「日本列島」や「日本」などについては、原則として「」をつけないことにします。
漢字をもっとも重要な指標とする中国大陸文明の範囲が、必ずしも中国大陸と一致していないことは言うまでもありません。それは、中国大陸文明がある時期以降に日本列島や朝鮮半島の大部分をも含むと考えられるからということだけではなく、中国大陸においても、中国大陸文明がじゅうぶんに浸透していない地域が、かなり後まで存在したと思われるためです。そのことを前提として、以下文明圏の問題について述べていきます。
ある時期以降の日本列島の大半を中国大陸文明の一員とみなすか否かという問題については、見解が分かれています。日本はそもそも「東アジア」ではないという見解においては、日本列島(の大半)と中国大陸・朝鮮半島との社会構造の違いや、それに起因する価値観の違いが根拠とされます(古田『新しい神の国』)。
確かに、日本と中華人民共和国との社会構造・価値観の違いは大きく、それは「資本主義国家」と「社会主義国家」の違いというよりも、前近代からの大きな違いに由来する根の深いものであることは間違いないでしょう。その意味で、この対立は中華人民共和国がかりに「自由化・民主化」されたとしても解消されるようなものではなく、日本人にしても中国人(とくに漢族)にしても、なんとなくお互いに相手を自分と似たような存在と考えるのではなく、「同文同種」だとの幻想を捨て、価値観の大きく異なる他者なのだと認識することが必要なのだと思います。そもそも、「同文同種」だから「団結・仲良く」すべしとの観念は、グローバル化の進展した現代世界ではもはや不要の考えといってよいでしょうし、相互の差異を無視して過剰な期待感を抱かせることにもなりますから、有害だと言うべきでしょう。
ただ、だからといって前近代において日本列島は中国大陸とは異なる文明圏に属していたのかというと、そうではなかろうと考えています。これは、文明圏をどのように認識するのかという問題であり、現代日本は近現代欧米文明の一員であるとの私の認識から言うと、前近代におけるある時期以降の日本列島の大半は、中国大陸文明圏に含まれることになります。
もちろん、キリスト教的価値観が重要な背景として存在するか否かということを要因とする、日本と欧米との価値観の違いは小さくありません。ただ、グレゴリオ暦や定時法の採用、ほとんどの場合で「公的服装」が欧米由来であること、「西洋式建築」の一般化など、生活文化から政治・経済・学術など社会のあらゆる面において欧米化が進んでいます。このような現状は、現代日本を近現代欧米文明の一員と区分するのに相応しい、と私は考えています。
この観点からは、中華人民共和国、とくにその沿岸地域も近現代欧米文明圏に分類されます。もちろん、このような区分は日本や中華人民共和国と欧米との違いを過小評価している、との批判はあるでしょうし、それはもっともなところではありますが、文明圏という概念においては、文明圏の乱立を防ぐためにも、私は分割派(スプリッター)ではなく統合派(ランパー)でいようと思います。欧米文明圏の拡大は、近現代における重要な特徴でした。
前近代の日本列島においては、中国大陸文明は現代日本における欧米文明ほど浸透しておらず、しょせんは一部の知識層のものでしかなかった、との見解もあるでしょう(古田『新しい神の国』)。しかし、前近代の日本列島における仏教の影響力の強さ、農書の導入を含む諸技術の導入なども考慮に入れると、現代日本の基層が前近代において形成されるうえで、決定的な役割を果たしたのが中国大陸文明であることは否定できないでしょう。中国大陸文明は前近代の日本列島の社会にとって、現代における欧米文明のような「普遍的規範」としての性格を有していたのだと思います。
遣唐使の廃止による「国風文化」以降、日本は中国大陸文明から独立したとの見解もあるでしょうが、日本列島が中国大陸文明から大きな影響を受けるのはむしろ中世以降であり、江戸時代の日本は、中国と正式な国交がなかったにもかかわらず、日本の歴史においてもっとも中国文化を尊重した時代であり、儒教がこの時代ほど日本に普及したことはなかったのである(西嶋『邪馬台国と倭国』P295)というわけです。
「東アジア」という区分と「中国」概念の拡大の問題
このように前近代において、中国大陸を重要な発信地として、日本列島や朝鮮半島の大半をも含む中国大陸文明の範囲ですが、中国大陸を日本列島や朝鮮半島と並置させるには地理的範囲も影響力も大きすぎ、華北・華中・華南・関中・四川(蜀)など、より細分化された地域と並置させるのがよいでしょう。もちろん、中国大陸文明の範囲は歴史的に移り変わっているので、固定不変の地理的範囲とはなりません。
現代の日本では、これら中国大陸文明圏を「東アジア」とする区分がよく用いられます。もちろん、「アジア」にせよ「ヨーロッパ」にせよいろいろと問題のある概念だということは大前提なのですが、その大前提のもとで日本における「アジア」という概念を用いた場合、中国大陸文明圏の地理的範囲からして、これを「東アジア」と呼ぶことはさほど不当ではないだろうと思います。
しかし、前近代において「東アジア世界」なるものを想定する場合、この中国大陸文明圏を大きく超えた地理的範囲に設定することは、ほとんど無理だろうと思います。たとえば、ジュシェン(女真)族が支配しており後に「満洲」とも呼ばれた地域、あるいは突厥やウイグルやトゥプト(吐蕃)が支配していた領域の大部分を、「東アジア世界」として一まとめにするのはほとんど無理だと思います。
それらの勢力が中国大陸の一部または大部分を領有する王朝と「交流(戦いも含みます)」があったから、あるいはいわゆる二十四史をはじめとする漢文史料に記載があったから、または中国大陸の一部もしくは大部分を領有したからといって、それらの勢力の政治的影響の及んだ地域をすべて中国大陸または「東アジア」という区分に含めるのは、多分に虚構である「冊封体制」や「華夷秩序」を実体化してしまったことと、同じような過ちを犯すことになるのではないかと思います。
ジュシェン族や「モンゴル人」や「チベット人」には、前近代において中国大陸文明にたいする思慕の念はとくになく、ダイチン=グルン(いわゆる清朝)が宿敵ジューン=ガルを滅ぼし、「新疆」と名づけられた土地や「チベット」を含む広大な土地を「支配」するにあたっても、中国大陸文明が有効に機能したわけではありませんでした(平野聡『興亡の世界史17』P134、146)。「新疆維吾爾」や「西蔵」や「内蒙古」は、「北アジア」や「内陸アジア」などといった区分で把握するのが妥当でしょう。もちろん、「北アジア」や「内陸アジア」をさらに細かく区分する必要があるでしょうが、現在の私の学識ではとても無理なので、大雑把な区分を提示するにとどめておきます。
「新疆維吾爾」や「西蔵」や「内蒙古」を「中国」や「東アジア」といった区分に含めるのは、ダイチン=グルンの「支配領域」を「中国」と読み替えるようになった、近代(もしくは近世末期)以降の中国大陸における「漢族」知識層を中心としたナショナリズムの影響を強く受けた認識と言うべきでしょう(平野聡『興亡の世界史17』)。中華人民共和国が、中華民国を経由してダイチン=グルンの領域の大半を継承したことにより、こうしたナショナリズムは「公式見解」となり、強い影響力を有することになりました。中華人民共和国は中国大陸・北アジア・内陸アジアなどを含む大帝国であり、そのような広大な領土は、たんなる中国大陸の一王朝ではなく、広大な地域を「支配」した複合的な大帝国たるダイチン=グルンの後継国であることに由来します。
そうした意味で、18世紀半ば以降の「新疆維吾爾」などを「中国」と一体のものとする見解には、多少なりとも説得力があると言えるかもしれませんが、やはり観念の産物であり、虚構性の強い認識と言うべきでしょう。18世紀前半以前の「新疆維吾爾」などを「中国」と一体ものとする認識が、虚構であることは言うまでもありません。小島毅『足利義満』では、皇国史観・日本一国史観が何度も「夜郎自大」だとして批判されていましたが、そうした表現を認めるならば、18世紀前半以前の「新疆維吾爾」などを「中国」と一体ものとする、「中華至上主義」とも「漢族ナショナリズム」とも言うべき歴史認識も、同様に「夜郎自大」と言うべきでしょう。
なお、余談になりますが、中華民国を経由してはいるものの、中華人民共和国がダイチン=グルンの後継国であり、それが現在の中華人民共和国の広大な領域の「歴史的根拠」になっているとすると、「外蒙古」とも呼ばれるモンゴル国にたいしても、中華人民共和国は領有権を主張するのではないか、との疑念もあるでしょう。しかし、中華人民共和国はモンゴル人民共和国の独立を認めたので、公式には「外蒙古」の領有を主張しておらず、長期的にはともかく短中期的には、中華人民共和国がモンゴルを併合することはないでしょう。ただ、中華人民共和国と「正統」を争っている中華民国は、共産党との争いに敗れて台湾とその周囲の諸島群に領域が限定されてからは、モンゴルの独立を認めていません。
中華人民共和国が「チベット」を領有する「歴史的根拠」も、ダイチン=グルンの後継国であることに求められるのですが、一方で「チベット」独立の「歴史的根拠」も主張されています。そもそも、近代的国際関係が導入されていない時代の歴史的事象を根拠として、独立・領有の「歴史的根拠」を主張するのは多分に無理があると言えますが、現代の領土紛争において、それらが重要な「歴史的根拠」とされていることも否定できません。中華人民共和国が「チベット」を領有する「歴史的根拠」も、「チベット」が独立する「歴史的根拠」もあるとなると、独立が達成されるか否かは、現実の力関係により決まると言えるでしょう。その意味で、長期的にはともかくとして短中期的には、「チベット」が独立する可能性は皆無に近いでしょう。
日本における「中華至上主義」の問題
さて、近代以降の「漢族」知識層のナショナリズムに由来する、「中国」を「新疆ウイグル」や「チベット」などにまで拡大して歴史的にとらえる見解は、現在の日本では違和感を抱く人が多いでしょう。しかし現在の日本においては、「漢族」知識層のナショナリズムとも関連する、「中華至上主義」または「漢族至上主義」とでも言うべきものが、必ずしも克服されておらず、今後歴史的な「中国」の範囲が拡大して行く恐れがあるように思われます。この問題を考えるには、前近代にさかのぼって日本における中国大陸文明観を見ていく必要があります。
中国大陸文明が近現代における欧米文明のような「普遍的規範」であった前近代の日本において、国学などから中国大陸文明への批判があったとしても、「中華至上主義」が強い影響力をもったのは当然のことと言えるかもしれません。そうした状況だったからこそ、文天祥が幕末の志士の間で英雄視され、その詩「正気の歌」は彼らを鼓舞激励するとともに、大きな教訓を与えていたというわけです(小島毅『中国の歴史07』P369、小島毅『靖国史観』P128、宮崎市定他『世界の歴史6』P372~373)。
明治時代になってからというもの、日本はさまざまな分野で近代欧米文明の摂取に努めますが、一方では、倒幕思想の重要な根拠ともなった朱子学的価値観が、教育勅語などを通じて国民に浸透していきます。日清戦争以降敗戦まで、日本はダイチン=グルンや中華民国や諸軍閥といった、中国大陸を支配する現実の国家・勢力を見下すようになりますが、それは近代欧米的価値観によるものであり、必ずしも「中華至上主義」を克服できていませんでした。
敗戦後の1949年に、日本では自国よりも遅れていると考えられていた中国大陸に、先進的(と考えられていた)社会主義国としての中華人民共和国が成立したことは、少なからぬ日本人に衝撃を与えました。「遅れた封建制」の克服を掲げた中華人民共和国は、論理的には「中華至上主義」とは結びつかないはずですが、情緒的には、その「清新な」印象が過去の「偉大な中国」像と結びつけられる傾向にあったように思われます。
中華人民共和国は、文革後に実質的に社会主義路線を放棄し、前近代における中国大陸文明の「過去の遺産・偉業」を堂々と賞賛する方向に転換しました。そのため、中華人民共和国の高度経済成長・政治および軍事大国化が進み、その影響力が高まるにつれて、自信をもった中国人、とくに漢族系国民は、過去の中国大陸文明の「素晴らしさ」を強く主張し始めてきたように見えます。たとえば、鄭和の航海にたいする異常なまでの過大評価が、中華人民共和国や中華民国を中心に声高に主張されるようになっています(杉山正明『興亡の世界史09』P103・350)。
そうした言説において語られる肥大化した「中国」像、さらにはそれに多少手をくわえて日本で語られる「東アジア」像は、上述したように、近代以降の「漢族」知識層のナショナリズムに由来するものであり、歴史認識としてはきわめて問題の多いものです。しかし、今後中華人民共和国の影響力が強まるにつれて、日本においても、「中国」と現代の中華人民共和国の領域とが同一視されて肥大化した「中国」や、それを多少読み替えて「中国を中心とした東アジア世界」を主張する見解が、「正しい歴史認識」として声高に語られるようになる日が来るかもしれません。
しかも、そのような「東アジア世界論」なる主張は、ポストモダン社会に突入した現代日本においては、「一国史観」を克服するという意味で、「正論」であると受け止められる可能性さえあります。そのようにならないためには、「中華至上主義」を克服する必要があり、その意味では、行き過ぎた面もあるように思われるとはいえ、杉山正明氏のような研究者が積極的に一般向け啓蒙書を執筆するのは、現代日本において必要なことだと言えるでしょう。
中華人民共和国の影響力拡大と「中華至上主義」の浸透を結びつけるのは杞憂だ、との見解もあるでしょうが、勢威盛んな大国や、先進的で倫理道徳的に優れていると考えられている国家の、公的もしくは主流の見解に迎合するような言説は、日本では珍しくありませんでした。
たとえば、戦後ずっとアメリカ合衆国に迎合するような言説は絶えませんし、ソビエト社会主義共和国連邦や文革終結の頃までの中華人民共和国を、日本が目指すべき「先進的社会主義国」の模範として賞賛する見解は珍しくなく、同様にかつては朝鮮民主主義人民共和国も賞賛されていました。もちろん、アメリカ合衆国にしても社会主義諸国にしても、批判されることは少なくありませんでしたが。
さすがに今では、中華人民共和国を「先進的社会主義国」の模範として賞賛する見解はほぼ消え去ったと言ってよいでしょうが、経済成長・軍事力拡大の様相を見て、中華人民共和国に迎合する見解は珍しくありません。過去の例から言うと、中華人民共和国の影響力が拡大するにつれて、「中華至上主義」なり「漢族至上主義」に迎合した言説が日本でも影響力を強めていくでしょう。
もっとも、多民族国家としての中華人民共和国にとって、「中華・中国」の範囲を拡大したうえでの「中華至上主義」は問題ないにしても、「漢族至上主義」は公的には認められないでしょうが、国民のうち圧倒的な人口を占める漢族の間で「漢族至上主義」が盛んになれば、それを抑えるのは難しいでしょう。
ただ、じつは外国に迎合的な言説の当事者たちのなかには、必ずしも自らが迎合していることを自覚していない人も少なくないかもしれません。たとえば、朝鮮史研究者の梶村秀樹氏は、大韓民国の歴史教科書でも一応は認めている漢による朝鮮半島(全域ではありませんが)支配(申奎燮他訳『新版韓国の歴史』)を、朝鮮民主主義人民共和国の歴史学界と同様に否定しています(梶村『朝鮮史』P33~34)。
梶村氏は、「朝鮮史専門家は朝鮮人にこびへつらっている」という見当ちがいの論難(梶村『朝鮮史』P11)と述べています。確かに梶村氏の主観としては、自身は朝鮮民主主義人民共和国や朝鮮ナショナリズムに迎合してはいなかったのでしょう。しかし客観的には、梶村氏は朝鮮ナショナリズムに多分に迎合していた、と言わざるを得ないでしょう。
このような私見にたいして、中華人民共和国を見下している日本人はずっといたし、近年になって「嫌中層」が増えているではないか、との指摘もあるでしょうが、上述したように、それは戦前と同様、おもに近代化(欧米化)という観点からの現実の中華人民共和国への軽蔑であり、必ずしも「中華至上主義」、とくに前近代についての歴史認識におけるそれの克服に結びつくものではありません。
現代日本における「中華至上主義」と過去の私見にたいする反省
こうした「中華至上主義」の広がりを懸念する見解にたいしては、そもそも現代の日本に「中華至上主義」など存在するのか?といった疑問もあるでしょう。正直なところ、現代日本に「中華至上主義」があるのか、あるとしてどの程度なのかという問題は、実証が難しいものです。
ただ、日本における中国大陸史に関する書籍(学術書だけではなく小説や随筆なども含みます)やゲームなどに接していると、中国大陸という「高度文明」の地域と周辺の「野蛮な」地域、「正義」の「漢族」知識人・政治家と「悪」の「蛮族」といった図式を、知らず知らずのうちに受け入れてしまう可能性がけっして低くないのではなかろうか、との危惧はあります。
もっとも、これは自分の体験に基づいた懸念なので、私よりも知的水準の高い人はこのような偏見にとらわれないのかもしれませんが、私よりも本質的に知的水準の高い人でも、10代半ばあたりまでに中国大陸史に関する書籍やゲームに深く接してしまうと、やはり偏見にとらわれてしまう可能性が高いだろうと思います。
恥ずかしい話ですが、小学校高学年の頃より、少年を対象にした中国大陸史に関する書籍を読み始めた私は、その後も色々と中国大陸史に関する書籍を読み進めた結果、20歳頃までは、衛青や霍去病の活躍を喜び、宋が金に華北を奪われたのを悲しみ、明が「野蛮な」元から中国大陸を奪回したのを喜び、明の滅亡を悲しんで呉三桂の「裏切り」を不快に思うような心情を有していました。
もちろん、真剣に悲憤慷慨していたわけではなく、なんとなくといった曖昧な心情ではあったのですが、「漢族」系国家が中国大陸を有するのが正しく、ジュシェン族を含む「蛮族」が中国大陸に国家を樹立するのは間違っている、といった観念を漠然と有していました。
今になってみると、まことに馬鹿げた歴史認識あるいは価値観としか言いようがありませんが、江戸時代半ばから近代まで日本において猛威を振るった「正統史観」は、戦後にも根強く残っており、それが昔の私のような「中国かぶれ」を生んでいるように思われます。たとえば、私はその方の著作を一冊も読んだことがないので具体名は挙げませんが、現代日本のある人気作家の中国大陸史に関する小説のなかには、文天祥を賛美するものがあるそうです。またゲームでは、中国大陸を支配する諸王朝と、その周囲の蛮族という構図が堂々と描かれています(光栄『三國志IV』など)。
まともな研究者の執筆した概説書を読んでいれば、私のようになる心配はあまりないでしょうが、作家の小説や評論家の随筆、少年向けの中国大陸史関連本、さらにはゲームなどに深く接していると、私のような心情・認識を有する危険性は低くないと思います。多感な思春期にそうした作品に接していると、その危険性は高くなるでしょう。
ここまでこの記事では、「一国史観」を克服するという美辞麗句のもとに、「中華至上主義」、さらにはそれによって助長されかねない、17世紀以前の「新疆ウイグル」や「チベット」を「中国」と一体の地域としたり、「中国を中心とする東アジア世界」に含めたりするといった見解(近代以降の「漢族」知識層のナショナリズムに由来します)を批判してきました。こうした見解が現在もあり、今後強まるかもしれないという予測のもとにこうした見解を批判しているわけですが、それは直接には、現実の個人や団体というよりは、過去の自分を対象としています。
こうした状況においては、「正統史観」的な中国大陸史像にたいして冷ややかな見方をすることも必要でしょう。たとえば上述した文天祥について言えば、文天祥は隙をねらって逃走し、故郷の江西へ帰って義兵をあげた。こういえばはなはだ勇ましく聞こえるのであるが、当時の彼の行動も意見も、ごく一部を代表するだけで、彼の義挙に応じた者も、じつははなはだ少数であった(宮崎他『世界の歴史6』P374)との見解があります。
また、かたや内陸部で抵抗をつづける文天祥は、戦意だけはあるものの、度量と将才と人望に欠けていた。(中略)また、かの文天祥は厓山の戦いの前に、信じられないような浅ましい所業もふくめ、失態をかさねて捕虜となり、クビライのもとに送られた。人材好みのクビライは、たとえ虚名であれ、文天祥の「心意気」はなにかと役に立つと判断したのだろう、さかんに仕官をすすめた。しかし、当の本人は余計に依怙地となり、みずからの名声を異様なほどに意識して、あくまで斬死を熱望し、見事に後世の称賛を受けることに成功した(杉山『中国の歴史08』P322~323)との見解もあります。あるいは、杉山氏の見解には行き過ぎた面があるかもしれませんが、基本的には、こうした見解が一般向け書籍にてさらに増えることが望ましいと思います。
地理的区分の限界と問題点
では、かりに「中華至上主義」を克服した「東アジア世界論」が可能だとして、そこに問題はないのかというと、このような区分はあくまで便宜的なものであるし、固定不変的なものでもない、という常識を思い起こせば、たとえ「中華至上主義」を克服できたとしても、さまざまな前提や留保なしに「東アジア世界」を語るのは無理だと、容易に理解できるでしょう。
具体的に言えば、人間の営みは、時間だけではなくほとんどの場合地理的にも連続していますから、「東アジア」世界はそれだけで完結しているのではなく、陸海両方の経路を通じて、「北アジア」や「内陸アジア」や「東南アジア」や「南アジア」や「西アジア」と結びついていたわけです。その場合、たとえば華南のなかのある地域では、「東アジア」の他地域との結びつきよりも、「東南アジア」との結びつきのほうが強いかもしれません。華北であれば、「北アジア」との結びつきの強い地域もあるでしょう。
そう考えると、中国大陸や華北・華南などとはいっても、そのなかには別の区分のほうが妥当だという地域が少なからずあることになります。もっとも、地理的区分とはあくまで便宜的なものであり、あまりにも細分してしまっては意味がないので、あるていど割り切る必要があります。とはいっても、上述したように、人間の営みが地理的に連続していることを過大視し、「北アジア(の一部)」など「東アジア」と「交流」のある地域を、「東アジア世界」の一員と考えるという見解は疑問です。このように「東アジア世界」を拡大していこうとする願望は、中国大陸文明においてかつて重要な役割を果たした天下思想に由来する、と言えるかもしれません。
地理区分の便宜的性格は日本列島についても同様で、たとえば北海道は、更新世の頃も10世紀以降も、「北アジア東部」との結びつきの強さが知られています(松木武彦『日本の歴史第1巻』P46、網野『日本の歴史第00巻』P53)。また中世(あくまでも日本での時代区分です)には、西日本・朝鮮半島沿岸・華南にまたがる「倭寇的海上世界」が出現しました。このような現生人類の複雑な営みを考えると、日本列島なる通時的な地理的呼称を設定することにも深刻な疑問が生じますが、今回は日本と日本列島との関係について上手く整理できなかったので、これは今後の課題としておきます。
ただ結局のところ、地理的区分も含めて分類という行為は、人間の知的営みにおいてたいへん重要ではあるものの、あくまでも理解を助けるための手段だという側面もあります。人間の営みが、時間だけではなくほとんどの場合地理的にも連続していることを考えると、現在の地理的区分も過去の地理的区分もあくまでも便宜的措置であり、多くの前提・留保のもとに、あるていど割り切りつつも、慎重に区分してそれを使用していくしかないのでしょう。
所詮人類は総括的に観察すれば一つの群である。歴史は始より終まで一つの世界の歴史である。世界史の可能不可能の如きは問題ではない。当然あるべき歴史の姿は世界史の外にない。只歴史年代の長い時間と、遠い距離に隔てられて自然に生じた無数の小群の特殊な様相を如何に綜合し、如何に簡単化して、正確にその相貌を把握するかが問題である(宮崎市定「世界史序説」P269)との指摘は、一見すると暴論のようですが、やはり碩学に相応しく深く鋭いものだと思います。
そうした意味で、ある区分を過度に強調したり大前提としたりしてしまうのは、その区分を実態以上に過大なものにしてしまうという意味で、たいへん危険な行為だと思います。「一国史観」にたいする批判は、ポストモダン社会に突入したこともあり、日本では受け入れられやすくなっています。その「一国史観」を批判しそれを超えるものとして提唱される「東アジア世界論」もまた、「一国史観」とも通ずる近代「漢族ナショナリズム」の影響を強く受けている場合もあります。
しかし、「一国史観」を超えた「広い視野」に立脚した歴史認識との美辞麗句が、ポストモダン社会では受け入れられやすいこともあり、その虚構性が見過ごされがちになる危険性があります。しかも、今後中華人民共和国の影響力はさらに拡大していくでしょうが、それにつれて「中華至上主義」の影響力が強まることにより、日本において「東アジア世界論」がさらに実態から乖離した歴史認識になる危険性は、けっして低くないと思います。
終わりに
以上、長々と述べてきましたが、歴史的な地理区分や呼称の問題はたいへん難しく、私ていどの学識では、万人を納得させられるような見解を提示できません。また、今後自分の見解が変わる可能性も高いでしょう。地理区分・名称・歴史認識については、色々と気づいていない錯誤・不統一があるでしょうから、もしお読みいただいた方がいらしたら、色々とご教示いただければ幸いです。
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西尾幹二代表執筆、伊藤隆・大石慎三郎・高橋史朗・田久保忠衛・芳賀徹監修、伊藤隆・小林よしのり・坂本多加雄・高森明勅・田中英道・広田好信・藤岡信勝・八木哲・谷原茂生・扶桑社執筆『新しい歴史教科書 市販本』(扶桑社、2001年)
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