「東アジア世界論」とその問題点(1)
この10日間ほど、ずいぶんと前に執筆した文章を中心として、1日5本ずつ記事を掲載しましたが、今日からは以前のように原則として1日1本ずつ更新していきます。挨拶はこれくらいにして、以下、本題に入りますが、文字数制限にひっかかったので、この(1)と(2)の2回に分けます。
「東アジア」なる枠組みへの疑問
一国主義的歴史観の克服は、日本でもずいぶんと前から強く主張されるようになりましたが、日本におけるポストモダン社会への移行がその背景にあるのでしょう。近代国民国家的歴史観・ナショナリズムの克服、「東アジア世界」という「広い視点」での歴史認識といった言説は、聞こえの良い正論のように受け止められています。
かくいう私も、日本を東アジア世界に位置づける・日本を東アジア的観点から見直すなどと考えて、ヤフー掲示板などで色々と投稿したものです。もう7~8年も前のことでしょうか。冊封体制論にもはまり、そうした観点から「東アジア史」について色々と述べたこともありました。そのため、次のような観点にたいしては、一国主義的歴史観につながるとして、たいへん批判的でした(以下、引用箇所は青字)。
また朝鮮が古くから大陸とくに中国の圧倒的影響下にあったという考えも、なお根強く残っている。中国を中心とする東アジア文化圏や冊封体制の理論によって東アジア世界を設定する考え方が近年有力であるが、これも下手をすると朝鮮史の主体的発展を否定した伝統的見解に帰着する恐れがある(旗田巍「朝鮮史を学ぶために」P7)。
しかし最近は、上記の旗田氏の懸念には妥当なところも少なからずあるな、と思うようになりました。もちろん、現代の南北朝鮮で盛んな朝鮮ナショナリズム的歴史観には今でも批判的なのですが、「東アジア」という枠組みを設定しての歴史認識にたいして、懐疑的というか、ひじょうに慎重な態度を保つべきではないか、との考えに変わりつつあります。そのため、書き溜めておいた文章を今月になってこのブログに大量に掲載するにあたって、多少手を加えた場合もあります。ただ、見直しが不充分なため、この記事の見解とずれた論旨になっている記事もあろうとは思います。
「東アジア文明圏」と「冊封体制」にたいする疑問
このように考えが変わった理由を思い起こしてみると、その発端は、日本と中国は歴史的に大きく構造のことなる社会をへて現代にいたっているのではないか、との見解を知ったことにありました(足立啓二『専制国家史論』)。しかしこの見解を知った後も、社会構造が大きく異なるからといって、必ずしも文明圏が異なるとは言えないので、相変わらず「東アジア」という枠組みは有効だと考えていました。
「東アジア文明圏」の指標としては、漢字・儒教・律令・仏教が挙げられていて(西嶋定生『邪馬台国と倭国』P164~165)、私もそのように考えてきました。しかし現在では、朝鮮半島で漢字が捨てられつつありますし、日本における当用漢字・中華人民共和国における簡体字の採用により、「東アジア文明圏」のもっとも重要な指標と言える漢字の共通性と継時性は、もはやほとんど失われたと言ってよいでしょう。そのため数年前より、現代において「東アジア文明圏」なる枠組みは存在しない、とはっきり考えるようになりました。しかしその後も、前近代における「東アジア文明圏」という枠組みは有効なのではないか、と考えてきました。
その頃から最近にいたるまで、近現代のまなざしによる現存国家の枠組みと、それを前提にしたなんとはなしの「文化圏」イメージをもとに、「冊封体制」なぞに入っているはずもなかった乾燥世界の遊牧軍事権力までをも包み込んで巨大に設定されている「東アジア世界論」もしくは「冊封体制論」は、「一国史」的な見方をこえたいという歴史研究者たちの気分はわかるものの、事実としては無理が目につき、ほとんど成立しがたいものだろう(杉山正明『中国の歴史08』P27)との見解や、そもそも日本は東アジアではないとする見解(古田博司『新しい神の国』)や、「東アジア」という枠組みを自明のものとする日本での通念にたいして疑問を投げかけた見解(平野聡『興亡の世界史17』P38~48)や、「東アジア」という用語がはらむ危うさ・胡散臭さを指摘する見解(杉山正明『興亡の世界史09』P50~51)を読んできましたが、それでも依然として、前近代における「東アジア文明圏」や「冊封体制」という枠組みでの歴史認識は、かなり有効なのではないかと考えてきました。
足利義満にとって「日本国王」は重要な地位だったのか?
しかし、小島毅『足利義満 消された日本国王』を読んだ結果、「東アジア文明圏」や「冊封体制」という枠組みでの歴史認識にたいして、深刻な反省が必要だと痛感しました。同書は、皇国史観・一国史観的な歴史観を「夜郎自大」として批判し、「日本国王」としての足利義満を「東アジア国際秩序」のなかに位置づけるという見解が提示されています。その同書が「東アジア世界論」にたいする疑念の決定的な契機になったのは、あるいは著者の小島氏の意図に反する結果なのかもしれません。それはともかくとして、皇国史観・一国史観的な虚構を排したのはよいけれども、その代わりに「中華」的虚構を過大視してしまったのではないか、というのが同書を読んでの率直な感想で、それは、これまでの自分の見解にもあてはまるのではないか、との思いを強くしました。
同書を読んでこのように思った一因として、同書よりも前に遣隋使に関する論文(川本芳昭「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって」)を読んでいたことが挙げられます。この論文を読んで改めて、「華夷秩序」や「冊封体制」にたいする再考の必要を強く感じ、はたしてそれらがどれだけ実態のある「国際秩序」だったのか、近現代の国際関係の規範を前近代のユーラシア東部の関係に過剰に投影しているのではないか、史書の建前・文飾に囚われすぎではないのか、との疑念が強まりました。もちろん、こんなことは識者からすると当然のことであり、何を今更といった感があるでしょうが、勉強不足の私は最近になってやっと、「華夷秩序」や「冊封体制」や「東アジア」の虚構性をもっと重く受け止めねばならない、と痛感するようになったわけです。
たとえば足利義満の場合、「日本国王」との称号・地位が、彼の権力を固めて政策を実現していくうえで、はたしてどれだけ有効に機能したと言えるのでしょうか。そもそも義満は、貿易の維持・統制に関すること以外で、「日本国王」たることに意味を見出していたのでしょうか。後世の人間が、義満の「日本国王」たることを重視し、「国際秩序への参入」を高く評価するのは、皇国史観・一国史観的な歴史観と同じく、多分に虚構なのだろうと思います。義満が朝貢した明にしても、一見するとかなり本気で華夷秩序の「再建」に乗り出したように思われますが、その実態、とくに当事者たちの意識として、どこまで本気で華夷秩序の実現に尽力したかというと、疑問の残るところです。史書およびその史料となった「公的記録」というものは、多分に建前の価値観を反映したものです。
遣隋使をめぐる問題
これは隋・唐(一時的に周となりますが、この記事では便宜的に唐で通します)代も同様で、今年3月4日分の記事にて述べたように、隋・唐およびその「周辺地域」との間において、「華夷秩序」や「冊封体制」が実態としてどれほど機能していたのか、疑問が残ります。また、隋・唐の官吏・皇帝がどれだけ本気でこうした秩序を信じていたのか、あるいは日本(7世紀までは「対外」的には倭)の上層部が、どれだけ本気で日本(倭)と隋・唐との「対等な関係」を信じていたのか、きわめて疑わしいと思います。なお、以下の『隋書』および『旧唐書』の引用は、いき一郎編訳『中国正史の古代日本記録』より行いました(同書には中華書局標点本が採録されています)。
今年3月4日分の記事にて述べたように、隋・唐と日本(倭)との外交において対立が生じることもありました。おそらく隋・唐にとって、「理想的な華夷秩序」は常に実現されるものではなかったというより、じっさいにはほとんど実現されることはなかったのでしょう。とくに「草原世界」の諸勢力と隋・唐との関係について見る場合には、注意が必要なのだろうと思います(杉山正明『中国の歴史08』P26~27)。
このような理念と現実との不一致をなんとか取り繕って「公的記録」に残すのが官吏の役割であり、取り繕われた「公的記録」を元に、名分論・正統論にうるさい「正史」が編纂されて現代に伝わり、重要な史料になるというわけです。そのように取り繕う才に欠けて、外交交渉に失敗した官僚は、高表仁のように無綏遠之才(『旧唐書』「列伝東夷」)と評されることになるのだと思います。
天子と称した倭の国書にたいして、隋の明帝(煬帝)は激怒したとの見解がありますが(西尾幹二他『新しい歴史教科書』P45)、『隋書』「東夷伝」には帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」とあり、必ずしも激怒したと解釈できるわけではありません。明帝が激怒したとの解釈は、明帝が暴君だとの後世の評価による憶測と言うべきでしょう。もちろん、じっさいに明帝が「激怒」した可能性はあるわけですが、その場合でも、本気で激怒したかどうかは疑問で、明帝というか隋が拠って立つ世界観にしたがって、明帝が「激怒して見せた」ということなのかもしれません。
一方倭の側ですが、隋にたいしては対等な関係を主張し、当初は隋にたいして優位を主張した可能性すら指摘されています(川本芳昭「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって」)。しかし、隋が倭を対等な関係と認めるわけではなく、『日本書記』に採録されている隋からの国書は、隋が倭の君主を下位にみていたことを示しています(堀敏一『東アジアのなかの古代日本』P149)。
遣唐使をめぐる問題
唐代において、日本は新羅・渤海を蕃国とする一方で、唐との対等な関係を主張しましたが、これは日本型「華夷秩序」観によるもので、その価値観においては、新羅・渤海を日本の蕃国扱いにし続けるためにも、日本は唐と対等でなければならないのでした(西嶋定生『倭国の出現』第11章)。もちろん、新羅や渤海が本気で日本の提示した秩序を受け入れていたかどうか、このような日本型「華夷秩序」にどこまで実態があったかとなると、はなはだ疑問です。じっさい、日本側のこうした姿勢が原因となり、日本と新羅との関係は悪化していきます。
しかし、隋や唐にとってこの「華夷秩序」が「国家・政権」を成立させる要素となっていたように、隋や唐から諸制度・文化を導入して「国家」建設を進めた日本(倭)にとっても、「華夷秩序」は国家の存立基盤の一つとされたのでした。ただ、「華夷秩序」という概念自体は、すでに南朝などから倭に導入されていて、倭で独自の「華夷秩序」観・「中華意識」が形成されつつあったと考えるのがよいと思います(川本芳昭「倭国における対外交渉の変遷について」)。
ただ、このような日本の主張を唐が認めていたわけではありません。日本は新羅のような「蕃域」ではなく「絶域」だと唐は考えており、その意味で日本は唐から一応「独立」していたと言えますが、だからといって唐が日本との対等な関係を認めていたというわけではありません。唐はあくまでも日本を朝貢国として位置づけており、日本側も自身が唐にたいして朝貢国であると認識していました(堀敏一『中国と古代東アジア世界』P242~249)。しかし、渤海から日本への国書が六国史に採録されている一方で、唐からの国書、さらにはおそらく日本から唐に送られたであろう国書が六国史に採録されていないのは、それが日本にとっての建前たる「華夷秩序」に反するものだったからだろう、と考えられます(西嶋『倭国の出現』第11章)。
このように隋・唐にせよ日本にせよ、その史書は多分に建前の世界を反映したものであり、「華夷秩序」なり「冊封体制」なりが実態としてどこまで有効に機能していたのか、あるいは日本(倭)が隋・唐と「対等な関係」を結んでいたのかというと、かなり疑問だろうと思います。おそらくそれは、日本(倭)よりもずっと隋・唐への従属度が高かったと一般的には考えられているだろう新羅の場合にも当てはまるのでしょう。もちろん、新羅は日本(倭)よりも隋・唐からずっと強く影響を受けているだろうとは思いますが。
高句麗の滅亡・新羅との対立→和解という情勢変化を受けて、唐にとっての日本の重要度が低下したためか、日本(倭)にたいする唐の国書は、当初は丁寧なものだったのに、玄宗の頃には尊大なものになるというように、「冊封体制」や「華夷秩序」は、史料上でもかなり緩やかというか柔軟なところを見せていました(堀敏一『東アジアのなかの古代日本』P218~233)。それは、「冊封体制」や「華夷秩序」の実態の一部を反映しているのでしょう。
「古代」と現代における「国家」の論理の共通点
このような隋・唐・日本などにおける論理は、現代の国際関係におけるそれと相通ずるところが多分にあります。たとえば、素朴な常識感覚で見たら二つの独立国家である中華人民共和国と中華民国は、相互に正当性を争い(中華民国の立場はこの十数年でかなり変わりつつありますが、決定的な一線は超えていません)、他の国々はどちらか一方しか国家としか承認していません。今では中華民国を国家として承認する国は少数派となり、日本でも中華民国は「台湾」という地域扱いになっています。
また、日本は竹島や北方四島(択捉島・国後島・色丹島・歯舞諸島)の領有を主張していますが、現実には大韓民国が竹島を、ロシア連邦が北方四島を支配し、日本がこれらを領有できるようになる目処はまったく立っていません。それならば、これらを領土だと主張し、大韓民国やロシア連邦との間に無用な対立をわざわざ生じさせなくてもよさそうなもので、むしろこれらの地域にたいする主権放棄を宣言すればよいのではないか、とも思います。
もちろん、政治学・国家論・国際関係論などにおける常識では、私の素朴な疑問は愚劣きわまりないということになるでしょうし、日本国民の一人である私も、竹島や北方四島を放棄しろと政府・国会に本気で要求するつもりはまったくありません。領土・国境・対等な主権などといった概念において、近現代の国際関係と前近代の「正統論」や「冊封体制」や「華夷秩序」とは大いに異なるものですが、現実とは異なることの多い理念を強く主張して正当性を争うという点において、相通ずるものがあると思います。
「東アジア文明圏」の問題点
ただ、「華夷秩序」や「冊封体制」が多分に虚構であり、現代において「東アジア文明圏」という枠組みを設定するのが無理だとしても、前近代において「東アジア文明圏」、あるいは歴史的地域としての「東アジア」という枠組みを設定することはできるのではないか、と考えることもできるでしょう。
しかし当然のことながら、文明圏や歴史的地域は変容していくので、通時的な文明圏・地域呼称を設定するのはなかなか困難です。それを前提としたうえで、現代日本における通念に依拠した場合、上述したように漢字・儒教・律令・仏教を指標とする「東アジア文明圏」を想定できそうです(西嶋『邪馬台国と倭国』P164~165)。しかし、儒教・律令・仏教に漢字が不可欠であることからも分かるように、これが漢字文化圏を前提とした概念であることには注意しておかねばならないでしょう。
そのため、「東アジア文明圏」の地理的範囲は限定されることになります。かつて私は、現在の中華人民共和国における新疆維吾爾(新疆ウイグル)・西蔵(チベット)・内蒙古(内モンゴル)・東北部といった地域をも、17世紀以前から「東アジア文明圏」として扱っていました。そうした見解は現在でも一定の影響力を有しているでしょうが、それには無理があります。つまり、「東アジア文明圏」は現在の中華人民共和国の領域とは一致しないということです。
もう一つの問題として、前近代において「東アジア文明圏」なるものを認めるとしても、その主要な発信地は「中国」だったことが挙げられます。そうするとこの場合、日本では一般的に日本列島や朝鮮半島をも含むものとして想定されている「東アジア」という概念を用いるのが妥当なのか疑問の残るところで、むしろ「中国文明圏」と呼ぶのが相応しいように思います。
「中国」という呼称をめぐる問題
ここで問題となるのは、「中国」という概念の指す範囲です。現代の日本において、「中国」という概念の指す範囲はきわめて曖昧ですが、中華人民共和国の略称ではなく、通時的な地理的呼称として用いられる場合は、いわゆる清代本部18省よりもやや縮小した範囲、もしくは「漢族」が歴史的に多数派だった(と想像されている)地域ということになるでしょうか。しかし、「中国」とは中華人民共和国のことであり、通時的な呼称としては相応しくないとの見解が根強くあるようです。その懸念はもっともなのですが、前近代の歴史的事象を現代的観点から分類・命名しようとすると、どうしても無理が生ずるものであり、矛盾・疑問は承知のうえで、ある用語を使わざるをえないでしょう。
「中国」は西周初期から使われていた用語で、もちろん当時は現代とは意味合いが大きく異なっていましたし、後に「中国」の指す範囲が拡大しても、必ずしも現代の日本で想定されている範囲と一致するわけではありませんが(堀『中国と古代東アジア世界』P19~25)、古くからの用語であることと、広く使用されていることからして、現代の日本において通時的な呼称として用いる根拠はじゅうぶんにあると思います。
現代日本において「中国」を通時的な呼称として用いる場合の難点は、
(1)日本においても自らを「中国」と呼ぶ用法があったように(西嶋『倭国の出現』P233~235)、特定の地域を指す地名としての性格が弱い。
(2)日本の中国地方と混同される可能性がある。
(3)中華人民共和国の略称と同じで混同しやすい。
ということでしょう。
しかし(1)については、中華人民共和国以外の地域を「中国」と呼ぶような習慣は現在ではほとんど忘れ去られていますから、さほど問題にならないでしょう。(2)は、文脈で判断できる場合が多いと思われるので、これもあまり問題にならないと思います。もっとも大きな問題は(3)で、現在の中華人民共和国の領域を過去に投影し、実態よりもはるかに巨大な「中国」像・または「中国文明」像を描くことにもつながりかねません。
そこで一部の人が主張しているのが、「支那」という呼称です。これは、(3)を回避できるという意味では、「中国」よりも相応しい通時的呼称だと言えるでしょう。また、「China」とも通ずるので、その意味でも「中国」より「普遍的」と言えるかもしれませんが、ロシアが「中国」のことを「キタイ」と呼んでいるように、日本が「China」に由来しない呼称を用いたとしても、問題はないだろうと思います。ただ、「支那」の表記は仏典の漢訳以降のことであり(堀『中国と古代東アジア世界』P26)、「中国」や「中華」ほど由緒のある用語とは言えないでしょう。なお、「支那」が日本で一般に用いられるようになったのは江戸時代のことです(京大東洋史辞典編纂会編『新編東洋史辞典』13版)。
この他に、「中華」という用語の使用も考えられ、私もわりと最近執筆した文章では、「中国」ではなく「中華」を使用したこともあります。「中華(中夏)」は「中国」と同義語ですが、中華人民共和国という国名と一部重なることと、「中国」よりもかなり遅く登場するということ(堀『中国と古代東アジア世界』P25)が難点でしょうか。「中夏」を用いれば、国名と一部重なるという問題点を回避できますが、日本ではほとんど馴染みのない表現であるのが問題です。
どの呼称も一長一短といったところですが、けっきょくのところ、もっとも普及している「中国」が無難でしょうか。ただ、中華人民共和国の略称と混同する可能性が高いので、今後は「中国大陸」を通時的な地理的呼称として用いることにします。この場合の「中国大陸」とは、おおむねいわゆる清代本部18省を想定していますが、「民族」構成について現時点では、時代により変わっており、どの時代も「漢族(華夏族)」だけではなく「多民族」が混在していただろう、と述べるにとどめておきます。より詳細な地域区分としては、華北・華南(ときとして華中も)を想定しています。
政治権力・国家を指す場合は、その時々の名称を用いることにし、これは、「朝鮮半島」という通時的な地理的呼称を用いる地域についても同様です。この記事では中華人民共和国を略して呼ぶことはしませんが、今後の記事では「中国」と略すことが多くなると思います。けっきょく「中国(大陸)」を採用したわけですから、長々と無駄なことを述べたように思われるでしょうが、通時的な地理的呼称として「中国」を用いるさいに、現在の中華人民共和国の領域を投影するようなことがあってはならない、との思いが強くあるので、このように長くなってしまいました。
「日本」という呼称の問題
なお日本については、通時的な地理的呼称としては「日本列島」を、より詳細な地理区分としては「北海道」や「東北」や「関東」などを、政治権力(政治的まとまり)・国家を指す場合は、7世紀までは「倭」、8世紀以降は「日本」を用いることにします。 「国家」をさすばあいは、「日本」で統一してもよいとは思うのですが、近畿を中心とする政治権力が7世紀以前に自らをどう呼んでいたのか定かではないので、便宜的にこのようにしておきます。個人的には、「対外的」に「倭」から「日本」へと改める前も後も、近畿を中心とする政治権力は自らを「ヤマト」と呼んでいたのではないかな、と思うのですが。
それはともかくとして、後述する「中国大陸」と文明の関係でも同様のことが言えますが、「日本」と「日本列島」の範囲は、必ずしも一致しない時代のほうが長く続きます。なお、日本は国号であって地名ではないと強く主張する見解(網野善彦『日本の歴史第00巻』P87)もありますが、「国号」や「政治的名称」ではない「純粋な地名」が、はたしてどれだけ存在したかということを考えると、あまり重要な意味のある指摘だとは思えません。
ちなみに、『旧唐書』「列伝東夷」によると、「倭」という名が雅やかでないのを嫌い、「日本」に改名したとありますが、「倭」という名称・文字がじっさいに避けられていたのかというと、やや疑問が残ります。たとえば、初代天皇とされる神武は、『古事記』では神倭伊波禮毘古命と見えます(倉野憲司校注『古事記』)。一方『日本書記』では、神武は神日本磐余彦天皇と見え(黒板勝美他編集『日本書紀 前編』巻第三)、倭という文字が避けられているようにも思われますが、引用された隋からの国書では倭皇とされています(黒板勝美他編集『日本書紀 後編』巻第廿二)。これも建前と実態の違いの実例で、「対外的」には「倭」を否定しているものの、じっさいにはさほど忌避されていなかったのかもしれません。
「東アジア」なる枠組みへの疑問
一国主義的歴史観の克服は、日本でもずいぶんと前から強く主張されるようになりましたが、日本におけるポストモダン社会への移行がその背景にあるのでしょう。近代国民国家的歴史観・ナショナリズムの克服、「東アジア世界」という「広い視点」での歴史認識といった言説は、聞こえの良い正論のように受け止められています。
かくいう私も、日本を東アジア世界に位置づける・日本を東アジア的観点から見直すなどと考えて、ヤフー掲示板などで色々と投稿したものです。もう7~8年も前のことでしょうか。冊封体制論にもはまり、そうした観点から「東アジア史」について色々と述べたこともありました。そのため、次のような観点にたいしては、一国主義的歴史観につながるとして、たいへん批判的でした(以下、引用箇所は青字)。
また朝鮮が古くから大陸とくに中国の圧倒的影響下にあったという考えも、なお根強く残っている。中国を中心とする東アジア文化圏や冊封体制の理論によって東アジア世界を設定する考え方が近年有力であるが、これも下手をすると朝鮮史の主体的発展を否定した伝統的見解に帰着する恐れがある(旗田巍「朝鮮史を学ぶために」P7)。
しかし最近は、上記の旗田氏の懸念には妥当なところも少なからずあるな、と思うようになりました。もちろん、現代の南北朝鮮で盛んな朝鮮ナショナリズム的歴史観には今でも批判的なのですが、「東アジア」という枠組みを設定しての歴史認識にたいして、懐疑的というか、ひじょうに慎重な態度を保つべきではないか、との考えに変わりつつあります。そのため、書き溜めておいた文章を今月になってこのブログに大量に掲載するにあたって、多少手を加えた場合もあります。ただ、見直しが不充分なため、この記事の見解とずれた論旨になっている記事もあろうとは思います。
「東アジア文明圏」と「冊封体制」にたいする疑問
このように考えが変わった理由を思い起こしてみると、その発端は、日本と中国は歴史的に大きく構造のことなる社会をへて現代にいたっているのではないか、との見解を知ったことにありました(足立啓二『専制国家史論』)。しかしこの見解を知った後も、社会構造が大きく異なるからといって、必ずしも文明圏が異なるとは言えないので、相変わらず「東アジア」という枠組みは有効だと考えていました。
「東アジア文明圏」の指標としては、漢字・儒教・律令・仏教が挙げられていて(西嶋定生『邪馬台国と倭国』P164~165)、私もそのように考えてきました。しかし現在では、朝鮮半島で漢字が捨てられつつありますし、日本における当用漢字・中華人民共和国における簡体字の採用により、「東アジア文明圏」のもっとも重要な指標と言える漢字の共通性と継時性は、もはやほとんど失われたと言ってよいでしょう。そのため数年前より、現代において「東アジア文明圏」なる枠組みは存在しない、とはっきり考えるようになりました。しかしその後も、前近代における「東アジア文明圏」という枠組みは有効なのではないか、と考えてきました。
その頃から最近にいたるまで、近現代のまなざしによる現存国家の枠組みと、それを前提にしたなんとはなしの「文化圏」イメージをもとに、「冊封体制」なぞに入っているはずもなかった乾燥世界の遊牧軍事権力までをも包み込んで巨大に設定されている「東アジア世界論」もしくは「冊封体制論」は、「一国史」的な見方をこえたいという歴史研究者たちの気分はわかるものの、事実としては無理が目につき、ほとんど成立しがたいものだろう(杉山正明『中国の歴史08』P27)との見解や、そもそも日本は東アジアではないとする見解(古田博司『新しい神の国』)や、「東アジア」という枠組みを自明のものとする日本での通念にたいして疑問を投げかけた見解(平野聡『興亡の世界史17』P38~48)や、「東アジア」という用語がはらむ危うさ・胡散臭さを指摘する見解(杉山正明『興亡の世界史09』P50~51)を読んできましたが、それでも依然として、前近代における「東アジア文明圏」や「冊封体制」という枠組みでの歴史認識は、かなり有効なのではないかと考えてきました。
足利義満にとって「日本国王」は重要な地位だったのか?
しかし、小島毅『足利義満 消された日本国王』を読んだ結果、「東アジア文明圏」や「冊封体制」という枠組みでの歴史認識にたいして、深刻な反省が必要だと痛感しました。同書は、皇国史観・一国史観的な歴史観を「夜郎自大」として批判し、「日本国王」としての足利義満を「東アジア国際秩序」のなかに位置づけるという見解が提示されています。その同書が「東アジア世界論」にたいする疑念の決定的な契機になったのは、あるいは著者の小島氏の意図に反する結果なのかもしれません。それはともかくとして、皇国史観・一国史観的な虚構を排したのはよいけれども、その代わりに「中華」的虚構を過大視してしまったのではないか、というのが同書を読んでの率直な感想で、それは、これまでの自分の見解にもあてはまるのではないか、との思いを強くしました。
同書を読んでこのように思った一因として、同書よりも前に遣隋使に関する論文(川本芳昭「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって」)を読んでいたことが挙げられます。この論文を読んで改めて、「華夷秩序」や「冊封体制」にたいする再考の必要を強く感じ、はたしてそれらがどれだけ実態のある「国際秩序」だったのか、近現代の国際関係の規範を前近代のユーラシア東部の関係に過剰に投影しているのではないか、史書の建前・文飾に囚われすぎではないのか、との疑念が強まりました。もちろん、こんなことは識者からすると当然のことであり、何を今更といった感があるでしょうが、勉強不足の私は最近になってやっと、「華夷秩序」や「冊封体制」や「東アジア」の虚構性をもっと重く受け止めねばならない、と痛感するようになったわけです。
たとえば足利義満の場合、「日本国王」との称号・地位が、彼の権力を固めて政策を実現していくうえで、はたしてどれだけ有効に機能したと言えるのでしょうか。そもそも義満は、貿易の維持・統制に関すること以外で、「日本国王」たることに意味を見出していたのでしょうか。後世の人間が、義満の「日本国王」たることを重視し、「国際秩序への参入」を高く評価するのは、皇国史観・一国史観的な歴史観と同じく、多分に虚構なのだろうと思います。義満が朝貢した明にしても、一見するとかなり本気で華夷秩序の「再建」に乗り出したように思われますが、その実態、とくに当事者たちの意識として、どこまで本気で華夷秩序の実現に尽力したかというと、疑問の残るところです。史書およびその史料となった「公的記録」というものは、多分に建前の価値観を反映したものです。
遣隋使をめぐる問題
これは隋・唐(一時的に周となりますが、この記事では便宜的に唐で通します)代も同様で、今年3月4日分の記事にて述べたように、隋・唐およびその「周辺地域」との間において、「華夷秩序」や「冊封体制」が実態としてどれほど機能していたのか、疑問が残ります。また、隋・唐の官吏・皇帝がどれだけ本気でこうした秩序を信じていたのか、あるいは日本(7世紀までは「対外」的には倭)の上層部が、どれだけ本気で日本(倭)と隋・唐との「対等な関係」を信じていたのか、きわめて疑わしいと思います。なお、以下の『隋書』および『旧唐書』の引用は、いき一郎編訳『中国正史の古代日本記録』より行いました(同書には中華書局標点本が採録されています)。
今年3月4日分の記事にて述べたように、隋・唐と日本(倭)との外交において対立が生じることもありました。おそらく隋・唐にとって、「理想的な華夷秩序」は常に実現されるものではなかったというより、じっさいにはほとんど実現されることはなかったのでしょう。とくに「草原世界」の諸勢力と隋・唐との関係について見る場合には、注意が必要なのだろうと思います(杉山正明『中国の歴史08』P26~27)。
このような理念と現実との不一致をなんとか取り繕って「公的記録」に残すのが官吏の役割であり、取り繕われた「公的記録」を元に、名分論・正統論にうるさい「正史」が編纂されて現代に伝わり、重要な史料になるというわけです。そのように取り繕う才に欠けて、外交交渉に失敗した官僚は、高表仁のように無綏遠之才(『旧唐書』「列伝東夷」)と評されることになるのだと思います。
天子と称した倭の国書にたいして、隋の明帝(煬帝)は激怒したとの見解がありますが(西尾幹二他『新しい歴史教科書』P45)、『隋書』「東夷伝」には帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」とあり、必ずしも激怒したと解釈できるわけではありません。明帝が激怒したとの解釈は、明帝が暴君だとの後世の評価による憶測と言うべきでしょう。もちろん、じっさいに明帝が「激怒」した可能性はあるわけですが、その場合でも、本気で激怒したかどうかは疑問で、明帝というか隋が拠って立つ世界観にしたがって、明帝が「激怒して見せた」ということなのかもしれません。
一方倭の側ですが、隋にたいしては対等な関係を主張し、当初は隋にたいして優位を主張した可能性すら指摘されています(川本芳昭「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって」)。しかし、隋が倭を対等な関係と認めるわけではなく、『日本書記』に採録されている隋からの国書は、隋が倭の君主を下位にみていたことを示しています(堀敏一『東アジアのなかの古代日本』P149)。
遣唐使をめぐる問題
唐代において、日本は新羅・渤海を蕃国とする一方で、唐との対等な関係を主張しましたが、これは日本型「華夷秩序」観によるもので、その価値観においては、新羅・渤海を日本の蕃国扱いにし続けるためにも、日本は唐と対等でなければならないのでした(西嶋定生『倭国の出現』第11章)。もちろん、新羅や渤海が本気で日本の提示した秩序を受け入れていたかどうか、このような日本型「華夷秩序」にどこまで実態があったかとなると、はなはだ疑問です。じっさい、日本側のこうした姿勢が原因となり、日本と新羅との関係は悪化していきます。
しかし、隋や唐にとってこの「華夷秩序」が「国家・政権」を成立させる要素となっていたように、隋や唐から諸制度・文化を導入して「国家」建設を進めた日本(倭)にとっても、「華夷秩序」は国家の存立基盤の一つとされたのでした。ただ、「華夷秩序」という概念自体は、すでに南朝などから倭に導入されていて、倭で独自の「華夷秩序」観・「中華意識」が形成されつつあったと考えるのがよいと思います(川本芳昭「倭国における対外交渉の変遷について」)。
ただ、このような日本の主張を唐が認めていたわけではありません。日本は新羅のような「蕃域」ではなく「絶域」だと唐は考えており、その意味で日本は唐から一応「独立」していたと言えますが、だからといって唐が日本との対等な関係を認めていたというわけではありません。唐はあくまでも日本を朝貢国として位置づけており、日本側も自身が唐にたいして朝貢国であると認識していました(堀敏一『中国と古代東アジア世界』P242~249)。しかし、渤海から日本への国書が六国史に採録されている一方で、唐からの国書、さらにはおそらく日本から唐に送られたであろう国書が六国史に採録されていないのは、それが日本にとっての建前たる「華夷秩序」に反するものだったからだろう、と考えられます(西嶋『倭国の出現』第11章)。
このように隋・唐にせよ日本にせよ、その史書は多分に建前の世界を反映したものであり、「華夷秩序」なり「冊封体制」なりが実態としてどこまで有効に機能していたのか、あるいは日本(倭)が隋・唐と「対等な関係」を結んでいたのかというと、かなり疑問だろうと思います。おそらくそれは、日本(倭)よりもずっと隋・唐への従属度が高かったと一般的には考えられているだろう新羅の場合にも当てはまるのでしょう。もちろん、新羅は日本(倭)よりも隋・唐からずっと強く影響を受けているだろうとは思いますが。
高句麗の滅亡・新羅との対立→和解という情勢変化を受けて、唐にとっての日本の重要度が低下したためか、日本(倭)にたいする唐の国書は、当初は丁寧なものだったのに、玄宗の頃には尊大なものになるというように、「冊封体制」や「華夷秩序」は、史料上でもかなり緩やかというか柔軟なところを見せていました(堀敏一『東アジアのなかの古代日本』P218~233)。それは、「冊封体制」や「華夷秩序」の実態の一部を反映しているのでしょう。
「古代」と現代における「国家」の論理の共通点
このような隋・唐・日本などにおける論理は、現代の国際関係におけるそれと相通ずるところが多分にあります。たとえば、素朴な常識感覚で見たら二つの独立国家である中華人民共和国と中華民国は、相互に正当性を争い(中華民国の立場はこの十数年でかなり変わりつつありますが、決定的な一線は超えていません)、他の国々はどちらか一方しか国家としか承認していません。今では中華民国を国家として承認する国は少数派となり、日本でも中華民国は「台湾」という地域扱いになっています。
また、日本は竹島や北方四島(択捉島・国後島・色丹島・歯舞諸島)の領有を主張していますが、現実には大韓民国が竹島を、ロシア連邦が北方四島を支配し、日本がこれらを領有できるようになる目処はまったく立っていません。それならば、これらを領土だと主張し、大韓民国やロシア連邦との間に無用な対立をわざわざ生じさせなくてもよさそうなもので、むしろこれらの地域にたいする主権放棄を宣言すればよいのではないか、とも思います。
もちろん、政治学・国家論・国際関係論などにおける常識では、私の素朴な疑問は愚劣きわまりないということになるでしょうし、日本国民の一人である私も、竹島や北方四島を放棄しろと政府・国会に本気で要求するつもりはまったくありません。領土・国境・対等な主権などといった概念において、近現代の国際関係と前近代の「正統論」や「冊封体制」や「華夷秩序」とは大いに異なるものですが、現実とは異なることの多い理念を強く主張して正当性を争うという点において、相通ずるものがあると思います。
「東アジア文明圏」の問題点
ただ、「華夷秩序」や「冊封体制」が多分に虚構であり、現代において「東アジア文明圏」という枠組みを設定するのが無理だとしても、前近代において「東アジア文明圏」、あるいは歴史的地域としての「東アジア」という枠組みを設定することはできるのではないか、と考えることもできるでしょう。
しかし当然のことながら、文明圏や歴史的地域は変容していくので、通時的な文明圏・地域呼称を設定するのはなかなか困難です。それを前提としたうえで、現代日本における通念に依拠した場合、上述したように漢字・儒教・律令・仏教を指標とする「東アジア文明圏」を想定できそうです(西嶋『邪馬台国と倭国』P164~165)。しかし、儒教・律令・仏教に漢字が不可欠であることからも分かるように、これが漢字文化圏を前提とした概念であることには注意しておかねばならないでしょう。
そのため、「東アジア文明圏」の地理的範囲は限定されることになります。かつて私は、現在の中華人民共和国における新疆維吾爾(新疆ウイグル)・西蔵(チベット)・内蒙古(内モンゴル)・東北部といった地域をも、17世紀以前から「東アジア文明圏」として扱っていました。そうした見解は現在でも一定の影響力を有しているでしょうが、それには無理があります。つまり、「東アジア文明圏」は現在の中華人民共和国の領域とは一致しないということです。
もう一つの問題として、前近代において「東アジア文明圏」なるものを認めるとしても、その主要な発信地は「中国」だったことが挙げられます。そうするとこの場合、日本では一般的に日本列島や朝鮮半島をも含むものとして想定されている「東アジア」という概念を用いるのが妥当なのか疑問の残るところで、むしろ「中国文明圏」と呼ぶのが相応しいように思います。
「中国」という呼称をめぐる問題
ここで問題となるのは、「中国」という概念の指す範囲です。現代の日本において、「中国」という概念の指す範囲はきわめて曖昧ですが、中華人民共和国の略称ではなく、通時的な地理的呼称として用いられる場合は、いわゆる清代本部18省よりもやや縮小した範囲、もしくは「漢族」が歴史的に多数派だった(と想像されている)地域ということになるでしょうか。しかし、「中国」とは中華人民共和国のことであり、通時的な呼称としては相応しくないとの見解が根強くあるようです。その懸念はもっともなのですが、前近代の歴史的事象を現代的観点から分類・命名しようとすると、どうしても無理が生ずるものであり、矛盾・疑問は承知のうえで、ある用語を使わざるをえないでしょう。
「中国」は西周初期から使われていた用語で、もちろん当時は現代とは意味合いが大きく異なっていましたし、後に「中国」の指す範囲が拡大しても、必ずしも現代の日本で想定されている範囲と一致するわけではありませんが(堀『中国と古代東アジア世界』P19~25)、古くからの用語であることと、広く使用されていることからして、現代の日本において通時的な呼称として用いる根拠はじゅうぶんにあると思います。
現代日本において「中国」を通時的な呼称として用いる場合の難点は、
(1)日本においても自らを「中国」と呼ぶ用法があったように(西嶋『倭国の出現』P233~235)、特定の地域を指す地名としての性格が弱い。
(2)日本の中国地方と混同される可能性がある。
(3)中華人民共和国の略称と同じで混同しやすい。
ということでしょう。
しかし(1)については、中華人民共和国以外の地域を「中国」と呼ぶような習慣は現在ではほとんど忘れ去られていますから、さほど問題にならないでしょう。(2)は、文脈で判断できる場合が多いと思われるので、これもあまり問題にならないと思います。もっとも大きな問題は(3)で、現在の中華人民共和国の領域を過去に投影し、実態よりもはるかに巨大な「中国」像・または「中国文明」像を描くことにもつながりかねません。
そこで一部の人が主張しているのが、「支那」という呼称です。これは、(3)を回避できるという意味では、「中国」よりも相応しい通時的呼称だと言えるでしょう。また、「China」とも通ずるので、その意味でも「中国」より「普遍的」と言えるかもしれませんが、ロシアが「中国」のことを「キタイ」と呼んでいるように、日本が「China」に由来しない呼称を用いたとしても、問題はないだろうと思います。ただ、「支那」の表記は仏典の漢訳以降のことであり(堀『中国と古代東アジア世界』P26)、「中国」や「中華」ほど由緒のある用語とは言えないでしょう。なお、「支那」が日本で一般に用いられるようになったのは江戸時代のことです(京大東洋史辞典編纂会編『新編東洋史辞典』13版)。
この他に、「中華」という用語の使用も考えられ、私もわりと最近執筆した文章では、「中国」ではなく「中華」を使用したこともあります。「中華(中夏)」は「中国」と同義語ですが、中華人民共和国という国名と一部重なることと、「中国」よりもかなり遅く登場するということ(堀『中国と古代東アジア世界』P25)が難点でしょうか。「中夏」を用いれば、国名と一部重なるという問題点を回避できますが、日本ではほとんど馴染みのない表現であるのが問題です。
どの呼称も一長一短といったところですが、けっきょくのところ、もっとも普及している「中国」が無難でしょうか。ただ、中華人民共和国の略称と混同する可能性が高いので、今後は「中国大陸」を通時的な地理的呼称として用いることにします。この場合の「中国大陸」とは、おおむねいわゆる清代本部18省を想定していますが、「民族」構成について現時点では、時代により変わっており、どの時代も「漢族(華夏族)」だけではなく「多民族」が混在していただろう、と述べるにとどめておきます。より詳細な地域区分としては、華北・華南(ときとして華中も)を想定しています。
政治権力・国家を指す場合は、その時々の名称を用いることにし、これは、「朝鮮半島」という通時的な地理的呼称を用いる地域についても同様です。この記事では中華人民共和国を略して呼ぶことはしませんが、今後の記事では「中国」と略すことが多くなると思います。けっきょく「中国(大陸)」を採用したわけですから、長々と無駄なことを述べたように思われるでしょうが、通時的な地理的呼称として「中国」を用いるさいに、現在の中華人民共和国の領域を投影するようなことがあってはならない、との思いが強くあるので、このように長くなってしまいました。
「日本」という呼称の問題
なお日本については、通時的な地理的呼称としては「日本列島」を、より詳細な地理区分としては「北海道」や「東北」や「関東」などを、政治権力(政治的まとまり)・国家を指す場合は、7世紀までは「倭」、8世紀以降は「日本」を用いることにします。 「国家」をさすばあいは、「日本」で統一してもよいとは思うのですが、近畿を中心とする政治権力が7世紀以前に自らをどう呼んでいたのか定かではないので、便宜的にこのようにしておきます。個人的には、「対外的」に「倭」から「日本」へと改める前も後も、近畿を中心とする政治権力は自らを「ヤマト」と呼んでいたのではないかな、と思うのですが。
それはともかくとして、後述する「中国大陸」と文明の関係でも同様のことが言えますが、「日本」と「日本列島」の範囲は、必ずしも一致しない時代のほうが長く続きます。なお、日本は国号であって地名ではないと強く主張する見解(網野善彦『日本の歴史第00巻』P87)もありますが、「国号」や「政治的名称」ではない「純粋な地名」が、はたしてどれだけ存在したかということを考えると、あまり重要な意味のある指摘だとは思えません。
ちなみに、『旧唐書』「列伝東夷」によると、「倭」という名が雅やかでないのを嫌い、「日本」に改名したとありますが、「倭」という名称・文字がじっさいに避けられていたのかというと、やや疑問が残ります。たとえば、初代天皇とされる神武は、『古事記』では神倭伊波禮毘古命と見えます(倉野憲司校注『古事記』)。一方『日本書記』では、神武は神日本磐余彦天皇と見え(黒板勝美他編集『日本書紀 前編』巻第三)、倭という文字が避けられているようにも思われますが、引用された隋からの国書では倭皇とされています(黒板勝美他編集『日本書紀 後編』巻第廿二)。これも建前と実態の違いの実例で、「対外的」には「倭」を否定しているものの、じっさいにはさほど忌避されていなかったのかもしれません。
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