中野正志『万世一系のまぼろし』(追記有)
朝日新聞社が刊行している朝日新書の一冊として、2007年1月に刊行されました。著者は元朝日新聞社の論説委員とのことで、カバーでの宣伝文句は「女系天皇容認の立場から、男系説を徹底検証」となっています。天皇制廃止論者の私は、皇室典範改正の議論にさほど熱心ではありませんでしたが、それでも一歴史ファンとしての興味はあり、新聞・雑誌・掲示板などで双方の意見を読んだこともありますし、議論が下火になってから、雑感を述べたこともあります。そうした関心から、『万世一系のまぼろし』を購入したというわけです。
さて、内容についてですが、中野氏の主張を簡潔にまとめると、
●男系派の根拠である万世一系という伝統は幕末~明治期に創られた伝統である。
●女帝は過去に8人おり、その中には必ずしも中継ぎとはいえない天皇もいる。
●古墳時代には女性首長もいたし、そもそも古代日本は双系社会だったのであり、古代の天皇家にも父系的原理だけではなく、母系的原理が働いていたのではないか。継体天皇の即位も、その傍証となるのではなかろうか。
●天皇の在り様は時代とともに変容してきており、戦後の天皇の地位の正当性は国民の支持にあるが、世論調査では女性天皇・女系天皇容認の支持のほうが高い。
●根拠とする伝統も事実ではなく、国民の支持も得られていない男系派には説得力がない。
となります。
しかしこれでは、歴史解釈の問題をさておくとしても(万世一系につながる観念は、遅くとも平安中期には芽生えていたと私は考えています)、とても男系派を説得できないだろうなあ、というのが正直な感想です。なんといっても致命的なのは、男系派がたびたび指摘していることですが、女性天皇と女系天皇の区別が明確に述べられていないことです。
神武からの万世一系(ここでは、血統による世襲・男系のみによる皇位継承・皇統が南北朝時代のように決定的に分裂または対立することがない、と定義しておきます)という見解には私も同調しませんが、かなり記録がはっきりしてくる継体以降、天皇位は基本的には男系継承の原理で続いてきており、女系継承原理による即位はありません(この見解について異論がないわけではありませんが、説得力に欠けると思います)。6世紀の継体以降ということであれば、伝統と考えるにはじゅうぶんな時間でしょう。神武以来といった言説はともかくとして、男系派の伝統重視との主張にはじゅうぶんな根拠があると言えます。
ただ、著者が男系派を説得できていないからといって、男系派の主張に納得したというわけではありません。女系派を伝統の理解できていない愚か者と批判する傾向のある男系派へのもっとも大きい不満は、伝統を叫んで男系維持を主張しておきながら、一夫一婦制度では男系維持が難しいことにはほとんど触れず(旧宮家の復活を提案してはいますが)、一夫多妻制度への回帰を提案する人がほとんどいないことで、これは先進国の欧米がキリスト教圏であることへの配慮からなのでしょう。
ある若手論客は、自分のような1960年代以降に生まれた若い世代には、欧米への劣等感も中朝への軽蔑感もないと主張していましたが、これは大嘘で、現在の日本の若い世代にも、そうした意識は濃厚にあると思います(もちろん、1972年生まれの私もそうした意識から自由ではありえません)。もし、一夫多妻制度は人倫に背くというのであれば、皇族の権利・自由が大幅に制限される現在の天皇制こそ、人倫に背いていると思うのですが。
追記(2008年3月11日)
この記事にたいして、子欲居さんからトラックバックをいただきました。「天皇家」の成立は現代になってからではないか、聖武天皇以降、昭和天皇以前の「天皇家」は、母系から見れば実質的には「藤原王朝」であり、歴代藤原氏はその娘を皇后にし、「天皇家」の外戚として、つまり母系から権力をふるったのではないか、とのご指摘です。以下、このご指摘にたいする私の返答です。
まず申しあげておきたいのは、聖武から宇多までの間でも、淳仁・光仁・桓武・仁明・宇多のように、藤原氏以外の女性を母とする天皇は少なくない、ということです。娘を「天皇家」に嫁がせ、その外戚として権力をふるうような政治のあり方が継続的になるのは、朱雀以降か、せいぜい文徳にまでしかさかのぼらないでしょう。
このように、藤原氏が天皇の「ミウチ」として摂関に就任して政治を主導するような政治のあり方は、後三条の即位により終わります。院政期以降、天皇の「ミウチ」であることは摂関就任の要件ではなくなります。藤原氏が天皇の「ミウチ」として政権を主導するような政治のあり方は、どんなに長く見積もっても300年を超えることはなく、「朝廷の歴史」という観点からは、さほど長期のことではなかったと言うべきでしょう。
もちろん院政期以降も、藤原氏出身の女性を母とする天皇は少なくありませんが、摂関家出身者はほとんどいませんし、源氏出身の女性を母とする天皇も少なくなく、皇位継承にさいして母の地位の重みは摂関期よりも低下します。皇位継承にさいして、「母系」が大きな意味を有するとかりに想定できるとしたら、それは摂関期まででしょう。
それはともかくとして、摂関期以前も皇位継承にさいしては、男系原理が貫徹されていたのでしょう。たとえば、宮子は文武の皇后ではなく妃なので問題はありませんでしたが、光明子の立后が問題になったのは、当時は皇后が即位する可能性があるのに、光明子が皇族ではなく藤原氏出身だからと考えるのが妥当だと思います。日本列島と中国大陸の社会構造はかなり異なりますが、皇位継承については、中国大陸的な父系血族重視の価値観にしたがって、古代よりずっと行なわれているのでしょう。
院政期以降も、天皇の「ミウチ」が権力をふるうことが時としてありますが、それは摂関期のように構造的・継続的なものではなくなります。確かに、院政期以降も藤原氏出身の女性を母とする天皇は少なくありませんが、このころにはもはや「氏族」の意味はあまりなくなっており、日本列島の社会は「イエ」制度へと移行していきます。じっさい、摂関を独占した藤原氏の五摂家にしても、近衛・九条といった単位で把握されるようになります。なお、天皇「家」の成立については、一般的に院政期とされており、そう考えるのが妥当だろうと思います。
さて、内容についてですが、中野氏の主張を簡潔にまとめると、
●男系派の根拠である万世一系という伝統は幕末~明治期に創られた伝統である。
●女帝は過去に8人おり、その中には必ずしも中継ぎとはいえない天皇もいる。
●古墳時代には女性首長もいたし、そもそも古代日本は双系社会だったのであり、古代の天皇家にも父系的原理だけではなく、母系的原理が働いていたのではないか。継体天皇の即位も、その傍証となるのではなかろうか。
●天皇の在り様は時代とともに変容してきており、戦後の天皇の地位の正当性は国民の支持にあるが、世論調査では女性天皇・女系天皇容認の支持のほうが高い。
●根拠とする伝統も事実ではなく、国民の支持も得られていない男系派には説得力がない。
となります。
しかしこれでは、歴史解釈の問題をさておくとしても(万世一系につながる観念は、遅くとも平安中期には芽生えていたと私は考えています)、とても男系派を説得できないだろうなあ、というのが正直な感想です。なんといっても致命的なのは、男系派がたびたび指摘していることですが、女性天皇と女系天皇の区別が明確に述べられていないことです。
神武からの万世一系(ここでは、血統による世襲・男系のみによる皇位継承・皇統が南北朝時代のように決定的に分裂または対立することがない、と定義しておきます)という見解には私も同調しませんが、かなり記録がはっきりしてくる継体以降、天皇位は基本的には男系継承の原理で続いてきており、女系継承原理による即位はありません(この見解について異論がないわけではありませんが、説得力に欠けると思います)。6世紀の継体以降ということであれば、伝統と考えるにはじゅうぶんな時間でしょう。神武以来といった言説はともかくとして、男系派の伝統重視との主張にはじゅうぶんな根拠があると言えます。
ただ、著者が男系派を説得できていないからといって、男系派の主張に納得したというわけではありません。女系派を伝統の理解できていない愚か者と批判する傾向のある男系派へのもっとも大きい不満は、伝統を叫んで男系維持を主張しておきながら、一夫一婦制度では男系維持が難しいことにはほとんど触れず(旧宮家の復活を提案してはいますが)、一夫多妻制度への回帰を提案する人がほとんどいないことで、これは先進国の欧米がキリスト教圏であることへの配慮からなのでしょう。
ある若手論客は、自分のような1960年代以降に生まれた若い世代には、欧米への劣等感も中朝への軽蔑感もないと主張していましたが、これは大嘘で、現在の日本の若い世代にも、そうした意識は濃厚にあると思います(もちろん、1972年生まれの私もそうした意識から自由ではありえません)。もし、一夫多妻制度は人倫に背くというのであれば、皇族の権利・自由が大幅に制限される現在の天皇制こそ、人倫に背いていると思うのですが。
追記(2008年3月11日)
この記事にたいして、子欲居さんからトラックバックをいただきました。「天皇家」の成立は現代になってからではないか、聖武天皇以降、昭和天皇以前の「天皇家」は、母系から見れば実質的には「藤原王朝」であり、歴代藤原氏はその娘を皇后にし、「天皇家」の外戚として、つまり母系から権力をふるったのではないか、とのご指摘です。以下、このご指摘にたいする私の返答です。
まず申しあげておきたいのは、聖武から宇多までの間でも、淳仁・光仁・桓武・仁明・宇多のように、藤原氏以外の女性を母とする天皇は少なくない、ということです。娘を「天皇家」に嫁がせ、その外戚として権力をふるうような政治のあり方が継続的になるのは、朱雀以降か、せいぜい文徳にまでしかさかのぼらないでしょう。
このように、藤原氏が天皇の「ミウチ」として摂関に就任して政治を主導するような政治のあり方は、後三条の即位により終わります。院政期以降、天皇の「ミウチ」であることは摂関就任の要件ではなくなります。藤原氏が天皇の「ミウチ」として政権を主導するような政治のあり方は、どんなに長く見積もっても300年を超えることはなく、「朝廷の歴史」という観点からは、さほど長期のことではなかったと言うべきでしょう。
もちろん院政期以降も、藤原氏出身の女性を母とする天皇は少なくありませんが、摂関家出身者はほとんどいませんし、源氏出身の女性を母とする天皇も少なくなく、皇位継承にさいして母の地位の重みは摂関期よりも低下します。皇位継承にさいして、「母系」が大きな意味を有するとかりに想定できるとしたら、それは摂関期まででしょう。
それはともかくとして、摂関期以前も皇位継承にさいしては、男系原理が貫徹されていたのでしょう。たとえば、宮子は文武の皇后ではなく妃なので問題はありませんでしたが、光明子の立后が問題になったのは、当時は皇后が即位する可能性があるのに、光明子が皇族ではなく藤原氏出身だからと考えるのが妥当だと思います。日本列島と中国大陸の社会構造はかなり異なりますが、皇位継承については、中国大陸的な父系血族重視の価値観にしたがって、古代よりずっと行なわれているのでしょう。
院政期以降も、天皇の「ミウチ」が権力をふるうことが時としてありますが、それは摂関期のように構造的・継続的なものではなくなります。確かに、院政期以降も藤原氏出身の女性を母とする天皇は少なくありませんが、このころにはもはや「氏族」の意味はあまりなくなっており、日本列島の社会は「イエ」制度へと移行していきます。じっさい、摂関を独占した藤原氏の五摂家にしても、近衛・九条といった単位で把握されるようになります。なお、天皇「家」の成立については、一般的に院政期とされており、そう考えるのが妥当だろうと思います。
この記事へのコメント
大英帝国を見習い天皇家を祭り上げたのが今、
しかし戦前の昭和天皇は、史上最高の戦犯者である。