日本における中華意識の形成
倭国における対外交渉の変遷を、中華意識および大宰府の形成と関連させて論じた研究(川本芳昭「倭国における対外交渉の変遷について」)があります。律令国家の外交の一端も担った大宰府の淵源を、『三国志』に見える一大率に求める見解がありますが、この研究では、一大率は外交機関というよりも、むしろ卑弥呼・倭国の側からの国内的要因のもとに設置されていたのであり、倭国の中心地としてかつて対中外交を担っていたという権威のある伊都国や、それを核として再結集する可能性のある国内諸国を監視することがその本質だった、とされます。一大率の外交的側面は、監視機能の延長にあったと考えられます。
卑弥呼の時代もそうでしたが、その前も後も、倭国は中華の地の諸王朝に朝貢し、その冊封を受けてきました。それが変化する兆しは、いわゆる倭の五王の時代である5世紀に認められます。
この時代も、基本的に倭国は中華の地の諸王朝に朝貢し、その冊封を受けているのですが、一方「国内」では、「治天下」という用語が使われるようになります。これは、倭国が自らを中華と自認し始めたことを示すものと考えられます。そうした姿勢の延長線上に、隋にたいして自らを天子と称した外交姿勢が生まれたわけです。
5世紀以降の倭国における「天下」とは、中華系史料に見える倭国の要求から推測すると、たんに日本列島のみならず、百済・新羅など朝鮮半島南部をも含んでおり、倭国の王権はそれら朝鮮半島南部の諸国にたいして一定の宗主意識を抱き、それら諸国からの使者を朝貢使と認識していたと考えられます。
筑紫将軍所・筑紫大宰といった後の大宰府につながると考えられる施設・官職は、巨大帝国たる隋の出現とその圧力という東アジア情勢の変動に関連しており、7世紀初頭前後には出現していたと思われます。そうした状況下で成立していった大宰府には、元々軍政府としての性格が強かったのですが、新羅の朝鮮半島統一と唐の朝鮮半島からの撤退など、東アジアにおける緊張緩和が要因となって、次第に外交的役割のほうが大きな意味を持つようになります。
律令制度をはじめとする中華文明の本格的導入は、より洗練された華夷秩序観の導入・形成にもつながり、大宰府は外夷の朝貢を受ける機関という性格を有することになります。都の置かれた畿内から遠く離れた地に本格的な外交機関が置かれたのは、中国における華夷秩序を反映したからでもありました。大宰府は日本国において、漢における楽浪郡・唐における揚州のような地位を占めていた、というわけです。
参考文献:
川本芳昭「倭国における対外交渉の変遷について : 中華意識の形成と大宰府の成立との関連から見た」『史淵』143号、P27-64(2006年)
卑弥呼の時代もそうでしたが、その前も後も、倭国は中華の地の諸王朝に朝貢し、その冊封を受けてきました。それが変化する兆しは、いわゆる倭の五王の時代である5世紀に認められます。
この時代も、基本的に倭国は中華の地の諸王朝に朝貢し、その冊封を受けているのですが、一方「国内」では、「治天下」という用語が使われるようになります。これは、倭国が自らを中華と自認し始めたことを示すものと考えられます。そうした姿勢の延長線上に、隋にたいして自らを天子と称した外交姿勢が生まれたわけです。
5世紀以降の倭国における「天下」とは、中華系史料に見える倭国の要求から推測すると、たんに日本列島のみならず、百済・新羅など朝鮮半島南部をも含んでおり、倭国の王権はそれら朝鮮半島南部の諸国にたいして一定の宗主意識を抱き、それら諸国からの使者を朝貢使と認識していたと考えられます。
筑紫将軍所・筑紫大宰といった後の大宰府につながると考えられる施設・官職は、巨大帝国たる隋の出現とその圧力という東アジア情勢の変動に関連しており、7世紀初頭前後には出現していたと思われます。そうした状況下で成立していった大宰府には、元々軍政府としての性格が強かったのですが、新羅の朝鮮半島統一と唐の朝鮮半島からの撤退など、東アジアにおける緊張緩和が要因となって、次第に外交的役割のほうが大きな意味を持つようになります。
律令制度をはじめとする中華文明の本格的導入は、より洗練された華夷秩序観の導入・形成にもつながり、大宰府は外夷の朝貢を受ける機関という性格を有することになります。都の置かれた畿内から遠く離れた地に本格的な外交機関が置かれたのは、中国における華夷秩序を反映したからでもありました。大宰府は日本国において、漢における楽浪郡・唐における揚州のような地位を占めていた、というわけです。
参考文献:
川本芳昭「倭国における対外交渉の変遷について : 中華意識の形成と大宰府の成立との関連から見た」『史淵』143号、P27-64(2006年)
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