神野志隆光『複数の「古代」』
講談社現代新書の一冊として、講談社より2007年10月に刊行されました。著者の専攻は日本古代文学で、本書においては、古代日本には『古事記』・『日本書紀』など複数の歴史があったとされ、おもに『古事記』と『日本書紀』との歴史の語りかたの違いが論じられています。
『古事記』は文字のはたらきを語らず、文字とは別にあったもの(オーラルなことばの世界)を語りました。『古事記』の「政」は臣下のおこなうものであり、天皇はそれを「聞こしめす」のでした。これは、オーラルなことばの世界の天皇のありようとして、はじめて明確にとらえられます。いっぽう『日本書紀』は、文字の文化国家への展開のなかにある「古代」を語るものでした。これらテキストの理解は、現実に帰されるべきものではなく、あくまでテキストの語る「古代」・「歴史」として見るべきものです。
奈良・平安時代においては、『古事記』と『日本書紀』の語った「歴史」以外の「歴史」もありえました。仏教伝来の年が異なるなど、『日本書紀』とは別な紀年構成を有していた、『上宮聖徳法皇帝説』がそうです。『日本書紀』と『上宮聖徳法皇帝説』のどちらが史実なのかと追求することは、多様な「古代」を押しつぶすことになります。古代人(奈良・平安時代の人々)がつくり求めようとした、多様な「古代」を見るべきではないでしょうか。
本書ではこのように説かれ、色々と教えられるとともに、古代にかぎらずテキストの読解について、深く考えさせられるものがありました。また、『万葉集』について、あくまでテキストにおいて成立するものとしての「和歌史」・「歌人」であり、それは『古事記』・『日本書紀』とならぶ営みであった、との見解も興味深いものです。自分の見識のなさと考えの浅さを痛感させられた一冊でした。
『古事記』は文字のはたらきを語らず、文字とは別にあったもの(オーラルなことばの世界)を語りました。『古事記』の「政」は臣下のおこなうものであり、天皇はそれを「聞こしめす」のでした。これは、オーラルなことばの世界の天皇のありようとして、はじめて明確にとらえられます。いっぽう『日本書紀』は、文字の文化国家への展開のなかにある「古代」を語るものでした。これらテキストの理解は、現実に帰されるべきものではなく、あくまでテキストの語る「古代」・「歴史」として見るべきものです。
奈良・平安時代においては、『古事記』と『日本書紀』の語った「歴史」以外の「歴史」もありえました。仏教伝来の年が異なるなど、『日本書紀』とは別な紀年構成を有していた、『上宮聖徳法皇帝説』がそうです。『日本書紀』と『上宮聖徳法皇帝説』のどちらが史実なのかと追求することは、多様な「古代」を押しつぶすことになります。古代人(奈良・平安時代の人々)がつくり求めようとした、多様な「古代」を見るべきではないでしょうか。
本書ではこのように説かれ、色々と教えられるとともに、古代にかぎらずテキストの読解について、深く考えさせられるものがありました。また、『万葉集』について、あくまでテキストにおいて成立するものとしての「和歌史」・「歌人」であり、それは『古事記』・『日本書紀』とならぶ営みであった、との見解も興味深いものです。自分の見識のなさと考えの浅さを痛感させられた一冊でした。
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