遠山美都男『古代の皇位継承 天武系皇統は実在したか』

 歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2007年11月に刊行されました。天智と天武の関係については、7年以上前に私見を述べたことがあります。その後、天智系と天武系という区分は当時(飛鳥時代後期~奈良時代)存在したのだろうか、そうした区分をはじめてはっきりと意識したのは桓武だったのではなかろうか、との疑問が生じました。しかし、日本中世史や古人類学のほうに関心が移ったこともあり、この疑問は放置したままにしていました。そのため、書店で本書を見かけたとき、以前からの疑問を解決する手がかりになるのではないかと思い、購入しました。

 本書では、古代における天智系と天武系との対立との認識は、後世の誤認であるとされており、この見解には私も同意します。また近年になって提唱されている、律令国家では天智が始祖として高く評価されていたとの見解についても、当時にあっては天智を皇統の始祖と位置づけるものではなく、あくまでも律令国家の初代天皇との位置づけであった、とされています。

 当時の皇統意識の起点は当初は文武にあり、やがて草壁(文武の父)に移ったのだ、と本書では指摘されています。ただ、本書全般に言えることですが、史料や状況証拠から当時の観念を組み立てていくさいに、やや安易さが見えるようにも思われます。とはいえ、全体的になかなか興味深い見解が提示されており、説得力もそれなりにあるとは思います。

 天武系から天智系への交代としてよく指摘される光仁の即位については、聖武(文武の子)との関係が指摘され(当初は、光仁の皇后は聖武の娘の井上内親王であり、両者の間の息子である他戸親王が皇太子とされました)、天智系への交代との見解は成立しない、とされています。

 また、光仁の次に即位した桓武にしても、光仁と井上との娘である酒人内親王を妃とし、両者の間に生まれた朝原内親王を平城(桓武の長男で桓武の次代の天皇)に嫁がせていることから、けっして聖武とは無縁ではなかった、とされています。こうした近親婚は、天智と天武の一族の間で繰り返された近親婚と通ずるところがあるように思われます。

 もっとも桓武は、文武・草壁を基点とするじゅうらいの皇統ではなく、新たな皇統樹立を目指して遷都します。桓武は中国的な祭儀を取り入れ、中国的皇統を創出しようとしました。そのさいに桓武は、自分の父である光仁を王朝の開祖・皇統の始祖として祭り上げたのであり、けっして天智を始祖としたのではありませんでした。桓武は、後に天皇に即位した平城・嵯峨・淳和の三人をそれぞれ起点として、複数の系統から交替で天皇を出そうとしたのだ、と本書では推測されています。


 以上、本書についてざっと見てきましたが、天智系と天武系との対立との認識が同時代にはなかったとの本書の主張は、基本的には正しいだろうと思います。桓武については、本書の見解と私の(本書を読む前の)見解とは異なっていますが、本書を読んだかぎりでは、私の見解のほうが間違っているように思われます。やや強引さも感じましたが、なかなか興味深い一冊でした。いつか天智と天武の関係について改訂版を執筆するときには、本書も参考文献にしなければならないでしょう。

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