遣隋使をめぐる『隋書』と『日本書記』の相違について
ちょっと検索していたら、たまたま興味深い研究(川本芳昭「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって」)を見つけたので、私見を交えつつ、この研究について見ていきます。このときの検索で知ったのですが、日本の人文・社会科学においては、私が想像していたよりもずっと電子化が進んでいるようで、自宅にいながらにして部外者が容易に論文を読めるとは、まことによい時代になったものです。ただ、印刷物からスキャンした画像をそのままPDFファイルにしているようなので、本文から引用するさいにコピペができないのが難点ですが。
さて、この研究ですが、『隋書』「倭国伝」と『日本書記』「推古紀」の記述の相違について論じられています。両者の相違は有名で、そのために九州王朝説なる見解さえ提示されているくらいです。その前提として、『隋書』には、いわゆる二十四史を中心とした漢文史書に共通して見られる、「蛮族」にたいする偏見にもとづく偏向があり、いっぽう『日本書記』にも、編纂当時の価値観によると考えられる潤色が認められることが挙げられます。
たとえば、隋からの国書が『日本書記』に採録されていますが、そこでは「倭皇」との表現が用いられています。しかし、天子を称したことに激怒した煬帝が、国書にて「倭皇」という表現を用いるとは考えにくく、国書には本来「倭王」とあったものと考えられます。しかしその一方で、『日本書記』には「朝貢」という表現はそのまま残されており、『隋書』「突厥伝」の記述とも照らし合わせてみると、『日本書記』に見える隋からの国書は、かなり忠実に原文を伝えているものと考えられます。潤色があるとはいえ、『日本書記』が重要な史料であることは間違いありません。
では、『日本書記』の遣隋使関連の記事でおもだった潤色箇所はどこなのかというと、斐世清にたいする倭王の対応についての記述が挙げられます。『隋書』では、皇帝の名代としての斐世清が倭国との間に争礼を生じることなく帰国したことが記されています。このことから、倭王をはじめとして倭国上層部の対応は、斐世清にとって体面を保てるものであったと考えられます。
『日本書記』では、斐世清が国書を持ち二度再拝して使いの旨を言上せしめられたとあるなど、倭王と斐世清との間にあたかも主従関係があったかのような記述となっていますが、じっさいにそのようなことがあったとは考えにくいわけです。また、『日本書記』では倭王から斐世清への応答はなかったとされますが、じっさいには倭王または倭国上層部から、斐世清にたいしてなんらかの発言があったと考えられます。
ただ、『隋書』にあるように、倭王がじっさいに「我夷人」とまで発言したかとなると、倭側の(隋から見て)「傲慢な」態度から判断すると、疑問が残ります。隋の後の唐において、倭からの使者派遣にたいして、唐は高表仁を倭に派遣しますが、この高表仁は倭の王子と礼を争い、朝命を果たさずに帰国してしまいます。おそらく、中華文明における「理想的な華夷秩序」は常に実現されるというものではなく、倭のように華夷秩序からすると問題のある行動をとる国(政治勢力)も少なくなかったのでしょう。
そうしたときに、中華の地を支配した諸王朝からの使者には、折り合いをつけてなんとかその場を取り繕い、自国の体面を保てるだけの交渉力が要求されたのだと思います。おそらく斐世清には高い交渉能力があったのにたいして、それに欠けていた高表仁は、「無綏遠之才」と評価されたということなのでしょう。
小野妹子の国書紛失事件も、遣隋使をめぐる重大な謎の一つと言えるでしょう。斐世清一行をともなって帰国した妹子は、唐からの帰国時、百済人によって国書を奪われたことを報告します。そこで、群臣は妹子を流罪にしようと決議しますが、推古は妹子を許し、妹子は翌年ふたたび隋に派遣されます。
この件は『日本書記』にのみ見えるのですが、『日本書記』には隋からの国書が採録されています。隋の明帝(煬帝)が斐世清と妹子にそれぞれ同じ国書を授けたとも考えられますが、中華の地を支配した諸王朝にはそのような習慣はなく、妹子が紛失した(と報告した)書とは、おそらく明帝から授けられた訓令書だと考えられます。天子を称した倭からの国書にたいして、明帝は不快感を示していますが、その不快の念を述べた訓令書が妹子に授けられたのではないか、というわけです。
妹子がじっさいにその訓令書を紛失してしまったのか、そうだとして百済人に奪われてしまったのか、あるいは、その訓令書が倭の体面にとって不都合なものであったため、妹子と倭国上層部の判断で握りつぶされたのか、さまざまな可能性が考えられますが、妹子も倭国上層部も、その訓令書の内容を把握していたのは間違いないでしょう。偶発的な事件を利用したのか、紛失事件捏造したのかはともかくとして、おそらくは倭にとって都合が悪かっただろう訓令書は、ともかく葬り去られたというわけです。
この問題とも関連しますが、『日本書記』には記載のない明帝の前代の文帝時代の遣隋使と、第二回遣隋使での天子を称した倭国側からの国書についても、通説とは異なる解釈が考えられます。文帝時代の倭からの遣隋使は、文帝からの質問にたいして、倭王は天をもって兄となし、日をもって弟となす、と答えています。これにたいして文帝は、はなはだ理屈の通らない話だと言い、改めるよう訓令します。
これを、当時の倭の支配層がほとんど中華世界の思想を理解していなかったためだ、とする見解もあります(大山誠一『<聖徳太子>の誕生』P33~36)。しかしこの研究では、天子とは皇帝のことであり、日は皇帝の暗喩であることから、中華的家族制度からすると、倭王は文帝の叔父・叔母であり、また兄とも解釈されるので、このことが文帝の不興を買い、改めるようにと文帝から訓令された理由ではないか、とされます。
そう考えると、隋の皇帝も自国の君主も天子と称した二回目の倭国からの遣隋使は、隋の皇帝にたいする優位を主張した一回目の遣隋使と比較すると、文帝からの訓令を受けて一定の譲歩をした結果とも言えます。ただ、一回目の遣隋使における文帝からの訓令が、二回目の遣隋使の明帝からの場合と同様に、文書の形で倭に伝えられたかどうかは分かりません。もっとも、一回目の遣隋使において、倭が本当に隋にたいして優位を主張したのかという点については、さらなる検証が必要になると思います。
参考文献:
川本芳昭「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって : 遣隋使覚書」『史淵』141号、P53-77(2004年)
大山誠一『<聖徳太子>の誕生』第二刷(吉川弘文館、2000年、第一刷の刊行は1999年)
さて、この研究ですが、『隋書』「倭国伝」と『日本書記』「推古紀」の記述の相違について論じられています。両者の相違は有名で、そのために九州王朝説なる見解さえ提示されているくらいです。その前提として、『隋書』には、いわゆる二十四史を中心とした漢文史書に共通して見られる、「蛮族」にたいする偏見にもとづく偏向があり、いっぽう『日本書記』にも、編纂当時の価値観によると考えられる潤色が認められることが挙げられます。
たとえば、隋からの国書が『日本書記』に採録されていますが、そこでは「倭皇」との表現が用いられています。しかし、天子を称したことに激怒した煬帝が、国書にて「倭皇」という表現を用いるとは考えにくく、国書には本来「倭王」とあったものと考えられます。しかしその一方で、『日本書記』には「朝貢」という表現はそのまま残されており、『隋書』「突厥伝」の記述とも照らし合わせてみると、『日本書記』に見える隋からの国書は、かなり忠実に原文を伝えているものと考えられます。潤色があるとはいえ、『日本書記』が重要な史料であることは間違いありません。
では、『日本書記』の遣隋使関連の記事でおもだった潤色箇所はどこなのかというと、斐世清にたいする倭王の対応についての記述が挙げられます。『隋書』では、皇帝の名代としての斐世清が倭国との間に争礼を生じることなく帰国したことが記されています。このことから、倭王をはじめとして倭国上層部の対応は、斐世清にとって体面を保てるものであったと考えられます。
『日本書記』では、斐世清が国書を持ち二度再拝して使いの旨を言上せしめられたとあるなど、倭王と斐世清との間にあたかも主従関係があったかのような記述となっていますが、じっさいにそのようなことがあったとは考えにくいわけです。また、『日本書記』では倭王から斐世清への応答はなかったとされますが、じっさいには倭王または倭国上層部から、斐世清にたいしてなんらかの発言があったと考えられます。
ただ、『隋書』にあるように、倭王がじっさいに「我夷人」とまで発言したかとなると、倭側の(隋から見て)「傲慢な」態度から判断すると、疑問が残ります。隋の後の唐において、倭からの使者派遣にたいして、唐は高表仁を倭に派遣しますが、この高表仁は倭の王子と礼を争い、朝命を果たさずに帰国してしまいます。おそらく、中華文明における「理想的な華夷秩序」は常に実現されるというものではなく、倭のように華夷秩序からすると問題のある行動をとる国(政治勢力)も少なくなかったのでしょう。
そうしたときに、中華の地を支配した諸王朝からの使者には、折り合いをつけてなんとかその場を取り繕い、自国の体面を保てるだけの交渉力が要求されたのだと思います。おそらく斐世清には高い交渉能力があったのにたいして、それに欠けていた高表仁は、「無綏遠之才」と評価されたということなのでしょう。
小野妹子の国書紛失事件も、遣隋使をめぐる重大な謎の一つと言えるでしょう。斐世清一行をともなって帰国した妹子は、唐からの帰国時、百済人によって国書を奪われたことを報告します。そこで、群臣は妹子を流罪にしようと決議しますが、推古は妹子を許し、妹子は翌年ふたたび隋に派遣されます。
この件は『日本書記』にのみ見えるのですが、『日本書記』には隋からの国書が採録されています。隋の明帝(煬帝)が斐世清と妹子にそれぞれ同じ国書を授けたとも考えられますが、中華の地を支配した諸王朝にはそのような習慣はなく、妹子が紛失した(と報告した)書とは、おそらく明帝から授けられた訓令書だと考えられます。天子を称した倭からの国書にたいして、明帝は不快感を示していますが、その不快の念を述べた訓令書が妹子に授けられたのではないか、というわけです。
妹子がじっさいにその訓令書を紛失してしまったのか、そうだとして百済人に奪われてしまったのか、あるいは、その訓令書が倭の体面にとって不都合なものであったため、妹子と倭国上層部の判断で握りつぶされたのか、さまざまな可能性が考えられますが、妹子も倭国上層部も、その訓令書の内容を把握していたのは間違いないでしょう。偶発的な事件を利用したのか、紛失事件捏造したのかはともかくとして、おそらくは倭にとって都合が悪かっただろう訓令書は、ともかく葬り去られたというわけです。
この問題とも関連しますが、『日本書記』には記載のない明帝の前代の文帝時代の遣隋使と、第二回遣隋使での天子を称した倭国側からの国書についても、通説とは異なる解釈が考えられます。文帝時代の倭からの遣隋使は、文帝からの質問にたいして、倭王は天をもって兄となし、日をもって弟となす、と答えています。これにたいして文帝は、はなはだ理屈の通らない話だと言い、改めるよう訓令します。
これを、当時の倭の支配層がほとんど中華世界の思想を理解していなかったためだ、とする見解もあります(大山誠一『<聖徳太子>の誕生』P33~36)。しかしこの研究では、天子とは皇帝のことであり、日は皇帝の暗喩であることから、中華的家族制度からすると、倭王は文帝の叔父・叔母であり、また兄とも解釈されるので、このことが文帝の不興を買い、改めるようにと文帝から訓令された理由ではないか、とされます。
そう考えると、隋の皇帝も自国の君主も天子と称した二回目の倭国からの遣隋使は、隋の皇帝にたいする優位を主張した一回目の遣隋使と比較すると、文帝からの訓令を受けて一定の譲歩をした結果とも言えます。ただ、一回目の遣隋使における文帝からの訓令が、二回目の遣隋使の明帝からの場合と同様に、文書の形で倭に伝えられたかどうかは分かりません。もっとも、一回目の遣隋使において、倭が本当に隋にたいして優位を主張したのかという点については、さらなる検証が必要になると思います。
参考文献:
川本芳昭「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって : 遣隋使覚書」『史淵』141号、P53-77(2004年)
大山誠一『<聖徳太子>の誕生』第二刷(吉川弘文館、2000年、第一刷の刊行は1999年)
この記事へのコメント
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/3694/1/KJ00004249903.pdf
この論文には、色々と教えられるところがありました。