坂田聡『苗字と名前の歴史』(吉川弘文館、2006年)
今年2月5日分の記事(以下、前回の記事と省略)にて、夫婦別姓問題と日本における氏名の変遷について述べましたが、前の記事は坂田聡「百姓の家と村」にかなり依拠したものでした。この記事を掲載後、歴史文化ライブラリーの一冊として、坂田聡『苗字と名前の歴史』が刊行されているのを知りました。正直なところ、前回の記事については、とてつもない誤解をしているのではないか、と危惧していたのですが、本書を読んだかぎりでは、致命的な誤解はなかったようです。ただ、補足訂正の必要はあると思うので、そうした点を中心に、本書で詳しく知ったことを以下に述べていきます。
姓・苗字・氏の違いについては、前回の記事でも述べましたが、改めて述べておくと、氏とは氏名(ウジナ)であり、藤原・源・平などです。姓はカバネであり、ウジナとともに天皇から与えられるものです。真人・朝臣・宿禰などがあります。公的な場では、ウジナとカバネは実名(ジツミョウ)と組み合わせて用いられます。たとえば、藤原(ウジナ)朝臣(カバネ)道長(ジツミョウ)、平(ウジナ)朝臣(カバネ)清盛(ジツミョウ)となります。ウジナとカバネは父系血縁原理による氏族集団を指す名称であり、家名ではなく、公的性格の強い名称です。
ウジナとカバネがやがて同一視されるようになり、ウジナを姓(セイ)と称するようになった経緯について、前回の記事ではやや曖昧な説明しかできませんでした。本書では、カバネの機能が官位に取って代わられ、姓をカバネと呼ぶ習慣が廃れ、ウジナが姓(セイ)とみなされるようになったのではないか、とされます。また、ウジナとカバネをあわせて広義のセイと考えられていたのが、ウジナ=姓(セイ)に変わった可能性もある、とも指摘されています。ただいずれにしても、古代の段階ですでにウジナと姓(セイ)の同義化が進行していたようです。姓と実名による呼称は、その人物が氏族の構成員であることを表していました。姓は原則として天皇から与えられるという意味で、他律的性格の強い名称でした。
こうしたウジナ・姓(セイ)にたいして、苗字(名字)は家名であり、自生的・私的性格の強い名称です。苗字は家名ですから、世代を超えて永続するイエ(家制度)の成立が不可欠となります。日本の家制度における家(イエ)とは、家産を有し、家系上の先人である祖先を祀り、世代を越えて直系的に存続し、繁栄することを重視する組織です。これは原則として男系直系主義なのですが、苗字だけではなく姓のことなる者も養子に迎えられることがよくあり(婿養子という形態もあります)、柔軟性を有していました。これは、異姓の者を養子に迎えることが問題視される中国や朝鮮とは大きく異なり、中国や朝鮮の宗族制度と日本の家制度との違いは大きいと言えます。庶民(百姓)の間にも広く家制度が成立したのは16世紀頃であり、この頃日本において、いわゆる伝統社会が成立したと言えます。
苗字は実名とではなく、字(アザナ)と用いられました。これは、実名が忌避される傾向にあったためでもあるのですが、前回の記事では、こうした風習は古くから東アジア世界に存在した可能性もあるものの、中国からの影響と考えるほうがよいのではないか、としました。しかし本書では、これは本名忌避という世界的に広く見られる習俗によるものだ、とされています。
姓は氏族を、苗字は家を指すという点で両者は異なるとはいえ、族集団を指すという点では同じで、やがて両者は混同されていきました。それゆえに、姓(カバネ)と氏名(ウジナ)の同義化という前提のもとに、姓と苗字が混同されていくと、今日のように、法制用語では「氏」、一般用語では「姓」や「苗字」が使われるような状況になったというわけです。なお前回の記事では、現在の氏(姓・苗字)は、姓(ウジナ)と混同されたという事情があったとはいえ、基本的には苗字を継承したものだと述べましたが、本書では、現在の氏(姓・苗字)は家名なのであり、苗字に他ならないと断定されています。
このように族集団を指す姓・苗字にたいして、前近代における個人名(名前)には、実名や字(アザナ)がありました。前近代における名前の特徴は、一生の間に何度か変わることです。誕生から間もなくして付けられるのが童名です。成人する(一人前と認められる)と姓や官職にちなんだアザナを、出家すると(剃髪するだけで俗生活を送ることが多かったのですが)法名を名乗るようになります。こうした個人名は、一家の間で代々受け継がれることも珍しくありませんでした(現在の歌舞伎における名跡の継承を想起すると分かりやすいでしょう)。なお、成人しても童名型のアザナを名乗る人々は、社会的には一人前と認められず、下層民だったかもしれません。
これはおもに男性の場合ですが、女性の場合、室町時代以降になると、童名型の名前が増え、五郎衛門女というように、「男性名+女」型の名前も見えます。男性の場合がそうであるように、童名型の名前は一人前と認められていないことを意味します。「男性名+女」型の名前は、家長である男性との関係で女性が把握されていることを意味します。こうした名前が一般化したことは、女性の社会的地位の低下を示すものとおもわれます。
では、このような名称がどのように用いられてきたのか、おもに庶民について見ていくことにしますが、その前に、武士についても少し触れておきます。苗字は家制度の確立と不可分ですから、嫡子による単独直系相続ではない鎌倉時代の武士には苗字がなく、北条や三浦などの苗字とされてきたものは、拠点の地名による区分とみるのが妥当だ、ということになります。やがて武士の世界では単独相続が主流となり、苗字が定着しますが、いっぽうで姓も併用されていました。武士の間で姓と苗字がどのように使い分けられていたかということは、前回の記事で述べましたが、とくに上層の武士は官職に就くことが多く、朝廷(天皇)に仕えるという意味でも(形式的にせよ)、姓が必要とされたのかもしれません。
庶民の間では、戸籍を作成する都合上、古代において姓が用いられましたが、これは氏族組織を反映したものというより、擬似的なものでした。その後、戸籍が作成されなくなるとともに姓は使用されなくなり、地名や職名が定着して苗字になっていったとされますが、家制度が庶民の間で定着する前の鎌倉時代において、公的な儀式の場や公文書では、かなりの水準で庶民が姓と実名を名乗っていたことが判明しています。古代貴族の姓(氏)が、天皇に奉仕する組織として形成されたのと同様に、鎌倉時代の庶民の姓も、公(天皇・朝廷)にたいする奉仕組織という側面を有していました。ただこの問題については、本書を読んでもどうもすっきりしませんでした。これは姓の復活というよりは、平安時代においても庶民の間であるていど姓が使用されていて、それが史料に見えるようになったのかな、と個人的には推測しています。
14~16世紀にかけて庶民の間では、姓と実名の組み合わせから、苗字とアザナによる組み合わせへと変わっていきます。これは、家制度の定着を示しているものと考えられ、この間に、社会構成体論的理解とは別の次元で、社会が大きく変容したと理解されます。なお、江戸時代の庶民(百姓)は原則として、公的な場や武士の面前で苗字が用いられることは禁止されていましたが、だからといって庶民の間で苗字が廃れたというわけではなく、公的な場以外では広く苗字が用いられていました。こうした家制度は近代になって廃止されるどころか、むしろ強化された側面さえありました。日本のいわゆる伝統社会とは、戦国時代に成立した家制度を前提としたものであり、それは高度成長期または20世紀末まで続き、現在は崩壊中だと考えられます。
前回の記事は、夫婦別姓問題についての論争に見られる歴史認識が契機となり、執筆されたものでした。夫婦別姓容認論争は、当事者の自覚の有無はともかくとして、日本のいわゆる伝統社会の根底をなす家制度を守るべきか否か、といった問題を根底に秘めているとも言えます。家族制度が崩壊しつつある現在、本来は家名である苗字を個人名の上半分だと認識する人が増え、夫婦別姓論争が生じるのは必然とも言えるでしょう。そこで、前回の記事と重複するところが多々ありますが、本書を読んだうえで、あらためて夫婦別姓問題について歴史的観点から述べていくことにします。
上述したように、現代の姓(苗字、法制用語では氏)とは、前近代における苗字を継承しています。したがって、夫婦別姓問題とは、夫婦別苗字問題に他なりません。歴史的には、家制度の定着する以前、庶民の間でも(もちろん、全員ではないにしても)姓が用いられていたときは、夫婦はそれぞれ出身氏族の姓を称していました。これは、日本における姓制度の起源地である中国でも同様です(中国の影響を受けた朝鮮も同様です)。したがって、原則的には夫婦別姓だったと言えます。ただ、中国や朝鮮では原則として禁じられていた同姓間の婚姻が、日本においては禁忌ではなかったため、夫婦同姓という場合もあったでしょう。
これを根拠として、日本の伝統は夫婦別姓である、との見解が夫婦別姓容認論の側に見受けられますが、ここまで述べてきたように、姓と苗字は異なるものであり、現在の姓とは前近代の苗字に他ならないわけですから、これは現代的な意味での夫婦別姓とは似て非なるものです。
では、家制度の定着以降はどうでしょうか。苗字とは家名であり、家族は同一の苗字を用いることが本来の在り様だったと考えられます。じっさい、室町時代には夫婦同苗字の例がありますし、明治政府が発足直後に一時的にとった夫婦別姓(夫婦別苗字)政策にたいする庶民の不満が高かったことから、江戸時代の庶民間では、夫婦同苗字が当然視される傾向が強かったと考えられます。夫婦同姓(夫婦同苗字)とは家制度と密着したものであり、明治になって創出されたものではありませんが、だからといって太古から存在するものでもなく、この500年ほどの伝統ということになります。
したがって、夫婦別姓容認論争において、反対派が伝統を根拠とするのは、その伝統が500年ていどであり、1000年以上続いてきたものではないという意味で、半ば正しく半ば間違っていると言えるでしょう。いっぽう、夫婦同姓の歴史は明治以降(1898年の民法施行後)たかだか100年にすぎない、という容認派の反論は、歴史解釈としては間違っていると言うべきでしょう。
本書では、人を指す名称の変遷という視点から、日本における社会秩序と習俗の変遷が扱われています。名前の分析は些細なことと受け取られるかもしれませんが、そこから社会の大きな変動を指摘する方法論は、なかなか興味深いものです。現代では、結婚による改姓(現代日本ではおもに女性の場合)をのぞき、個人が一生の間に名称を変えることはほとんどありませんが、前近代社会においては、個人が一生の間に何度も名前を変え、自身が属する族集団の名称も、二つ(姓と苗字)有している場合がありました。
さらに重要なのは、こうした名称が社会的身分の違いを可視化または音声化する役割を担っていたことで、日本においては、原則(建前)として人間は皆平等とされる現代とは異なり、前近代においては、身分の違いの存在が社会の大前提とされていました。人を指す名称が現代と前近代とで大きく異なることが、夫婦別姓問題の議論における、さまざまな誤解につながっているものと思われます。
姓・苗字・氏の違いについては、前回の記事でも述べましたが、改めて述べておくと、氏とは氏名(ウジナ)であり、藤原・源・平などです。姓はカバネであり、ウジナとともに天皇から与えられるものです。真人・朝臣・宿禰などがあります。公的な場では、ウジナとカバネは実名(ジツミョウ)と組み合わせて用いられます。たとえば、藤原(ウジナ)朝臣(カバネ)道長(ジツミョウ)、平(ウジナ)朝臣(カバネ)清盛(ジツミョウ)となります。ウジナとカバネは父系血縁原理による氏族集団を指す名称であり、家名ではなく、公的性格の強い名称です。
ウジナとカバネがやがて同一視されるようになり、ウジナを姓(セイ)と称するようになった経緯について、前回の記事ではやや曖昧な説明しかできませんでした。本書では、カバネの機能が官位に取って代わられ、姓をカバネと呼ぶ習慣が廃れ、ウジナが姓(セイ)とみなされるようになったのではないか、とされます。また、ウジナとカバネをあわせて広義のセイと考えられていたのが、ウジナ=姓(セイ)に変わった可能性もある、とも指摘されています。ただいずれにしても、古代の段階ですでにウジナと姓(セイ)の同義化が進行していたようです。姓と実名による呼称は、その人物が氏族の構成員であることを表していました。姓は原則として天皇から与えられるという意味で、他律的性格の強い名称でした。
こうしたウジナ・姓(セイ)にたいして、苗字(名字)は家名であり、自生的・私的性格の強い名称です。苗字は家名ですから、世代を超えて永続するイエ(家制度)の成立が不可欠となります。日本の家制度における家(イエ)とは、家産を有し、家系上の先人である祖先を祀り、世代を越えて直系的に存続し、繁栄することを重視する組織です。これは原則として男系直系主義なのですが、苗字だけではなく姓のことなる者も養子に迎えられることがよくあり(婿養子という形態もあります)、柔軟性を有していました。これは、異姓の者を養子に迎えることが問題視される中国や朝鮮とは大きく異なり、中国や朝鮮の宗族制度と日本の家制度との違いは大きいと言えます。庶民(百姓)の間にも広く家制度が成立したのは16世紀頃であり、この頃日本において、いわゆる伝統社会が成立したと言えます。
苗字は実名とではなく、字(アザナ)と用いられました。これは、実名が忌避される傾向にあったためでもあるのですが、前回の記事では、こうした風習は古くから東アジア世界に存在した可能性もあるものの、中国からの影響と考えるほうがよいのではないか、としました。しかし本書では、これは本名忌避という世界的に広く見られる習俗によるものだ、とされています。
姓は氏族を、苗字は家を指すという点で両者は異なるとはいえ、族集団を指すという点では同じで、やがて両者は混同されていきました。それゆえに、姓(カバネ)と氏名(ウジナ)の同義化という前提のもとに、姓と苗字が混同されていくと、今日のように、法制用語では「氏」、一般用語では「姓」や「苗字」が使われるような状況になったというわけです。なお前回の記事では、現在の氏(姓・苗字)は、姓(ウジナ)と混同されたという事情があったとはいえ、基本的には苗字を継承したものだと述べましたが、本書では、現在の氏(姓・苗字)は家名なのであり、苗字に他ならないと断定されています。
このように族集団を指す姓・苗字にたいして、前近代における個人名(名前)には、実名や字(アザナ)がありました。前近代における名前の特徴は、一生の間に何度か変わることです。誕生から間もなくして付けられるのが童名です。成人する(一人前と認められる)と姓や官職にちなんだアザナを、出家すると(剃髪するだけで俗生活を送ることが多かったのですが)法名を名乗るようになります。こうした個人名は、一家の間で代々受け継がれることも珍しくありませんでした(現在の歌舞伎における名跡の継承を想起すると分かりやすいでしょう)。なお、成人しても童名型のアザナを名乗る人々は、社会的には一人前と認められず、下層民だったかもしれません。
これはおもに男性の場合ですが、女性の場合、室町時代以降になると、童名型の名前が増え、五郎衛門女というように、「男性名+女」型の名前も見えます。男性の場合がそうであるように、童名型の名前は一人前と認められていないことを意味します。「男性名+女」型の名前は、家長である男性との関係で女性が把握されていることを意味します。こうした名前が一般化したことは、女性の社会的地位の低下を示すものとおもわれます。
では、このような名称がどのように用いられてきたのか、おもに庶民について見ていくことにしますが、その前に、武士についても少し触れておきます。苗字は家制度の確立と不可分ですから、嫡子による単独直系相続ではない鎌倉時代の武士には苗字がなく、北条や三浦などの苗字とされてきたものは、拠点の地名による区分とみるのが妥当だ、ということになります。やがて武士の世界では単独相続が主流となり、苗字が定着しますが、いっぽうで姓も併用されていました。武士の間で姓と苗字がどのように使い分けられていたかということは、前回の記事で述べましたが、とくに上層の武士は官職に就くことが多く、朝廷(天皇)に仕えるという意味でも(形式的にせよ)、姓が必要とされたのかもしれません。
庶民の間では、戸籍を作成する都合上、古代において姓が用いられましたが、これは氏族組織を反映したものというより、擬似的なものでした。その後、戸籍が作成されなくなるとともに姓は使用されなくなり、地名や職名が定着して苗字になっていったとされますが、家制度が庶民の間で定着する前の鎌倉時代において、公的な儀式の場や公文書では、かなりの水準で庶民が姓と実名を名乗っていたことが判明しています。古代貴族の姓(氏)が、天皇に奉仕する組織として形成されたのと同様に、鎌倉時代の庶民の姓も、公(天皇・朝廷)にたいする奉仕組織という側面を有していました。ただこの問題については、本書を読んでもどうもすっきりしませんでした。これは姓の復活というよりは、平安時代においても庶民の間であるていど姓が使用されていて、それが史料に見えるようになったのかな、と個人的には推測しています。
14~16世紀にかけて庶民の間では、姓と実名の組み合わせから、苗字とアザナによる組み合わせへと変わっていきます。これは、家制度の定着を示しているものと考えられ、この間に、社会構成体論的理解とは別の次元で、社会が大きく変容したと理解されます。なお、江戸時代の庶民(百姓)は原則として、公的な場や武士の面前で苗字が用いられることは禁止されていましたが、だからといって庶民の間で苗字が廃れたというわけではなく、公的な場以外では広く苗字が用いられていました。こうした家制度は近代になって廃止されるどころか、むしろ強化された側面さえありました。日本のいわゆる伝統社会とは、戦国時代に成立した家制度を前提としたものであり、それは高度成長期または20世紀末まで続き、現在は崩壊中だと考えられます。
前回の記事は、夫婦別姓問題についての論争に見られる歴史認識が契機となり、執筆されたものでした。夫婦別姓容認論争は、当事者の自覚の有無はともかくとして、日本のいわゆる伝統社会の根底をなす家制度を守るべきか否か、といった問題を根底に秘めているとも言えます。家族制度が崩壊しつつある現在、本来は家名である苗字を個人名の上半分だと認識する人が増え、夫婦別姓論争が生じるのは必然とも言えるでしょう。そこで、前回の記事と重複するところが多々ありますが、本書を読んだうえで、あらためて夫婦別姓問題について歴史的観点から述べていくことにします。
上述したように、現代の姓(苗字、法制用語では氏)とは、前近代における苗字を継承しています。したがって、夫婦別姓問題とは、夫婦別苗字問題に他なりません。歴史的には、家制度の定着する以前、庶民の間でも(もちろん、全員ではないにしても)姓が用いられていたときは、夫婦はそれぞれ出身氏族の姓を称していました。これは、日本における姓制度の起源地である中国でも同様です(中国の影響を受けた朝鮮も同様です)。したがって、原則的には夫婦別姓だったと言えます。ただ、中国や朝鮮では原則として禁じられていた同姓間の婚姻が、日本においては禁忌ではなかったため、夫婦同姓という場合もあったでしょう。
これを根拠として、日本の伝統は夫婦別姓である、との見解が夫婦別姓容認論の側に見受けられますが、ここまで述べてきたように、姓と苗字は異なるものであり、現在の姓とは前近代の苗字に他ならないわけですから、これは現代的な意味での夫婦別姓とは似て非なるものです。
では、家制度の定着以降はどうでしょうか。苗字とは家名であり、家族は同一の苗字を用いることが本来の在り様だったと考えられます。じっさい、室町時代には夫婦同苗字の例がありますし、明治政府が発足直後に一時的にとった夫婦別姓(夫婦別苗字)政策にたいする庶民の不満が高かったことから、江戸時代の庶民間では、夫婦同苗字が当然視される傾向が強かったと考えられます。夫婦同姓(夫婦同苗字)とは家制度と密着したものであり、明治になって創出されたものではありませんが、だからといって太古から存在するものでもなく、この500年ほどの伝統ということになります。
したがって、夫婦別姓容認論争において、反対派が伝統を根拠とするのは、その伝統が500年ていどであり、1000年以上続いてきたものではないという意味で、半ば正しく半ば間違っていると言えるでしょう。いっぽう、夫婦同姓の歴史は明治以降(1898年の民法施行後)たかだか100年にすぎない、という容認派の反論は、歴史解釈としては間違っていると言うべきでしょう。
本書では、人を指す名称の変遷という視点から、日本における社会秩序と習俗の変遷が扱われています。名前の分析は些細なことと受け取られるかもしれませんが、そこから社会の大きな変動を指摘する方法論は、なかなか興味深いものです。現代では、結婚による改姓(現代日本ではおもに女性の場合)をのぞき、個人が一生の間に名称を変えることはほとんどありませんが、前近代社会においては、個人が一生の間に何度も名前を変え、自身が属する族集団の名称も、二つ(姓と苗字)有している場合がありました。
さらに重要なのは、こうした名称が社会的身分の違いを可視化または音声化する役割を担っていたことで、日本においては、原則(建前)として人間は皆平等とされる現代とは異なり、前近代においては、身分の違いの存在が社会の大前提とされていました。人を指す名称が現代と前近代とで大きく異なることが、夫婦別姓問題の議論における、さまざまな誤解につながっているものと思われます。
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