「構造改革」についての議論と織田信長
「信長の改革と構造改革はうり二つ」と題した森永卓郎氏のコラムがあります(引用箇所は青字)。「構造改革」にたいする森永氏の立場は、たとえば堺屋太一氏とは対極にあると言えるでしょうが、その歴史認識は、今年1月11日分の記事にて取り上げた堺屋氏のそれとほぼ同じものだと言えるでしょう。
「改革路線を邁進した」とされる小泉元首相は、首相在任中によく織田信長になぞらえられましたが、信長のように大胆に改革に邁進してほしい、との願望が小泉元首相に託されたという側面もあるでしょう。森永氏や堺屋氏の歴史認識は、そのような文脈での信長像の典型と言えるでしょう。
以下、森永氏が冒頭で述べた、驚いたのは、信長が活躍した戦国時代と今の世の中がうり二つということだ、との認識が妥当かどうかという点を中心に、森永氏のコラムについて具体的に見ていきます。なお、奥野高廣『増訂織田信長文書の研究』上・下巻は、『文書上または下』と略します。『文書上(下)』の横の数字は、文書番号です。
学問的には諸説あるようだが、日本にマネー経済を定着させたのは信長だとされている。信長は、それまで不安定だった貨幣の重さや成分を安定させることにより、通貨の価値を高めることに成功した。つまり、貨幣にきちんとした取引の仲介機能を持たせたわけである。そのことで、日本が初めて貨幣経済に移行することが可能になった。そして、信長は貨幣経済を活用した。よくも悪くも、信長はマネーの力でのし上がっていった人物なのである。
平安末あたりから日本への中国銭の流入が目立つようになりますが、桜井英治『日本の歴史第12巻』第4章を読むと、15世紀前半にはすっかり貨幣が日本社会に浸透した感があります。15世紀の徳政一揆にしても、貨幣の浸透を前提として理解できることでしょう。
ところが、15世紀半ばに明が国家的支払い手段を銭から銀に転換したためなのか、15世紀後半以降、中国銭への信用不安が起き、撰銭が行なわれるようになります(久留島典子『日本の歴史第13巻』P254~255)。室町幕府や各地の大名は撰銭令を出し、撰銭を抑制しようとしたものの上手くいかず、1560~1570年代にかけて、畿内と西国のほとんどの地域で取引手段が銭から米へと変わりましたが、東国ではいぜんとして中国銭が高い信用を得ていました(久留島『日本の歴史第13巻』P257~258)。
まさにこのような状況下で、畿内・西国に進出していったのが織田信長でした。東西における貨幣流通のあり方の違いは、織田領国にも反映されており、原則として、尾張・美濃では所領が貫高表示なのにたいして、近江・越前以西では石表示となっています(たとえば、『文書上』56・57・202・387)。
では、信長はこのような状況にどう対応したのかというと、悪銭を3種類に分け、精銭にはそれらの2倍・5倍・10倍の価値をもたせ、銭を流通させようとして、京都・奈良・摂津で撰銭令を出しました(1569年)。しかし、かえって銭での取引が嫌われてしまい、信長は半月後には追加令を出さざるを得なくなりました。信長はその追加令にて、売買における米の使用を禁止させ、銭の流通を促そうとしたのですが、信長の撰銭令から10年ほどの間に、京都・奈良など西日本での取引において、急激に銭から米への転換が進むという結果になってしまいます(池上裕子『日本の歴史第15巻』P87~88)。
けっきょく、銭を流通させようという信長の試みは、米による取引への移行という歴史の大きな流れの前に、完全に失敗してしまったわけです。日本にマネー経済を定着させたのは信長だ、との評価は完全に的外れなわけで、信長の「改革」と現代の「構造改革」との類似性を論じた以下の森永氏の見解は、与太話にしかなりません。これ以上論じる意味はあまりないのですが、森永氏は色々と信長の「実績」を列挙しているので、それが本当に信長の実績なのか、ちょっと見ていくことにします。まずは、信長の「対抗勢力つぶし」についてです。
信長の政策の第一は、関所の撤廃や楽市楽座の創設である。これは、誰もが自由に通行ができ、誰でも自由に市場で物を売れる制度のこと。いわば規制緩和の断行である。自由貿易、規制緩和、小さな政府を叫ぶ、現代の構造改革派とまったく同じ主張をしていたのである。さらに興味深いのは、信長の背後にある隠れた狙いである。
信長の楽市令については、以前から存在した楽市場の権利を大名権力が安堵した場合と、大名権力によって指定された都市・市場などに、都市・流通政策として出されたものとに分類する見解がありますが、両者の厳密な区分は困難ともされています(勝俣鎭夫「楽市場と楽市令」)。じっさい、両者を厳密に区分する必要はなく、一つの楽市令には両方の要素が存在したことが多かったのでしょう。
信長のいわゆる楽市楽座政策にも両方の要素が見られましたが、それは地理的・時間的に限定されたものであり、けっして一般的な座の撤廃を意図したものではありませんでした(小島道裕『信長とは何か』P79)。じっさい、信長は多数の座を安堵していますが、信長が座を撤廃した確実な証拠はありませんし、関所の撤廃についても、限定的だったと指摘されています(脇田修『近世封建制成立史論 織豊政権の分析II』第2章)。
信長の流通政策の基調は、特定の特権商人を指定したり座組織の既得権を保証したりすることによる統制にあったとみるべきであり、座の統制に服さず、座の既得権を侵害する輩は成敗する、とも信長は述べています(『文書下』844)。自由貿易、規制緩和、小さな政府を叫ぶ、現代の構造改革派と似ているとは、とても言えないでしょう。
彼は、単に自由取引による経済の活発化だけを目的としていただけではなかった。実は、それまで、関所や市場で徴収される税は、信長の対抗勢力である公家や寺社の収入源になっていた。信長はその収入源をつぶしにいったのである。これはまさに、小泉元総理が公共事業カットや郵政民営化をすることによって、旧経世会の財源・既得権益を奪いにいったのとまったく同じ構造ではないか。結果的に二人とも、敵の財源をうまく絶つことに成功し、敵を撃滅したわけだ。もっとも、革命、改革というのは、根本から体制が変わるのではなく、オーナーが替わるだけに終わることが往々にして多い。(中略)一部の評論家たちは、さまざまなメリットを取り上げて擁護しているが、肝心の国民にとってメリットはほとんどなかった。結局、オーナーチェンジをしただけに過ぎないのである。
市場で徴収される税というのは誤解で、特権を保証している座からの収入ということなのでしょうが、確かに、信長による座の安堵が、とくに寺社にたいする打撃になった可能性はあるでしょう。しかしこれには、中世後半における寺社勢力の衰退と、商人・職人が強力な保護者を求めていたという事情があり、公家や寺社が「抵抗勢力」だったとか、信長が公家や寺社を敵視したとかいった評価は、妥当ではないと思います。じっさい、信長は当知行原則のもと、公家や寺社の所領・権利を認めていますし、公家に新しく領地を与えてもいます(脇田修『織田信長』11版P39~46)。
ただ、オーナーが替わるだけに終わる、との指摘は結果的にはおおむね妥当でしょう。信長は他の大名や寺社に属していた座を、自らの統制下に置いたわけですから。しかし、森永氏の見解だと、誰もが自由に通行ができ、誰でも自由に市場で物を売れる制度を信長が築いた後、誰が「替わりのオーナー」になったのか、明瞭になっていません。文脈から判断すると、信長か「信長路線」の支持者・継承者ということになるのでしょうが。あるいはたんに、敵を撃滅したことにのみ共通点を見出したということでしょうか?
信長の時代までは、戦があれば農民が一般の兵士として徴集されて参加していた。普段は農業に従事している人たちであるために、農繁期には戦うことができなかったのである。信長はそこでもマネーの力を最大限に利用した。兵士を金で雇うことによって、彼らを農地から切り離し、一年中24時間体勢で戦える軍隊を作ったのだ。戦うことを専門にするのだから、それは戦になったら強いはずである。このことは、経済弱肉強食主義を信奉する、いわゆる構造改革派が、権利の守られた正社員をどんどん減らしていき、派遣労働者などの時間給の社員を増やしていったのと重なって見えてくる。
たとえば信長と同時代の上杉は、1560~1576年の間何度も外征しており、その月日は各遠征により異なりますが、通して見ると、一度も出兵していない月はありません(藤木久志『雑兵たちの戦場』P95)。また、信長が活躍していた頃にはすでに、織田領以外でも、「兵」と「農」の観念的な区別はかなり明確になっていた可能性が高いと思われます(藤木久志『村と領主の戦国社会』第7章)。もちろん、当時の軍事行動が農作業にまったく影響を受けないわけではないでしょうが、一度も出兵していない月がないということは、降雪などの気象条件をのぞけば、基本的には1年のうちどの時期でも軍事行動は可能ということなのでしょう。他の大名の事例について丹念に調べていけば、当時の多くの大名は農繁期にも戦っていたことが証明されるだろうと思います。
また信長が、兵士を金で雇うことによって、彼らを農地から切り離し、一年中24時間体勢で戦える軍隊を作ったことを示すような証拠はありません。他の戦国大名と同じく、信長は晩年まで土地を媒介とした重層的な人間関係を主要な軍事基盤にしていたと考えられ(たとえば、『文書下』915)、上記の織田軍の構成についての認識は間違いだと思われます。なかには、信長は戦国時代的な軍を近代国民国家的軍隊に再編しなおした、と言っている人もいるようですが。
かりに上記の森永氏の認識が妥当だったとしても、織田軍の兵士を派遣社員に見立てるのは、適切な比喩とは言いがたいと思います。土地から切り離されても、その分適切な金が支払われ、24時間軍事動員に応じられるようになっているのならば、むしろ正社員に近いものがあると言うべきでしょう。
論功行賞とフロンティアの問題については、秀吉にはそう解釈する余地もあるとは思います。しかし信長は、上述のように当知行を原則とし、座の既得権を保証していました(楽市令にしても、既得権の保証という性格が多分にありました)。基本的に信長は、既得権を保証することで多くの勢力を傘下に組み入れていったのであり(もちろん、その前提として軍事的圧力があるわけですが)、フロンティア(もしくは幻想)提示型の指導者ではなかったように思われます。
これに対して、家康の政策というのは、「無理をするな、みんなで仲良くしよう」というもの。きわめて常識的な経済政策である。その行き着いた先が、江戸幕府による鎖国である。鎖国の功罪については、さまざまな意見があるだろうが、とにかく「小さなところでちまちまとやる」という考え方を採用したのである。それが成功し、安定した経済体制が続いたおかげで、元禄文化という素晴らしい文化が花開いたのだとわたしは考えている。
家康(徳川政権)の経済政策のどこが、織豊政権と比較して常識的なのか、どうもよく分かりません。確かに徳川政権のいわゆる鎖国政策(おもに2~3代将軍のもとで進展)には、日本が国際紛争に巻き込まれるのを恐れたからという理由もありそうですから(藤木『雑兵たちの戦場』P263~278)、その意味では、少なくとも豊臣政権と比較すると、徳川政権は外交・軍事面では無理をしない傾向にあるとは言えるでしょう。
しかし結局のところ、いわゆる鎖国政策とは貿易管理・統制であり、そうした志向は信長にも秀吉にもあり、秀吉は少なくとも信長よりはずっと強力にそれを実施できた、と言うべきでしょう(池上『日本の歴史第15巻』第7章)。経済政策については(それ以外もですが)、織豊政権と徳川政権という区分よりも、織田政権と豊臣・徳川政権という区分のほうが妥当ではないでしょうか。これは、全国政権だったか否かという違いによるところが大きいのでしょう。
戦国時代というのは、室町、江戸というそれぞれ300年にわたる安定した時代の転換期に起きた。
さすがにこの認識はどうかと思います。関東の情勢を無視するとしても、南北朝の争乱が終結したとされる年から応仁の乱の勃発まで、80年もありません。鎌倉時代末より、大坂の陣の終結まで、日本は断続的な戦乱状態にあったと考えるのが妥当でしょう。
こうして、現代という戦国時代に世界を駆け回ったあぶく銭は、目ぼしいところをあらかた食いつくしてしまった。やがて行き場を失い、価値を下げつつ消えていくことになるだろう。そのあと何が来るか。わたしは、まともな経済が長期間続くのではないかと見ている。信長、秀吉の時代は終わって、そろそろ家康の出番ではないかと思うのだ。得体のしれない若者が、一夜にして何十億円稼ぐという金融資本主義の時代は、そろそろ第4コーナーを回ったのではないか。まじめにモノやサービスをつくった人が、働きに応じて所得を得るという、当然の社会が再びやって来るのではないかと期待している。
かりに、家康(徳川政権)の経済政策は織豊政権と比較して常識的だ、とする森永氏の上述の見解が妥当だとしても、まともな経済が長期間続くというのは、予測ではなく願望にすぎないと言うべきでしょう。戦国~江戸時代初期と現代とでは、社会資本も経済規模も価値観も大きく異なっています。どちらも同じホモ=サピエンス(現生人類)の社会ではありますが、質・量ともに大きな違いがあると言うべきでしょう。
私は心情的には、森永氏の「構造改革路線」批判を支持したいのですが、ここまで森永氏の見解について色々と批判的なことを述べてきました。「構造改革路線」賛同派は、しばしば小泉元首相を信長になぞらえたり、信長のように断固として改革に邁進すべきだと言ったりしますが(もちろん、賛同派全員がそんなことを考えているわけではないでしょうが)、そのさいの信長像は、「抵抗勢力」に果敢に挑んだ「大改革者(もしくは大革命家)」というものです。
「構造改革路線」賛同派がこのように言うのは分からないでもないのですが、森永氏のような「構造改革路線」批判派(慎重派)が、明らかに問題のある歴史認識をわざわざ賛同派と共有し、同じ土俵で議論することはないと思います。「構造改革路線」を批判するにあたって、歴史、それも価値観・経済規模の大きく異なる戦国時代をわざわざ持ち出す必要はないはずです。信長を持ち出す賛同派の土俵でどうしても議論するというのであれば、「構造改革」と信長の事績とを安易に類似したものとする賛同派の歴史認識を問いただし、信長の事績が「構造改革」の歴史的根拠にはならないことを指摘すべきでしょう。
参考文献:
池上裕子『日本の歴史第15巻 織豊政権と江戸幕府』(講談社、2002年)
奥野高廣『増訂織田信長文書の研究』上・下巻(吉川弘文館、1994年)
勝俣鎭夫「楽市場と楽市令」『戦国法成立史論』(東京大学出版会、1979年)
久留島典子『日本の歴史第13巻 一揆と戦国大名』(講談社、2001年)
小島道裕『信長とは何か』(講談社、2006年)
桜井英治『日本の歴史第12巻 室町人の精神』(講談社、2001年)
藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年)
藤木久志『村と領主の戦国社会』(東京大学出版会、1997年)
脇田修『近世封建制成立史論 織豊政権の分析II』(東京大学出版会、1977年)
脇田修『織田信長』11版(中央公論社、1992年、初版の刊行は1987年)
「改革路線を邁進した」とされる小泉元首相は、首相在任中によく織田信長になぞらえられましたが、信長のように大胆に改革に邁進してほしい、との願望が小泉元首相に託されたという側面もあるでしょう。森永氏や堺屋氏の歴史認識は、そのような文脈での信長像の典型と言えるでしょう。
以下、森永氏が冒頭で述べた、驚いたのは、信長が活躍した戦国時代と今の世の中がうり二つということだ、との認識が妥当かどうかという点を中心に、森永氏のコラムについて具体的に見ていきます。なお、奥野高廣『増訂織田信長文書の研究』上・下巻は、『文書上または下』と略します。『文書上(下)』の横の数字は、文書番号です。
学問的には諸説あるようだが、日本にマネー経済を定着させたのは信長だとされている。信長は、それまで不安定だった貨幣の重さや成分を安定させることにより、通貨の価値を高めることに成功した。つまり、貨幣にきちんとした取引の仲介機能を持たせたわけである。そのことで、日本が初めて貨幣経済に移行することが可能になった。そして、信長は貨幣経済を活用した。よくも悪くも、信長はマネーの力でのし上がっていった人物なのである。
平安末あたりから日本への中国銭の流入が目立つようになりますが、桜井英治『日本の歴史第12巻』第4章を読むと、15世紀前半にはすっかり貨幣が日本社会に浸透した感があります。15世紀の徳政一揆にしても、貨幣の浸透を前提として理解できることでしょう。
ところが、15世紀半ばに明が国家的支払い手段を銭から銀に転換したためなのか、15世紀後半以降、中国銭への信用不安が起き、撰銭が行なわれるようになります(久留島典子『日本の歴史第13巻』P254~255)。室町幕府や各地の大名は撰銭令を出し、撰銭を抑制しようとしたものの上手くいかず、1560~1570年代にかけて、畿内と西国のほとんどの地域で取引手段が銭から米へと変わりましたが、東国ではいぜんとして中国銭が高い信用を得ていました(久留島『日本の歴史第13巻』P257~258)。
まさにこのような状況下で、畿内・西国に進出していったのが織田信長でした。東西における貨幣流通のあり方の違いは、織田領国にも反映されており、原則として、尾張・美濃では所領が貫高表示なのにたいして、近江・越前以西では石表示となっています(たとえば、『文書上』56・57・202・387)。
では、信長はこのような状況にどう対応したのかというと、悪銭を3種類に分け、精銭にはそれらの2倍・5倍・10倍の価値をもたせ、銭を流通させようとして、京都・奈良・摂津で撰銭令を出しました(1569年)。しかし、かえって銭での取引が嫌われてしまい、信長は半月後には追加令を出さざるを得なくなりました。信長はその追加令にて、売買における米の使用を禁止させ、銭の流通を促そうとしたのですが、信長の撰銭令から10年ほどの間に、京都・奈良など西日本での取引において、急激に銭から米への転換が進むという結果になってしまいます(池上裕子『日本の歴史第15巻』P87~88)。
けっきょく、銭を流通させようという信長の試みは、米による取引への移行という歴史の大きな流れの前に、完全に失敗してしまったわけです。日本にマネー経済を定着させたのは信長だ、との評価は完全に的外れなわけで、信長の「改革」と現代の「構造改革」との類似性を論じた以下の森永氏の見解は、与太話にしかなりません。これ以上論じる意味はあまりないのですが、森永氏は色々と信長の「実績」を列挙しているので、それが本当に信長の実績なのか、ちょっと見ていくことにします。まずは、信長の「対抗勢力つぶし」についてです。
信長の政策の第一は、関所の撤廃や楽市楽座の創設である。これは、誰もが自由に通行ができ、誰でも自由に市場で物を売れる制度のこと。いわば規制緩和の断行である。自由貿易、規制緩和、小さな政府を叫ぶ、現代の構造改革派とまったく同じ主張をしていたのである。さらに興味深いのは、信長の背後にある隠れた狙いである。
信長の楽市令については、以前から存在した楽市場の権利を大名権力が安堵した場合と、大名権力によって指定された都市・市場などに、都市・流通政策として出されたものとに分類する見解がありますが、両者の厳密な区分は困難ともされています(勝俣鎭夫「楽市場と楽市令」)。じっさい、両者を厳密に区分する必要はなく、一つの楽市令には両方の要素が存在したことが多かったのでしょう。
信長のいわゆる楽市楽座政策にも両方の要素が見られましたが、それは地理的・時間的に限定されたものであり、けっして一般的な座の撤廃を意図したものではありませんでした(小島道裕『信長とは何か』P79)。じっさい、信長は多数の座を安堵していますが、信長が座を撤廃した確実な証拠はありませんし、関所の撤廃についても、限定的だったと指摘されています(脇田修『近世封建制成立史論 織豊政権の分析II』第2章)。
信長の流通政策の基調は、特定の特権商人を指定したり座組織の既得権を保証したりすることによる統制にあったとみるべきであり、座の統制に服さず、座の既得権を侵害する輩は成敗する、とも信長は述べています(『文書下』844)。自由貿易、規制緩和、小さな政府を叫ぶ、現代の構造改革派と似ているとは、とても言えないでしょう。
彼は、単に自由取引による経済の活発化だけを目的としていただけではなかった。実は、それまで、関所や市場で徴収される税は、信長の対抗勢力である公家や寺社の収入源になっていた。信長はその収入源をつぶしにいったのである。これはまさに、小泉元総理が公共事業カットや郵政民営化をすることによって、旧経世会の財源・既得権益を奪いにいったのとまったく同じ構造ではないか。結果的に二人とも、敵の財源をうまく絶つことに成功し、敵を撃滅したわけだ。もっとも、革命、改革というのは、根本から体制が変わるのではなく、オーナーが替わるだけに終わることが往々にして多い。(中略)一部の評論家たちは、さまざまなメリットを取り上げて擁護しているが、肝心の国民にとってメリットはほとんどなかった。結局、オーナーチェンジをしただけに過ぎないのである。
市場で徴収される税というのは誤解で、特権を保証している座からの収入ということなのでしょうが、確かに、信長による座の安堵が、とくに寺社にたいする打撃になった可能性はあるでしょう。しかしこれには、中世後半における寺社勢力の衰退と、商人・職人が強力な保護者を求めていたという事情があり、公家や寺社が「抵抗勢力」だったとか、信長が公家や寺社を敵視したとかいった評価は、妥当ではないと思います。じっさい、信長は当知行原則のもと、公家や寺社の所領・権利を認めていますし、公家に新しく領地を与えてもいます(脇田修『織田信長』11版P39~46)。
ただ、オーナーが替わるだけに終わる、との指摘は結果的にはおおむね妥当でしょう。信長は他の大名や寺社に属していた座を、自らの統制下に置いたわけですから。しかし、森永氏の見解だと、誰もが自由に通行ができ、誰でも自由に市場で物を売れる制度を信長が築いた後、誰が「替わりのオーナー」になったのか、明瞭になっていません。文脈から判断すると、信長か「信長路線」の支持者・継承者ということになるのでしょうが。あるいはたんに、敵を撃滅したことにのみ共通点を見出したということでしょうか?
信長の時代までは、戦があれば農民が一般の兵士として徴集されて参加していた。普段は農業に従事している人たちであるために、農繁期には戦うことができなかったのである。信長はそこでもマネーの力を最大限に利用した。兵士を金で雇うことによって、彼らを農地から切り離し、一年中24時間体勢で戦える軍隊を作ったのだ。戦うことを専門にするのだから、それは戦になったら強いはずである。このことは、経済弱肉強食主義を信奉する、いわゆる構造改革派が、権利の守られた正社員をどんどん減らしていき、派遣労働者などの時間給の社員を増やしていったのと重なって見えてくる。
たとえば信長と同時代の上杉は、1560~1576年の間何度も外征しており、その月日は各遠征により異なりますが、通して見ると、一度も出兵していない月はありません(藤木久志『雑兵たちの戦場』P95)。また、信長が活躍していた頃にはすでに、織田領以外でも、「兵」と「農」の観念的な区別はかなり明確になっていた可能性が高いと思われます(藤木久志『村と領主の戦国社会』第7章)。もちろん、当時の軍事行動が農作業にまったく影響を受けないわけではないでしょうが、一度も出兵していない月がないということは、降雪などの気象条件をのぞけば、基本的には1年のうちどの時期でも軍事行動は可能ということなのでしょう。他の大名の事例について丹念に調べていけば、当時の多くの大名は農繁期にも戦っていたことが証明されるだろうと思います。
また信長が、兵士を金で雇うことによって、彼らを農地から切り離し、一年中24時間体勢で戦える軍隊を作ったことを示すような証拠はありません。他の戦国大名と同じく、信長は晩年まで土地を媒介とした重層的な人間関係を主要な軍事基盤にしていたと考えられ(たとえば、『文書下』915)、上記の織田軍の構成についての認識は間違いだと思われます。なかには、信長は戦国時代的な軍を近代国民国家的軍隊に再編しなおした、と言っている人もいるようですが。
かりに上記の森永氏の認識が妥当だったとしても、織田軍の兵士を派遣社員に見立てるのは、適切な比喩とは言いがたいと思います。土地から切り離されても、その分適切な金が支払われ、24時間軍事動員に応じられるようになっているのならば、むしろ正社員に近いものがあると言うべきでしょう。
論功行賞とフロンティアの問題については、秀吉にはそう解釈する余地もあるとは思います。しかし信長は、上述のように当知行を原則とし、座の既得権を保証していました(楽市令にしても、既得権の保証という性格が多分にありました)。基本的に信長は、既得権を保証することで多くの勢力を傘下に組み入れていったのであり(もちろん、その前提として軍事的圧力があるわけですが)、フロンティア(もしくは幻想)提示型の指導者ではなかったように思われます。
これに対して、家康の政策というのは、「無理をするな、みんなで仲良くしよう」というもの。きわめて常識的な経済政策である。その行き着いた先が、江戸幕府による鎖国である。鎖国の功罪については、さまざまな意見があるだろうが、とにかく「小さなところでちまちまとやる」という考え方を採用したのである。それが成功し、安定した経済体制が続いたおかげで、元禄文化という素晴らしい文化が花開いたのだとわたしは考えている。
家康(徳川政権)の経済政策のどこが、織豊政権と比較して常識的なのか、どうもよく分かりません。確かに徳川政権のいわゆる鎖国政策(おもに2~3代将軍のもとで進展)には、日本が国際紛争に巻き込まれるのを恐れたからという理由もありそうですから(藤木『雑兵たちの戦場』P263~278)、その意味では、少なくとも豊臣政権と比較すると、徳川政権は外交・軍事面では無理をしない傾向にあるとは言えるでしょう。
しかし結局のところ、いわゆる鎖国政策とは貿易管理・統制であり、そうした志向は信長にも秀吉にもあり、秀吉は少なくとも信長よりはずっと強力にそれを実施できた、と言うべきでしょう(池上『日本の歴史第15巻』第7章)。経済政策については(それ以外もですが)、織豊政権と徳川政権という区分よりも、織田政権と豊臣・徳川政権という区分のほうが妥当ではないでしょうか。これは、全国政権だったか否かという違いによるところが大きいのでしょう。
戦国時代というのは、室町、江戸というそれぞれ300年にわたる安定した時代の転換期に起きた。
さすがにこの認識はどうかと思います。関東の情勢を無視するとしても、南北朝の争乱が終結したとされる年から応仁の乱の勃発まで、80年もありません。鎌倉時代末より、大坂の陣の終結まで、日本は断続的な戦乱状態にあったと考えるのが妥当でしょう。
こうして、現代という戦国時代に世界を駆け回ったあぶく銭は、目ぼしいところをあらかた食いつくしてしまった。やがて行き場を失い、価値を下げつつ消えていくことになるだろう。そのあと何が来るか。わたしは、まともな経済が長期間続くのではないかと見ている。信長、秀吉の時代は終わって、そろそろ家康の出番ではないかと思うのだ。得体のしれない若者が、一夜にして何十億円稼ぐという金融資本主義の時代は、そろそろ第4コーナーを回ったのではないか。まじめにモノやサービスをつくった人が、働きに応じて所得を得るという、当然の社会が再びやって来るのではないかと期待している。
かりに、家康(徳川政権)の経済政策は織豊政権と比較して常識的だ、とする森永氏の上述の見解が妥当だとしても、まともな経済が長期間続くというのは、予測ではなく願望にすぎないと言うべきでしょう。戦国~江戸時代初期と現代とでは、社会資本も経済規模も価値観も大きく異なっています。どちらも同じホモ=サピエンス(現生人類)の社会ではありますが、質・量ともに大きな違いがあると言うべきでしょう。
私は心情的には、森永氏の「構造改革路線」批判を支持したいのですが、ここまで森永氏の見解について色々と批判的なことを述べてきました。「構造改革路線」賛同派は、しばしば小泉元首相を信長になぞらえたり、信長のように断固として改革に邁進すべきだと言ったりしますが(もちろん、賛同派全員がそんなことを考えているわけではないでしょうが)、そのさいの信長像は、「抵抗勢力」に果敢に挑んだ「大改革者(もしくは大革命家)」というものです。
「構造改革路線」賛同派がこのように言うのは分からないでもないのですが、森永氏のような「構造改革路線」批判派(慎重派)が、明らかに問題のある歴史認識をわざわざ賛同派と共有し、同じ土俵で議論することはないと思います。「構造改革路線」を批判するにあたって、歴史、それも価値観・経済規模の大きく異なる戦国時代をわざわざ持ち出す必要はないはずです。信長を持ち出す賛同派の土俵でどうしても議論するというのであれば、「構造改革」と信長の事績とを安易に類似したものとする賛同派の歴史認識を問いただし、信長の事績が「構造改革」の歴史的根拠にはならないことを指摘すべきでしょう。
参考文献:
池上裕子『日本の歴史第15巻 織豊政権と江戸幕府』(講談社、2002年)
奥野高廣『増訂織田信長文書の研究』上・下巻(吉川弘文館、1994年)
勝俣鎭夫「楽市場と楽市令」『戦国法成立史論』(東京大学出版会、1979年)
久留島典子『日本の歴史第13巻 一揆と戦国大名』(講談社、2001年)
小島道裕『信長とは何か』(講談社、2006年)
桜井英治『日本の歴史第12巻 室町人の精神』(講談社、2001年)
藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年)
藤木久志『村と領主の戦国社会』(東京大学出版会、1997年)
脇田修『近世封建制成立史論 織豊政権の分析II』(東京大学出版会、1977年)
脇田修『織田信長』11版(中央公論社、1992年、初版の刊行は1987年)
この記事へのコメント
民主党が政権をとれば、増税と経済の衰退があることを暗示している。