織田信長と小泉元首相
小泉内閣のメールマガジン(2001年10月4日付)に、「織田信長の猛烈な行革と規制緩和」と題する堺屋太一内閣特別顧問(当時)の特別寄稿が掲載されています(青字が引用箇所)。
今、日本は大改革の途上にある。世界も劇的に変化しつつある。規格大量生産型の工業社会が崩れ、国家の形態も変わり出した。アフリカ南部から中央アジアまでの広い範囲に、国家のない地域が広がっている。アフガニスタンもその一つだ。今は、世界と日本が同時に変化している真っ最中だ。
そうなると、思い浮かぶのは戦国時代の大改革者、織田信長だ。
織田信長は1534年生まれだからイギリスのエリザベス一世より一歳、ロシアのイヴァン四世(雷帝)よりも四歳若く、無敵艦隊で知られるスペインのフェリペ二世よりは七歳年下だ。しかし、この中の誰よりも早く世を去った。信長は世界史に著名な大王たちと同世代人だが、その中でも革新性ではずば抜けている。
織田信長が、鉄砲三千挺を連ねて武田の強兵を撃破した長篠の合戦は有名だが、これとて技術革新だけのことではない。長篠の合戦が行われた1575年当時、鉄砲が強力な武器であることは全国の武将が知っていた。だが、三千挺を前線に集中する組織と、買い揃える財源が無かった。織田信長だけはそれがあったのだ。
信長は、それまでの農民兵に頼らず、銭で養う傭兵隊を作り、豊臣秀吉や明智光秀のような中途採用の流れ者に指揮させた。いわば行政改革と人事の刷新である。この結果、鉄砲隊だけを最前線に並べることができたのだ。
また、楽市楽座を断行して商工業を盛んにし、豊かな財源を得た。当時としては世界中に類例がないほど大胆な規制緩和によって、新規産業を振興したのである。
鉄砲の大量利用の基礎には、猛烈な行政改革と規制緩和があった。そしてそれを突破するのには、従来の考え方や世間の評判に捉われない自由な発想が必要だった。従来の常識や慣例を無視し、在来型組織の抵抗を恐れず、独自の価値観を実行し、戦さの勝利と経済の繁栄と壮大な建物で、その正しさを天下に見せつけた。つまり、「文化」を変えて見せたのだ。
織田信長に限ったことではない。成功した大改革はみな「文化革命」を伴っている。明治維新は武士の文化を否定して文明開化に代えた。戦後の改革は軍人文化を排除して平和と繁栄を正義にした。
今、日本が進めている改革では、官僚依存の事なかれ主義文化を捨て、自由と創造を優先する未来型の文化を創りたい。
小泉元首相はよく織田信長になぞらえられましたが、そうした文脈における信長像とは、上記の特別寄稿に見られる認識に近いものだと言ってよいでしょう。「抵抗勢力」に果敢に挑み、「改革」に邁進した小泉元首相の姿(実態がどうだったかは別問題です)は、「大改革者」の信長と重ね合わせて見られたというわけです。また、信長のように大胆に改革に邁進してほしい、との願望が小泉元首相に託されたという側面もあるでしょう。
これは一種の英雄待望論と言えますが、そのさいに規範となる過去の英雄(この場合は織田信長)の人物像・評価が、しばしば現代の状況を過剰に反映した結果になりがちな点については、大いに注意が必要でしょう。すべての歴史が現代史であるいじょう、これはあるていど仕方のないところであり、信長にかぎらず、始皇帝や王安石などは、その時代の課題・価値観を過剰に投影された評価がなされてきました。
上記の特別寄稿にしても、近現代の欧米的な価値観へとさらに傾斜した敗戦後の日本の状況から生じたものと言えるでしょう。欧米的な合理性・先進性をもった英雄を日本史にも見出したいという願望の結果として、堺屋氏など少なからぬ「識者」が信長の「合理性・革新性」を高く評価し、その評価は多数の日本国民の間に浸透しました。そのような時代背景があったために、小泉元首相を信長になぞらえる言説がもてはやされたというわけです。
ここで注意すべきなのは、このように規範となる過去の英雄の人物像は、必ずしも実証史学的に妥当性が高いとは限らない、ということです。上記の特別寄稿において、とくに小泉元首相と関連があるのは、規制緩和についての評価でしょう。信長の「楽市楽座」政策は、「世界中に類例がないほど大胆な規制緩和」であり、経済の繁栄という形で正しさを証明したというわけです。上記の特別寄稿では明言されていませんが、座の既得権を否定して自由な商売を可能としたことが、信長の「大胆な規制緩和」と評価されているものと思われます。
しかし、信長の流通政策の基調は、特定の特権商人を指定したり座組織の既得権を保障したりすることによる統制にあったとみるべきであり、楽市場についても、信長などの大名権力が初めて規制を緩和して自由な商売を可能にした、とする理解には問題があることが指摘されています(脇田修『近世封建制成立史論 織豊政権の分析II』第二章、勝俣鎭夫「楽市場と楽市令」『戦国法成立史論』など)。じっさい、座の統制に服さず、座の既得権を侵害する輩は成敗する、と信長は述べています(『増訂織田信長文書の研究 下巻』844)。
これでは、たとえ信長の時代に経済繁栄があったとしても、それが「規制緩和」の成果なのか、はなはだ疑問だと言うべきでしょう。上記の特別寄稿はその他にも、長篠の戦いの5年前に、紀伊国奥郡衆2万が3000丁という大量の鉄炮を備えて織田軍の来援に赴き、大銃撃戦となったこと(『信長公記』)が無視されているなど、問題点が多すぎるのですが、とりあえず今回は「規制緩和」についての問題を中心に取り上げました。
国家・民族を成立させるには物語が必要だとはいえ、内閣のメルマガにこのような実証史学的に疑問の多い見解が掲載されてしまったのは、やはり問題であるように思います。そもそも、ある英雄像に現代の政治家を重ねあわせるのは、その英雄像のもとになった見解が実証史学的に妥当であろうとなかろうと、英雄への賞賛という素朴な感情のもとに時代背景の違いをも無視し、その政治家の神格化につながりかねないという意味で、ひじょうに危険なのではないでしょうか。政治家にかぎらず、過去の英雄と重ね合わせる形で現在の人間を賞賛するような言説は、基本的には胡散臭いものだと考えて、まず疑ってかかるのがよいと思います。
今、日本は大改革の途上にある。世界も劇的に変化しつつある。規格大量生産型の工業社会が崩れ、国家の形態も変わり出した。アフリカ南部から中央アジアまでの広い範囲に、国家のない地域が広がっている。アフガニスタンもその一つだ。今は、世界と日本が同時に変化している真っ最中だ。
そうなると、思い浮かぶのは戦国時代の大改革者、織田信長だ。
織田信長は1534年生まれだからイギリスのエリザベス一世より一歳、ロシアのイヴァン四世(雷帝)よりも四歳若く、無敵艦隊で知られるスペインのフェリペ二世よりは七歳年下だ。しかし、この中の誰よりも早く世を去った。信長は世界史に著名な大王たちと同世代人だが、その中でも革新性ではずば抜けている。
織田信長が、鉄砲三千挺を連ねて武田の強兵を撃破した長篠の合戦は有名だが、これとて技術革新だけのことではない。長篠の合戦が行われた1575年当時、鉄砲が強力な武器であることは全国の武将が知っていた。だが、三千挺を前線に集中する組織と、買い揃える財源が無かった。織田信長だけはそれがあったのだ。
信長は、それまでの農民兵に頼らず、銭で養う傭兵隊を作り、豊臣秀吉や明智光秀のような中途採用の流れ者に指揮させた。いわば行政改革と人事の刷新である。この結果、鉄砲隊だけを最前線に並べることができたのだ。
また、楽市楽座を断行して商工業を盛んにし、豊かな財源を得た。当時としては世界中に類例がないほど大胆な規制緩和によって、新規産業を振興したのである。
鉄砲の大量利用の基礎には、猛烈な行政改革と規制緩和があった。そしてそれを突破するのには、従来の考え方や世間の評判に捉われない自由な発想が必要だった。従来の常識や慣例を無視し、在来型組織の抵抗を恐れず、独自の価値観を実行し、戦さの勝利と経済の繁栄と壮大な建物で、その正しさを天下に見せつけた。つまり、「文化」を変えて見せたのだ。
織田信長に限ったことではない。成功した大改革はみな「文化革命」を伴っている。明治維新は武士の文化を否定して文明開化に代えた。戦後の改革は軍人文化を排除して平和と繁栄を正義にした。
今、日本が進めている改革では、官僚依存の事なかれ主義文化を捨て、自由と創造を優先する未来型の文化を創りたい。
小泉元首相はよく織田信長になぞらえられましたが、そうした文脈における信長像とは、上記の特別寄稿に見られる認識に近いものだと言ってよいでしょう。「抵抗勢力」に果敢に挑み、「改革」に邁進した小泉元首相の姿(実態がどうだったかは別問題です)は、「大改革者」の信長と重ね合わせて見られたというわけです。また、信長のように大胆に改革に邁進してほしい、との願望が小泉元首相に託されたという側面もあるでしょう。
これは一種の英雄待望論と言えますが、そのさいに規範となる過去の英雄(この場合は織田信長)の人物像・評価が、しばしば現代の状況を過剰に反映した結果になりがちな点については、大いに注意が必要でしょう。すべての歴史が現代史であるいじょう、これはあるていど仕方のないところであり、信長にかぎらず、始皇帝や王安石などは、その時代の課題・価値観を過剰に投影された評価がなされてきました。
上記の特別寄稿にしても、近現代の欧米的な価値観へとさらに傾斜した敗戦後の日本の状況から生じたものと言えるでしょう。欧米的な合理性・先進性をもった英雄を日本史にも見出したいという願望の結果として、堺屋氏など少なからぬ「識者」が信長の「合理性・革新性」を高く評価し、その評価は多数の日本国民の間に浸透しました。そのような時代背景があったために、小泉元首相を信長になぞらえる言説がもてはやされたというわけです。
ここで注意すべきなのは、このように規範となる過去の英雄の人物像は、必ずしも実証史学的に妥当性が高いとは限らない、ということです。上記の特別寄稿において、とくに小泉元首相と関連があるのは、規制緩和についての評価でしょう。信長の「楽市楽座」政策は、「世界中に類例がないほど大胆な規制緩和」であり、経済の繁栄という形で正しさを証明したというわけです。上記の特別寄稿では明言されていませんが、座の既得権を否定して自由な商売を可能としたことが、信長の「大胆な規制緩和」と評価されているものと思われます。
しかし、信長の流通政策の基調は、特定の特権商人を指定したり座組織の既得権を保障したりすることによる統制にあったとみるべきであり、楽市場についても、信長などの大名権力が初めて規制を緩和して自由な商売を可能にした、とする理解には問題があることが指摘されています(脇田修『近世封建制成立史論 織豊政権の分析II』第二章、勝俣鎭夫「楽市場と楽市令」『戦国法成立史論』など)。じっさい、座の統制に服さず、座の既得権を侵害する輩は成敗する、と信長は述べています(『増訂織田信長文書の研究 下巻』844)。
これでは、たとえ信長の時代に経済繁栄があったとしても、それが「規制緩和」の成果なのか、はなはだ疑問だと言うべきでしょう。上記の特別寄稿はその他にも、長篠の戦いの5年前に、紀伊国奥郡衆2万が3000丁という大量の鉄炮を備えて織田軍の来援に赴き、大銃撃戦となったこと(『信長公記』)が無視されているなど、問題点が多すぎるのですが、とりあえず今回は「規制緩和」についての問題を中心に取り上げました。
国家・民族を成立させるには物語が必要だとはいえ、内閣のメルマガにこのような実証史学的に疑問の多い見解が掲載されてしまったのは、やはり問題であるように思います。そもそも、ある英雄像に現代の政治家を重ねあわせるのは、その英雄像のもとになった見解が実証史学的に妥当であろうとなかろうと、英雄への賞賛という素朴な感情のもとに時代背景の違いをも無視し、その政治家の神格化につながりかねないという意味で、ひじょうに危険なのではないでしょうか。政治家にかぎらず、過去の英雄と重ね合わせる形で現在の人間を賞賛するような言説は、基本的には胡散臭いものだと考えて、まず疑ってかかるのがよいと思います。
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