現代人と変わらない知的資質の人類の起源
現在では、開始年代こそ異なるものの、農業は世界の何箇所かでそれぞれ独自に始められたと考えられていて、文明についても、すくなくともアメリカ大陸の諸文明とユーラシア大陸の諸文明は、それぞれ独自に始まったと考えるのが妥当だと思われます。こういう現象が起きるのも、各地域集団間において、潜在的な知的資質の差が基本的にはないからでしょう(厳密にいえば差はあるのでしょうが、集団内の個人間の差と比較するとごくわずかな違いであり、ことさらに取り上げるほどの差でもないでしょう)。
各地域集団間の文化の違いはありますが、それは地理的要因などに起因する社会的蓄積の違いであり、現在でも一部の人が想定するような、集団間の潜在的な知的資質の違いによるものではないでしょう(以前はそう考える人が少なくありませんでしたが)。ですから、たとえば「未開地域」の人類集団で生まれた幼児を「文明社会」で育てれば、どのような人類集団にも認められる個体差はあるにしても、基本的には「文明社会」に適応できます。
では、農耕開始以降の人類と同じていどの潜在的知的資質を有する人類はいつ登場したのでしょうか?現在では、上部旧石器・後期石器時代以降の現生人類は、潜在的な知的資質において現代人と基本的には変わらない、というのが共通認識になっていると言ってよいと思います。つまり、上部旧石器時代の現生人類の幼児を現代の文明社会で育てれば(もちろん、じっさいには不可能なことですが)、個体差はあるにしても、基本的には現代社会に適応できるということです。
しかし、それ以前の人類となると、賛否の分かれるところでしょう。現在の世界の考古学・人類学においては、人類史最大の転機は、農耕の開始ではなく上部旧石器・後期石器時代の開始にあり、これ以降の現生人類を行動学的現代人、これよりも前の現生人類を解剖学的現代人と区別する見解が根強くあります。
上部旧石器・後期石器時代よりも前の現生人類は、外見は現代人と変わらないものの、行動は異なるというわけですが、その説明としては、解剖学的現代人は潜在的な知的資質において現代人とは異なり(上部旧石器・後期石器時代の開始は、神経系の何らかの突然変異の結果によるものだったとされます)、それが行動の違いとなった、という考えです。つまり、解剖学的現代人の幼児を現代の文明社会で育てても、適応できないのではないか、ということになります。
これにたいして、後期石器時代の前の中期石器時代において、すでに行動面で現代性が現れている、との見解を主張する研究者もいて、近年ではそうした証拠が増えつつあります。私もこの見解に賛成で、現代人と変わらない知的資質の起源は、遅くとも中期石器時代にさかのぼり、上部旧石器・後期石器時代以降の現生人類の行動とそれ以前の現生人類の行動の違いは、社会的蓄積の差によるものだと考えています。
では、現代人と変わらない知的資質の起源はどこまでさかのぼるのでしょうか?おそらく、25~20万年前頃に現生人類が登場した時点で、潜在的な知的資質は現代人と基本的に変わらなかったのだろうと私は推測しています。しかし、それ以前にどこまでさかのぼるかとなると、さすがに推測が難しくなります。
そこで参考になるのが、現生人類とは異なる人類集団であるネアンデルタール人の存在で、上部旧石器的とされるシャテルペロン文化はネアンデルタール人の所産とされますが、これが現生人類の真似ではなく、ネアンデルタール人独自の開発である可能性が指摘されています。この見解はまだ通説とはなっていませんが、私はその可能性が高いと考えています。そうすると、通説で言われているよりは、ネアンデルタール人と現代人との潜在的な知的資質の差は小さいということになりそうです。
その場合、ネアンデルタール人と現生人類の最後の共通祖先(60~50万年前頃)には、現代人ときょくたんには変わらない知的資質があった可能性がありそうです。これは無謀な考えだと思う人が多いでしょうが、60~50万年前頃に、アフリカ・西アジア・欧州において、人類の脳容量が増加し、より洗練された後期アシュール型石器が使用されるようになりました。
また、本格的な狩猟が始まったのもこの頃である可能性が指摘されていて、この頃、人類の脳に重大な変化があったように思われます。私の考えでは、この60~50万年前頃と、現代人と変わらない直立二足歩行の確立した200万年前頃が、人類史の二大転機となります。
もちろん、潜在的な知的資質において、60~50万年前頃の人類やネアンデルタール人と現代人との違いは、現代の各地域集団間の違いよりも大きいだろうとは思いますし、60~50万年前頃の人類やネアンデルタール人の幼児を現代の文明社会で育てても、現代人の幼児よりも適応できる割合は低いとは思います。また現代社会からの視点では、何らかの知的能力の面において、ネアンデルタール人が現代人に決定的に劣っていた可能性も低くはないでしょう。
その意味では、現代人とほぼ変らない知的資質の人類の登場ということになると、現生人類の登場する少し前と考えるほうが妥当なのかもしれません。しかし、無謀かもしれませんが、50万年前頃の人類(アフリカ・西アジア・欧州)も、潜在的な知的資質において現代人ときょくたんには変らなかった可能性があることを、今後も念頭に置いておこうと思います。
一方、東・東南アジアのエレクトスについては、ネアンデルタール人よりもさらに古い年代に現代人の祖先と分岐しているでしょうから、現代人との潜在的な知的資質の違いはかなり大きく、エレクトスの幼児を現代の文明社会で育てても、基本的には適応できない可能性が高いだろうと思います。
上記のような私の考えは、都合のよい見解だけ採用して偏っているところがあるのは否定できませんし、多数の支持を得られるものでもないでしょうが、現時点での自分の考えを率直に述べてみた次第です。
各地域集団間の文化の違いはありますが、それは地理的要因などに起因する社会的蓄積の違いであり、現在でも一部の人が想定するような、集団間の潜在的な知的資質の違いによるものではないでしょう(以前はそう考える人が少なくありませんでしたが)。ですから、たとえば「未開地域」の人類集団で生まれた幼児を「文明社会」で育てれば、どのような人類集団にも認められる個体差はあるにしても、基本的には「文明社会」に適応できます。
では、農耕開始以降の人類と同じていどの潜在的知的資質を有する人類はいつ登場したのでしょうか?現在では、上部旧石器・後期石器時代以降の現生人類は、潜在的な知的資質において現代人と基本的には変わらない、というのが共通認識になっていると言ってよいと思います。つまり、上部旧石器時代の現生人類の幼児を現代の文明社会で育てれば(もちろん、じっさいには不可能なことですが)、個体差はあるにしても、基本的には現代社会に適応できるということです。
しかし、それ以前の人類となると、賛否の分かれるところでしょう。現在の世界の考古学・人類学においては、人類史最大の転機は、農耕の開始ではなく上部旧石器・後期石器時代の開始にあり、これ以降の現生人類を行動学的現代人、これよりも前の現生人類を解剖学的現代人と区別する見解が根強くあります。
上部旧石器・後期石器時代よりも前の現生人類は、外見は現代人と変わらないものの、行動は異なるというわけですが、その説明としては、解剖学的現代人は潜在的な知的資質において現代人とは異なり(上部旧石器・後期石器時代の開始は、神経系の何らかの突然変異の結果によるものだったとされます)、それが行動の違いとなった、という考えです。つまり、解剖学的現代人の幼児を現代の文明社会で育てても、適応できないのではないか、ということになります。
これにたいして、後期石器時代の前の中期石器時代において、すでに行動面で現代性が現れている、との見解を主張する研究者もいて、近年ではそうした証拠が増えつつあります。私もこの見解に賛成で、現代人と変わらない知的資質の起源は、遅くとも中期石器時代にさかのぼり、上部旧石器・後期石器時代以降の現生人類の行動とそれ以前の現生人類の行動の違いは、社会的蓄積の差によるものだと考えています。
では、現代人と変わらない知的資質の起源はどこまでさかのぼるのでしょうか?おそらく、25~20万年前頃に現生人類が登場した時点で、潜在的な知的資質は現代人と基本的に変わらなかったのだろうと私は推測しています。しかし、それ以前にどこまでさかのぼるかとなると、さすがに推測が難しくなります。
そこで参考になるのが、現生人類とは異なる人類集団であるネアンデルタール人の存在で、上部旧石器的とされるシャテルペロン文化はネアンデルタール人の所産とされますが、これが現生人類の真似ではなく、ネアンデルタール人独自の開発である可能性が指摘されています。この見解はまだ通説とはなっていませんが、私はその可能性が高いと考えています。そうすると、通説で言われているよりは、ネアンデルタール人と現代人との潜在的な知的資質の差は小さいということになりそうです。
その場合、ネアンデルタール人と現生人類の最後の共通祖先(60~50万年前頃)には、現代人ときょくたんには変わらない知的資質があった可能性がありそうです。これは無謀な考えだと思う人が多いでしょうが、60~50万年前頃に、アフリカ・西アジア・欧州において、人類の脳容量が増加し、より洗練された後期アシュール型石器が使用されるようになりました。
また、本格的な狩猟が始まったのもこの頃である可能性が指摘されていて、この頃、人類の脳に重大な変化があったように思われます。私の考えでは、この60~50万年前頃と、現代人と変わらない直立二足歩行の確立した200万年前頃が、人類史の二大転機となります。
もちろん、潜在的な知的資質において、60~50万年前頃の人類やネアンデルタール人と現代人との違いは、現代の各地域集団間の違いよりも大きいだろうとは思いますし、60~50万年前頃の人類やネアンデルタール人の幼児を現代の文明社会で育てても、現代人の幼児よりも適応できる割合は低いとは思います。また現代社会からの視点では、何らかの知的能力の面において、ネアンデルタール人が現代人に決定的に劣っていた可能性も低くはないでしょう。
その意味では、現代人とほぼ変らない知的資質の人類の登場ということになると、現生人類の登場する少し前と考えるほうが妥当なのかもしれません。しかし、無謀かもしれませんが、50万年前頃の人類(アフリカ・西アジア・欧州)も、潜在的な知的資質において現代人ときょくたんには変らなかった可能性があることを、今後も念頭に置いておこうと思います。
一方、東・東南アジアのエレクトスについては、ネアンデルタール人よりもさらに古い年代に現代人の祖先と分岐しているでしょうから、現代人との潜在的な知的資質の違いはかなり大きく、エレクトスの幼児を現代の文明社会で育てても、基本的には適応できない可能性が高いだろうと思います。
上記のような私の考えは、都合のよい見解だけ採用して偏っているところがあるのは否定できませんし、多数の支持を得られるものでもないでしょうが、現時点での自分の考えを率直に述べてみた次第です。
この記事へのコメント
「その場合、ネアンデルタール人と現生人類の最後の共通祖先(60~50万年前頃)には、現代人ときょくたんには変わらない知的資質があった可能性がありそうです。これは無謀な考えだと思う人が多いでしょうが、60~50万年前頃に、アフリカ・西アジア・欧州において、人類の脳容量が増加し、より洗練された後期アシュール型石器が使用されるようになりました。」
とおっしゃっていいますが、「後期アシュール型石器」を制作した化石人類は、解剖学的に現生人類と変わらぬだけの脳容量があったのでしょうか?
クライン博士が依拠した研究は
Nature 387, 173 - 176 (08 May 1997)
http://dx.doi.org/10.1038/387173a0
ですが、私はまだ読んでいません。
もっとも、脳容量の増大と後期アシュール文化とを結びつけるのは、美しい説明ではありますが危険かもしれません。
この記事ではやや安易に述べてしまいましたが、文化的「発展」と生物学的進化との関係については、慎重に見極めねばならないと思います。