古田博司『新しい神の国』

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2007年10月に刊行されました。帯には、「日本は東アジアではなかった!覚醒する日本文明圏」とあり、題名とあわせてかなり挑発的と言えます。本書の主張は、日本は近代前より東アジア文明圏の一員ではなく独自の文明圏を形成していたのだから、アジア主義者のように東アジア諸国にたいして変な幻想をもつようなことはせず、欧米にたいしても東アジアにたいしても、永遠の他者として割り切って付き合っていくべきだ、というものです。

 宗族社会である東アジア(中国・朝鮮)とイエ社会の日本との対比や、そうした社会の違いにより生じる思想・観念の相違など、日本と中国・朝鮮とがいかに異なる社会であるかということが、本書においては強調されています。日本と中国・朝鮮には、漢字・儒教といった共通の要素があるだろうとの見解は、日本に入ってきたのは漢籍であり、しょせんはインテリたちの遊び道具にすぎなかった、と一蹴されています。

 そのさいに著者が強調しているのは、日本の「茶化し文化(ティーゼイション)」です。江戸時代以前より、日本では儒学者にたいする庶民からの茶化しが存在し、朝鮮とはことなり儒教の全面的な社会への浸透が防がれてきました。もちろん、この茶化しの伝統は万能ではなく危険性もありますが、日本文化の立派な因子です。

 茶化し文化は近代になって停滞したとはいえ、日本がポストモダン社会に突入した1980年代あたりから復権し、2ちゃんねるなどネットでの言動(の少なからぬ部分)の基底にあるものです。この茶化しの姿勢こそ日本の豊かな庶民文化を育んできたものでした。

 アジア主義者たちの企図に屈せず、東アジア「異時代国家群」からの攻撃に現実的に対応しつつ、経済交流の可能な相手とはその局面ではお互いに儲け合い、美しい伝統を写実(写実も日本文明のじゅうような因子とされます)して後世へ伝えていき、日本文明圏を守れば、日本はじゅうぶんポストモダンを勝ち抜いていけます。そのような現実感覚を身につけ、努力を怠らない多くの賢明な民衆に支えられた日本国を、「新しい神の国」と呼びたいのだ、と著者は主張しています。

 また本書では、東アジア諸国に幻想を抱き続けてきた(アジア主義的)インテリにたいする批判が基調の一つとなっていますが、戦後に良心的・進歩的知識人が闊歩した理由として、日本の茶化しの伝統が停滞していたからではないか、とされます。上述したネットでの言動とは、おもに左翼批判のことを指しますが、これはナショナリズム的言説ではなく、茶化しの伝統上にあるものだ、とされています。


 以上、本書の見解についてざっと見てきました。確かに、中国・朝鮮にたいして同文同種などといって過剰な幻想を抱くのは危険ですし、そもそも国家間の関係は割り切ったものであるべきなのでしょう。相手が尊敬できようができまいが、利害計算に基づいて付き合うのが常識なのだろうとは思います。戦うのが得策でなければ、戦争になる可能性を低下させるような仕組みを作らねばなりませんし、利益になるのならば断交する必要もあるでしょう。また、中国側の軍民二分論は欺瞞であるとの指摘も妥当でしょう。

 中国・朝鮮と日本とでは、社会構造や思想・観念が大きく異なるとの本書の指摘も、基本的には妥当だろうと思います。ただ、本書で展開された文明論に全面的に賛同するというわけではありません。現在では、西洋の衝撃により東アジア文明圏という枠組みは崩壊してしまいましたが、前近代においては、東アジア文明圏という枠組みを設定し、そこに日本を含むのが妥当だろう、と私は考えています。

 もちろん私はインテリではありませんから、著者からすると、私はインテリの言説に惑わされた庶民の一人であり、日本がポストモダンを勝ち抜いていくのに必要な、現実的で賢明な庶民ではない、ということになるのでしょう。ただ、どれだけ社会構造や思想・観念が異なっても、日本が中国から大きな影響を受けたことは否定できません。まあこの問題については、そもそも文明をどうとらえるのか、という見解にも左右されるでしょうが。

 著者からすると、中国文明の影響はインテリの世界のことだけなのでしょうが、明治維新は下級武士による政権奪取という側面もあり、家父長制の強化など、儒教の影響は近代以降になって庶民の間で強くなったのではないでしょうか。また、長期にわたって日本社会に大きな影響を与えた仏教は、本書でも指摘されているように、中国仏教が起源となっています。したがって日本の仏教には、儒教はもちろん道教の要素も入っています。日本の神々は仏教とは無縁ではなく、仏教など外来思想の影響を受けない「日本の古層」の神々は、現在では確認することができません。

 やや脱線しますが、日本仏教の直接的な起源が中国仏教であるいじょう、日本の仏教には儒教や道教の要素も入っている、と強調することにあまり意味はないと思います。余談ついでに述べると、日本における「神国」観とはそもそもけっして排他的・独善的なものではく、中国やインドをも視野に入れた、仏教的な「世界の真理」を前提とした概念でした。

 また、前近代の日本の産業・技術のなかに、中国起源のものが多数あることも否定できないでしょう。津田左右吉によると、日本の生活文化は中国文化の影響は深く受けなかったが、欧米文化の影響は深く受けた、ということになります。しかし生活文化の面では、産業・技術だけではなく伝統的な暦も、日本で独自に定められていたとはいえ、基本的には中国文化の枠組みにあります。

 日本のインテリ(エリート)文化も生活文化も中国文明から多大な影響を受けて形成されたものであり、そのようにして形成された文化を前提として、欧米の近代文明が日本で受容されたのだと思います。欧米化の進んだ現代の日本においては、中国の影響は見えにくくなっていますが、日本における中国文明の影響はけっしてインテリだけのものではないでしょう。

 もちろんそれでも、日本と中国・朝鮮との間の違いは否定できません。ただ、前近代の日本における中国文明の影響の強さを考えると、前近代の日本は東アジアの一員と考えるほうが妥当だと思われます。それは、現代の日本が欧米とはかなりことなる思想・観念をもつ社会でありながら、基本的には近現代欧米文明の枠組みにあるのと同じことです。もっとも著者に言わせると、日本は欧米とは異なる独自の文明ということになるのでしょうし、世間でもそうした考えが根強いでしょうから、これは文明をどう考えるのかという問題でもあります。

 他に本書で気になるのは、日本社会の未来にたいしてあまりにも楽観的なことです。現在の日本はさまざまな問題を抱えていますが、とくに少子高齢化の到来はたいへん深刻だと思われます。もっとも、これは日本だけの問題ではなく、本書でよく日本との比較対象になった中国・韓国でも同様に深刻ですが。人口減少は必ずしも悪くないとの見解もありますし、じっさい、現在の地球は人口過剰気味だろうと思います。

 ただ、現在がこれまでの人類社会と決定的に異なるのは、高齢者と若年層の比率です。これだけ高齢化が進展した社会は過去になく、この面で人類は未知の社会に突入しつつあります。先例のない大規模な変動に人類社会が対応できるのか、現在の生活・文明水準を維持できるのか、不安は少なくありません。もっとも、高齢化の進展度は国・地域によって異なりますから、日本のように高齢化の進展した社会は移民を大量に受け入れたらよい、との見解もあるでしょう。ただその場合、「日本の美しい伝統」をどれだけ継承できるのか、疑問です。

 本書は全体的に、近年になって増えつつある嫌中・嫌韓層には受けがよく、「良心派」にとっては激怒するような内容になっています。ただ、嫌中・嫌韓層が歓迎しているのを見て、心の奥底で著者は冷笑しているのではないか、という気もします。これは私の誤解・偏見かもしれませんが、どうも著者のなかに、ある種の底意地の悪さがあるようにも思えます。

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