松木武彦『日本の歴史第1巻 列島創世記』(2007年11月刊行)

 いよいよ、小学館から『日本の歴史』全16巻の刊行が始まりました。じっさいに読んでみての感想ですが、文字が大きくて読みやすいのはよいと思います。また文章についても、この第1巻は、できるだけ分かりやすいようにという配慮がなされており、なかなか読みやすくなっています。第2巻以降も期待できそうです。

 ただ、この第1巻は読みやすいとはいっても、読者に考えさせる深い内容になっており、一般向け通史としてはある意味理想に近い一冊になっていると思います。もっとも、だからといって本書で提示された見解の妥当性が保証されているわけではありません。また、本書で示された方法論に疑問をいだく人も少なからずいるだろうと思います。

 以下、私のメモ書きのような感じになり、かなり長くなってしまいますが、本書の見解について見ていくことにします。このブログは、不特定多数の読者がいるという前提のもとに執筆していますが、基本的には備忘録的性格が強いので、今後もこのような自分自身のためだけの記事が多くなると思います。



 本書は、4万年前頃から5世紀までの、日本列島における人類の営みが描かれています。この間の日本列島の人骨はかぎられているのですが、本書では、この間の日本列島の人類はホモ=サピエンス(現生人類)だろう、とされます。これを証明するのは将来も無理でしょうが、おそらく現生人類で間違いないでしょう。

 本書の特徴はいくつかありますが、まず挙げられるのは、この4万年にわたる人類の営みを物質資料(考古資料)だけで描き、文字記録(文献史料)を用いないことです。縄文時代以前ならとうぜんのことですが、弥生時代以降は『漢書』や『三国志』といった中国の史書を用いるのが通例なだけに、大胆な試みだと言えます(本書では記紀も用いられません)。本書では、いわゆる邪馬台国や倭の五王は基本的に取り上げられません(コラムで邪馬台国について触れられています)。

 4万年を一貫した方法論で描くためにはこうする必要がある、というのが本書の立場です。縄文時代で叙述を止めず、5世紀までを叙述の対象にしたのは、6世紀以降、日本列島における文字記録と信憑性が増して、物質資料は雄弁さの点で文字記録に遠く及ばなくなるからです。文字が多く使われる社会とそうでない社会とでは、社会の性質そのものが違い、後者は前者のような複雑で安定した制度を保てないから、社会の仕組みは単純で移ろいやすい、と著者は指摘します。

 この指摘は、文字が多く(またはまったく)用いられないような社会では、制度の代わりに壮大な建造物や道具を用いた儀式が大きな社会的意味を持つ、との見解につながっていきます。日本において古墳が巨大化した時代は、そのような社会のもっとも発達した段階を示しており、古墳の大きさが衰退したのは、文字をより多く必要とするような社会へ移行したためだ、との展望が示されます。これは日本だけのことではなく、エジプトのピラミッドが巨大化し、その後衰退したことをも視野に入れた見解となっています。

 エジプトにも言及されているように、本書は時間・空間的にたいへん視野が広いことも特徴となっています。現代日本で出版されるということで、日本列島が地理的対象範囲になっていますが、日本列島の太古からの一体性を前提とすることはなく、北海道とユーラシア北東部、九州北部と朝鮮半島南部との密接な関係も指摘されています。もっとも、こうした視点は最近の通史では当然のようになりつつありますが。
 
 またそのこととも関連するのでしょうが、学際的な叙述になっていることも本書の特徴です。狭義の考古学だけではなく、自然科学と連携して人間の本質を追及する心の科学(認知科学)の成果も大胆に取り入れて物質資料を解釈しつつ、新しいヒューマン・サイエンスの一翼を担うべき人類史・日本列島史の叙述が目指されています。

 そのため、日本列島の人類だけではなく、現生人類全体、さらには人類の誕生にまでさかのぼって、日本列島での人類の営みが叙述されています。ただ、私が認知科学に疎いということもあるのでしょうが、現代にまで残る物質はわずかであることなど、物質資料の解釈はなかなか難しいものであり、本書で提示された解釈が妥当かどうか、疑問は残ると思います。たとえば、古墳時代の土器の特色から流通のあり方を論じた箇所などは、かなり危うい感じを受けます。今後さらなる研究が必要なのでしょう。

 環境が人類史に与えた影響が大きく評価されているのも本書の特徴です。もちろん、環境が歴史を決定すると単純に述べられているわけではなく、環境と人類との相互作用が指摘されています。ただ本書においては、寒冷化と温暖化の人類に与える影響が、やや単純化されて説明されている感を受けました。また、内在的要因だけではなく、外在的要因も重視することも本書の特徴となっています。


 さて、本書の具体的な叙述についてです。上述したように、本書の叙述は人類誕生にまでさかのぼります。人類誕生から日本列島に人類が移住するまでの本書の見解については疑問もありますが、本書の主題は更新世以前の人類進化史ではありませんので、いくつかの疑問と興味深い見解について述べるにとどめておきます。

 本書では、人類史において5万年前に「ビッグバン」があった、とのクライン博士の見解が採用されています。しかし、クライン博士の見解と異なるのは、その要因を神経系の突然変異ではなく社会関係の変化に求めていることで、この点は私も同感です。ただ、今年11月2日分の記事にて紹介したように、「ビッグバン」を認めるとしても、もっと年代をさかのぼらせるのが妥当だろうと思います。また本書では、最古の確かな象徴的器物は75000年前頃のものとされますが、同じく今年11月2日分の記事でも述べたように、少なくとも11~9万年前頃まではさかのぼります(昨年9月13日分の記事で紹介したように、もっとさかのぼる可能性もあります)。

 旧石器時代(更新世)における農耕の可能性が指摘されていることも興味深いのですが(ただし、定着しなかったとされます)、農耕と認定してよいかどうかはともかくとして、75000~55000年前頃のアフリカにおいて植物資源の管理がなされていた可能性について、同じく今年11月2日分の記事で述べました。すでに更新世において、たんなる採集以上の行為が存在した可能性は、けっして低くはないだろうと思います。

 本書においてじゅうような概念となる、実用を超えた「凝り」の出現については、後期アシュール文化に始まるとされます(60万年前以降)。用途についての認識だけではなく、美的感覚などからくる興奮は、さまざまな観念を人類の心に呼び起こすとされます。道具がたんなる実用性の枠を超えてさまざまな社会的意味を託され、人類の社会的関係を物質的に表現するようになったのがこの頃でした。文字以前の複雑社会への扉はこの頃に開けられ、後に日本列島では巨大古墳を産み出す、というわけです。これはなかなか興味深い見解で、今年11月7日分の記事で述べた私見とも関連します。


 日本への人類の移住時期について本書では、確実なのは4万年前以降とされます。それ以前の移住の可能性についても言及されていますが、不明な点が多いので、本書の記述は4万年前以降を対象としています。日本にいつ人類が移住したのかという問題は、今後も容易に解決されないでしょう。20万年以上前に、日本列島に現生人類以外の人類が移住してきた可能性もある、と私は考えていますが、本当のところはどうでしょうか。

 本書の特徴の一つである認知科学的解釈の例としては、環状ブロック群を親しみと対等性をかもしだすもの、というものが挙げられます。たしかに、輪・円は対等性の象徴といった感があり、江戸時代の百姓一揆における円形の傘連判状や、1980年代のポーランドにおける政府と自主管理労組連帯との円卓会議での交渉など、広く人類に共通する観念であるように思われます。

 3万年前以降の寒冷化により、日本列島の人類は新たな生存戦略(植物資源よりも動物資源への依存度を深めました)を採用し、日本列島内の地域差が顕著になります。気候変動による生存戦略・社会の変化を物質資料に読み取り、日本列島内の地域差の濃淡を検証するのが、本書の基本的な枠組みとなります。旧石器時代は寒冷化が地域差を強め、縄文時代以降は、温暖期に地域差が強くなり、寒冷期に地域差が弱まる(画一化が進む)、というのが本書の見通しです。

 また、旧石器時代における地域差でじゅうようなのは、北海道はシベリアと、九州は朝鮮半島との類似性が強いということです。つまり、日本列島全体を覆って他の地域と区分できるような文化があり、日本列島のなかで地域差が強くなっているというわけではない、ということです。現代の日本ではかなり浸透した考えとなりましたが、近代以降の国民国家による地理的区分を、安易に前近代に適用することの危険性を改めて思い知らされます。


 旧石器時代から縄文時代への移行も、気候変動が大きな要因として取り上げられています。2万年前以降、気候は温暖化に転じ、大型獣が減少していったため、中小動物への依存度が高まりました。そのため、大集団により共同キャンプを営むような社会から、小集団による遊動性の高い社会へと転換していきます。こうした状況のなか、遊動性重視の集団とネットワーク重視の集団とが並存し、後者が主流となったのが新たな縄文社会でした。

 縄文時代とそれ以前とを区分するもっとも重要な指標は、明確な定住の有無です。貯蔵設備や土器などの家財道具が出土するようになり、住居の建て替えが認められます。日本列島における縄文時代への移行は15000年前頃に始まり、現在確認されている最古級の縄文遺跡は、鹿児島に見られます。

 ただ、日本列島における多様性には注意しなければなりません。たとえば、北海道の北部・東部では動物資源への依存度が高く、旧石器時代の特色が濃厚に継承されることになりました。この地域は、東北以南の本州よりも同時代の千島・樺太・沿海州と共通したところがあります。北海道南西部や東北は似たような社会を形成しましたが、それでも太平洋側・日本海側・内陸部ではやや様相が異なります。

 このように縄文時代前半において地域差が認められますが、日本列島を全体的にみると、縄文社会は東西で大きく様相が異なると言えます。落葉樹林のもと多くの人口を抱えた東日本にたいし、照葉樹林のもと西日本の社会は小規模なものにとどまりました。この西日本の社会は、東日本よりもむしろ同時代の朝鮮半島南部と共通するところが多くありました。

 定住社会の浸透した縄文前期に、地域色の豊かな社会が到来します(7000~6000年前)。この時期は、完新世の最温暖期(ヒプシサーマル)に相当します。地域に代々継承され、各地で個性豊かな土器が見られるなど、風土に根ざした文化が花開いたのがこの頃でした。物質流通のネットワークを通じたコミュニケーションの活発化が、派手な土器を含む地域色豊かな文化を育んだのでした。西日本の土器が東日本より地味なのは、人口の少なさによるコミュニケーションの停滞(東日本と比較して)が原因でした。

 このような縄文社会が平等だったのか階層的だったのかということが、現在議論されています。しかし、近年の進化生物学・動物行動学・進化心理学などが示しているのは、原始の人類社会は平等ではなかった、ということです。縄文社会の物質資料には、環状集落のように平等原理を示すものも、墓域・副葬品のように序列原理を示すものもあります。知能が進化した人類でのみ平等主義が発達し、平等原理が働いたのでしょう。また序列原理にしても、現実の不平等の合理化という側面もあります。現実の不平等に対処すべく、平等原理と序列原理との間で人類社会は複雑に揺れ動いてきたのでした。

 縄文時代後半(後期以降)になると、モニュメントの成立・土器と土偶の変容(土器が地味になり、広範囲で共通性が認められるようになります)などから推測されるように、非日常的世界観が成立します。これは、宗教がはっきりと姿を現してきた、ということでもあります。

 また縄文時代後半になると、環状集落の衰退のように、平等原理が脅かされるようになったと解釈できるような、考古資料(物質資料)の変遷も認められます。これは、耳飾りなどの装身具の発達や抜歯の流行などとも関連しており、集団全体よりも個人の違いを強調するような動きが強くなります。しかし一方で、モニュメントの発達もあり、現実においては脅かされる平等原理を、なんとか守ろうとした社会の取り組みも存在したわけです。

 こうした縄文時代後半の社会変化は、寒冷化に強く影響されています。寒冷化により、それまでの大集団の生存戦略が通用しなくなって変動的な時代が到来し、意思決定の主体が個々の集団という小さな単位に委ねられるようになりました。人口に着目すると、この社会変化は東日本の人口減と西日本の人口増をもたらしました。この一因は東日本から西日本への移住にあり、文化の共通性の発達とも関連していました。


 こうした縄文時代後半の社会変化が、弥生時代へとつながっていきますが、そこには内在的要因だけではなく外在的要因もあります。その起源は、中国の「文明」型社会にありました。「文明」型社会とは、植物管理を農耕という究極の姿まで推し進めて自然を支配し、そのための場所を占拠して侵入者を拒み、人も支配の対象とすべく武力を誇示・行使するという支配的性向を有します。日本列島において、弥生文化への移行がまず始まったのが九州だったのは、外的(地理的)条件に起因します。こうした内在的要因と外在的要因との組み合わせにより、縄文時代から先の日本列島は多様な動きを示します。

 西日本においてはすでに4000年前に、植物栽培の比重が高く簡素な什器を用いるという、中国や朝鮮との共通性の高い生活が広まっていました。西日本には、東日本からも大陸(朝鮮・中国)からも人間と文化が流入していましたが、とくに大きな影響を与えたのは、2800~2700年前(これよりもさかのぼる可能性もあります)の朝鮮半島南部からの水稲農耕の伝来でした。

 弥生時代のおもな指標は、水田・武器・環濠です。水田に必要な灌漑の設営と維持活動は、新たな指導者を生み出した可能性があります。武器と環濠の流入は、殺人のための道具製作に見られる対人観や、問題の解決に暴力を用い、またそれに備えて守りを固めようとする行動理念が、社会の軸になっていった状況を示すものです。

 このような社会は、内部においては利他主義が強く、外部にたいしては敵意を顕にする傾向が強くなります。つまり、集団の存続のために個人を犠牲にするような社会です。縄文社会と弥生社会とのもっとも根本的な違いは、支配的性向が知の根本にあるかどうか、ということです。

 縄文時代が終わり、多様化した日本列島の各地域は、それぞれ独自の道を歩みます。北海道では、弥生文化前期の代表である北部九州よりも豪華な副葬品をもつ墓が多数出現します。北海道においては、海獣や大型魚を効率的・集中的にとるという生存戦略が採用され、猟師・宗教家・他地域との交渉者といった、さまざまな能力や資質をもった有力者たちが並び立ち、それぞれの分野で奉られるヘテラルキー(多頭的階層)社会が成立しました。

 これにたいして北部九州では、戦いが社会的に大きな意味をもち、戦いを舞台に声望を得た人物が、交渉・宗教などの他の面においても威信を発揮するような、ヒエラルキー(寡頭的階層)社会が成立しました。そうした中から、須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡などにおいて、多くのムラを序列化して支配下に組み入れ、さまざまな資質・権威・職能を一身に集めた大酋長が登場しました。彼らは、中国王朝と結びついて互いに利用しあうなど、縄文時代にはなかった政治的色彩も帯びていました。

 瀬戸内・近畿・東海西部といった地域は、北部九州よりも縄文色の濃い弥生化が進展していきました。縄文時代後半の文化の画一化を経て、弥生化が進展していったこれらの地域では、やがて派手な土器の使用など縄文への回帰ともとれる現象が見られるようになり、弥生時代中期にかけて各地域で多様な文化が発達していきます。多様な地域差は副葬品にも見られ、須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡のような大酋長を思わせる墓はなかなか現れません。これは、瀬戸内・近畿・東海西部といった地域が北部九州よりも地理的条件に恵まれ、人口増加に伴う耕地の開発が長期間可能だったためと思われます。

 関東でも弥生化が進展しましたが、東海東部の影響が強かったようです。東北でも弥生化は進展しましたが、これはじょじょに進展したようで、関東よりもさらに弥生化の度合いは低かったようです。同じ頃の沖縄や奄美では、植物資源への依存度が強く、集団の大型化・序列化が顕著ではない社会が形成されました。これら南方社会は、貝の交易を通じて九州や本州とつながっていました。

 北部九州における大酋長の出現や、近畿や東海での環濠集落の大型化など、弥生文化の最盛期は、紀元前3~1世紀頃の弥生時代中期であり、これは温暖化の影響によるものでした。温暖化による資源量の増加と人口増大は定着性を強め、各地域に個性的で豊かな文化が花開きました。これは、文化が同じ場所・集団のなかで、世代間をタテ方向に強く伝わったからです(伝統)。一方、文化が地域間・集団間をヨコ方向に伝わることもあります(伝播)。こうして、文化は時間や空間を超えて変容しつつ広がっていきます。

 こうした弥生時代中期の社会を変えた要因は、鉄の普及と寒冷化でした。じゅうらいの、比較的小規模な流通圏のなかで交易をしてきたムラは、鉄の輸入のために朝鮮半島や中国王朝とも関わることになりました。鉄入手の窓口となった代表人物には、従来よりもはっきりとした地位が求められ、多言語も含めての交渉力や軍事・経済力も要求されました。ムラの住人は、こうした代表人物への依存を強めていきますが、この代表人物こそ、新たな型の酋長として後に古墳の主になっていったのでした。こうした新たな酋長の出自が前代の酋長にあるか否かは不明ですが、それぞれのムラにより事情は異なったものと思われます。

 このような変化は、北部九州では紀元前2~1世紀に進み、瀬戸内・近畿にはそれから200年ほど遅れて及びました。この変化に伴い、土器も変わっていきました。多様な地域色が薄れ、画一化が進展します。ヨコ方向の文化伝播が強まったというわけです。こうした変化の要因は、鉄の普及だけではなく寒冷化にもありました。寒冷化による農業生産への打撃が、鉄器の需要を高めたのではないかと推測されます。

 こうしたなか、岡山の楯築遺跡に巨大な墳丘墓と墓を飾る特殊器台・特殊壺が登場し、個人を顕彰して演出するような行為が流行します。楯築墳丘墓の周のムラには、楯築ほどの大きさではないにしても、同じような道具を備えた墓が築かれました。これは、相互に同列的で自律的なムラが林立した前代までとはことなり、鉄の流通の拠点となる大きなムラを頂点として、複数のムラが秩序化されたクニの誕生を意味します。

 弥生時代後期におけるこうした大きな墳丘は、岡山をのぞくと、山陰を中心として日本海側の地域が中心となります。山陰は、すでに2世紀において鉄への依存度の高い社会になっていました。鉄の需要の高い社会が、酋長の地位を外部に誇示する必要を生じさせ、巨大な墳丘が作らせたのでしょう。

 では、鉄の普及度で山陰よりも劣っていた岡山に大型の墳丘があり、早期に鉄の普及した北部九州に巨大な墳丘のない理由は何でしょうか。前者については、岡山には当初競争相手がいなかったことと、鉄の普及していない地域では鉄の価値が高いので、入手するためには酋長(鉄入手の窓口)に高い経済力と威信が必要だから、と本書で説明されています。後者については、鉄の普及度が他地域よりも高く、鉄の価値が低下したため、酋長への信服や依存度が相対的に弱まったからだ、と説明されます。

 こうした弥生時代後期において、いちはやく巨大墳丘文化を築いた山陰と岡山では、他の地域とはことなり青銅器による祭祀が廃れていきます。弥生時代後期にじゅうらいの集落が破棄された地域が多いなか、じゅうらいの集落が長く存在した近畿においても、大型墳丘文化への追随が始まります。それは、鉄への需要の高まりを受けてのことでした。西暦200年前後に奈良盆地において、唐古・鍵遺跡という巨大環濠集落が衰退し、それに替わるかのように、唐古・鍵の10倍の面積にもなる纏向遺跡という巨大なムラが出現します。

 纏向の周囲には、前方後円形や前方後方形の大きな墳丘墓が築かれていました。前方後円形の墳丘墓は、短期間のうちに九州から東北南部まで広がりますが、地域によって細かな形態がことなり、箸墓以降の巨大古墳とは違って、墳丘の厳密な形式が各地に伝わったのではなさそうです。前方後円形の墳丘墓は、二方向に突出部のあった楯築よりも、人々の行為や視線をより統制することになりました。

 このような巨大な纏向遺跡の特徴は、各地の土器が出土することです。この時代の土器の分布から推測される日本列島における人の動きには、三類型が想定されます。一つ目は、纏向に代表される近畿のように出入りともに盛んなところです。二つ目は、九州のように流入は盛んでも流出の少ないところです。三つ目は、岐阜・愛知のように流出は多いけど流入は少ないところです。これらを総合的に判断すると、人と物の流れの中心は纏向ということになりそうです。

 纏向が中核的な地位を占めるにいたったのは、九州から関東・東北までの人と物の流れが活発になるなかで、奈良盆地が中央の大交差点的地位にあったからだと思われます。また、こうした人と物の流れの活発化の要因は、寒冷化による新たな生存戦略の模索にあったのではないか、と推測されます。このような人と物の流れの活発化は、石から鉄への全面的な移行・墳丘墓の広域展開などといった、物質文化の画一化へと動く力を強めました。


 こうした社会変化を受けて、巨大古墳の築かれる古墳時代が到来します。最初の巨大古墳は、纏向遺跡の南端に3世紀中ごろに築かれた、箸墓と呼ばれる前方後円墳です。箸墓古墳は、じゅうらいの巨大墳丘墓とは隔絶した規模を有しただけではなく、箸墓と相似形で規模が縮小された前方後円墳が各地に出現するという点でも、時代を画するものでした。

 箸墓古墳の被葬者は、各地の巨大墳丘墓に葬られてきた大酋長たちの上に立つ代表者として祭り上げられた存在だと思われます。鉄を軸とする外部の諸物資の入手にあたって、競争的関係にあった各地の大酋長たちは、利害を調整し物資獲得のため共同活動を営むさいの旗印となる人物を、共同で擁立するにいたったと思われます。この人物こそ、外部の社会からも倭王とみなされる存在だったのでしょう。

 もっとも、古墳時代前期においては、弥生時代以来の大型墳丘墓の系統も引き続き築かれました。しかし、4世紀の後半にはこうした在地的酋長墓は衰えはじめ、近畿の巨大前方後円墳を再現する動きが各地で高まります。鉄や威信財となる先進物を入手するには、倭王を旗印にするほうが有利と考える酋長が増えたのでしょう。墳丘墓に多くの富と労力をつぎ込む動きは、同時代の中国東北部から朝鮮半島にも見られます。これは、寒冷化により人々の流動が激しくなるなか、物資獲得をめぐる酋長たちの競争が、東アジア全体で強まったという事情もあるのでしょう。

 こうした東アジア社会全体の連動は、朝鮮半島で墳墓の発達が頂点した4世紀後半~5世紀前半にかけて、日本列島の古墳も巨大化していったこと(関東や岡山など)にも窺われます。4世紀の間は、墳長280mの箸墓古墳が基準になっていたためか、300mを大きく超えないものが奈良盆地に築かれていたのですが、朝鮮半島にやや遅れて5世紀前半から中ごろにかけて、墳長が365mの陵山古墳・420mの誉田御廟山古墳・486mの大山古墳が相次いで大阪府に築かれます。

 古墳はモニュメントとしての性格を有しますが、このようなモニュメントは、ていどの差はあれども歴史上どのような社会でも認められます。ただそれらのなかでも、エジプトやマヤのピラミッドなどのように格別のものがあることに注意が必要です。これらは、形態・質感・色彩とも自然界にはない姿を人工的につくりだすことにより、それまでにない視覚的効果を企図して美的表現を盛り込んだ構造物でした。モニュメントのなかでもとくにこのような性質を帯びたものを、美的モニュメントと呼びます。

 箸墓に始まる巨大前方後円墳や、それに準じる前方後方墳も、美的モニュメントに含まれます(築造当時の古墳は、小さな山か小高い丘のような現在の外観とは異なり、人工的な外観でした)。美的モニュメントがもっともさかんに築かれる社会は、文字をもたないか文字が本格的に使用され始める直前の「文明」型社会です。このような巨大モニュメントは、社会の矛盾を調整する役割を担っています。こうした美的モニュメントは、上位の人の偉さを演出し、下位の人の不満を麻痺させる合理化を行なったのでした。

 日本列島で古墳が巨大化した理由としては三つ挙げられます。
(1)物資入手のための枠組みである集団が肥大化し、王や酋長を頂点とした集団間・個人どうしの序列がより大きく・複雑になり、社会の調整的役割としての美的モニュメントが必要とされました。
(2)ムラの同質性が比較的遅くまで維持された近畿社会が日本列島社会の中心になり、そこに日本列島最大の美的モニュメントが築かれるようになりました。縄文時代以来の、集団の一体性・共同性という性格が遅くまで残った地域において、美的モニュメントたる古墳を作ろうとした結果、膨大な労働力が集中して古墳が巨大化したものと推測されます。
(3)集団性とも密接に関わりますが、技術の質の問題があります。たとえば高句麗の墳墓は、日本と比較すると小型ですが、技術はかなり高度です。これにたいして、日本列島の巨大古墳の築造技術は比較的低水準であり、単純労働の集積の結果です。日本列島の巨大古墳は、いわば質より量といった性格を有し、古墳築造自体が、祭りとしての意味合いも有した集団労働となりました。

 このような古墳時代において、4世紀になると土器の地域色が薄れてきて、人の動きが見えにくくなります。これは、纏向や吉備の津寺など、前代までのじゅうような流通の拠点が4世紀後半には衰退することから、人と物の流れに大きな変化が生じたためではないか、と思われます。5世紀になると、朝鮮半島由来の物資や技術が目立つようになりますから、日本列島内の相互交流よりも、むしろ朝鮮半島との交流のほうが密になった状況がうかがえます。

 朝鮮半島との交流が密になったこともあり、鉄などの必要な物資の需要も満たされるようになりました。その結果として、鉄などの物資の価値は下がってしまい、そうした物資の入手の窓口となった王・酋長への依存度は低下していきました。これが、5世紀中ごろの大山古墳を頂点として、前方後円墳の規模が縮小していく要因の一つとなりました。古墳は、集団のモニュメントから一族の墓としての性格を強めていきます。こうした傾向は朝鮮半島でも認められ、朝鮮半島から日本列島への文化の流入もあり、5~6世紀にかけて、朝鮮半島と日本列島との間で相似化や相同化が進みました。

 巨大古墳のような美的モニュメントの衰退には、文字の普及も関係していました。日本列島での文字使用の証拠がはっきりと現れるのは5世紀になってからで、7世紀には支配層のなかでほぼ全面的に文字が使用されていましたから、日本列島での文字普及の画期となったのは6世紀です。美的モニュメントは、じっさいに造営に参加したり目にしたりしなければ、その威信を表示することが困難ですが、文字はそうした限界を打ち破り、広範囲に伝えることが可能となります。

 古墳の衰退は、倭王や各地の酋長の威信の由来や支配の論理が、美的モニュメントではなく、文字を用いた神話・制度・法典によって社会組織のなかに埋め込まれるようになったからでした。古墳の衰退後も、仏教寺院などモニュメント的要素の建造物がなくなるわけではありませんが、それは言葉を「絵解き」的に補助する役割としてのことであり、文字以前の美的モニュメントのような、社会全体をまとめる機能は低下していきます。

 もっとも、いわゆる律令国家の成立初期に、日本列島において文字に根ざした社会が定着したのは九州から東北南部までであり、その他の社会は前文字社会として残ります。これらの地域は、前方後円墳が造られなかった地域と重なりますが、それぞれ日本列島外の地域と密接な関係を有しており、それが文字社会に容易に移行しなかった一因かもしれません。



 以上、本書の見解について見てきました。一貫した方法論で日本列島の4万年を描くという本書の試みは、基本的には成功したように思われます。もっとも、その分やや類型化・理念化がすぎ、多くの事柄が捨象されたようにも思われます。しかし、一人の執筆になる時代史としては、一つのありようを示したものだと言えそうです。否定するか肯定するかは別にして、今後縄文~古墳時代までの一般向け時代史を執筆する研究者に、本書は大きな影響を与えることになるのではないでしょうか。

この記事へのコメント

大和島根
2008年10月31日 20:58
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸で四隅突出墳丘墓
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と
安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと
考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
 西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記されたイザナミの神陵があるので神話との関係にも興味がわいてきます。
2008年11月01日 01:10
籔田紘一郎『ヤマト王権の誕生』については知りませんでした。

機会があれば読んでみようと考えています。

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