河合信和『ホモ・サピエンスの誕生』
『市民の考古学』第三巻として、同成社より2007年11月に刊行されました。現生人類(ホモ=サピエンス)の起源をめぐる諸問題について、河合氏の著書が刊行されればいいなと思っていたところ、本書の刊行を知りました。私にとってはまさに待望の一冊であり、さっそく購入してじっくりと読みました。
もっとも、本書の題名は『ホモ・サピエンスの誕生』となっていますが、現生人類の起源だけではなく、人類の誕生にまでさかのぼって近年の発見と研究が紹介されています。また、近年大きな話題を呼んだホモ=フロレシエンシスについても、1章割かれています。以下、本書において気になった見解を取り上げつつ、感想を述べていくことにします。
まずは最古の人類についての問題です。この7年ほどの間に、最古の人類をめぐる見解は劇的に変わりました。本書でも述べられていますが、最古の人類候補の化石が700万~600万年前頃までさかのぼることになったため、じゅうらいの分子生物学で推測されていた、500万年前頃の人類の誕生(人類の系統とチンパンジーの系統との分岐)という年代観とにずれが生じました。
しかし本書では、人類誕生についての分子生物学からの新たな年代観(760万~580万年前頃)が提示され、分子生物学と化石の年代が整合的である可能性が指摘されています。また本書では、今年8月24日分の記事でも紹介したように、ゴリラが人類・チンパンジーとの共通祖先から分岐した年代が、これまでよりも200万年以上さかのぼる可能性がでてきたので、人類とチンパンジーとの分岐年代が、1000万~700万年前頃まで繰り上がる可能性も指摘されています。
最古の人類をめぐる発見競争については、今年9月6日分の記事でも紹介しましたが、河合氏訳の『最初のヒト』に詳しく紹介されています。もちろん本書では、最古の人類候補の化石群について、『最初のヒト』ほど詳しく述べられているわけではありませんが、重要な情報が簡潔にまとめられていて、なかなかよいと思います。これは深く理解していないと無理なことであり、私もそのように的確な文章が書けるよう勉強しなければならない、と改めて思い知らされました。
本書の主題である現生人類をめぐる問題についてですが、現生人類の起源地についてはアフリカ単一起源説が主張されており、現生人類とネアンデルタール人のようなユーラシアの先住ホモ属との間の混血については、否定的な見解が提示されています。もっとも、今年11月9日分の記事でも述べたように、私は限定的な混血があったと考えています。
現在活発に議論されている現代的行動の起源については、今年10月24日分の記事などで紹介したクライン博士の見解が否定され、アフリカの中期石器時代における行動の現代性が指摘されていますが、私も同意します。ただ、今年11月2日分の記事で紹介したポール=メラーズ博士の論文でも指摘されているように、本書においても、中期石器時代における現代的行動性の発現がモザイク状であることが指摘されています。さらに、中期石器文化の発展自体も一様ではなくモザイク状であり、先行するアシュール文化との並行期間があったことが指摘されています。こうした指摘を読むと、人類進化を単純に図式化することの危険性を再認識させられます。
ネアンデルタール人の評価についてはやや詳しく述べられています。ネアンデルタール人の知的能力がどのていどのものだったのか、現生人類と比較してどうだったのかということが、根拠となる研究を引用しつつ論じられています。シャテルペロン文化の評価についてやや詳しく紹介されており、今までの私の知識に曖昧なところがあったのが確認できたのは、本書を読んでの私の一番の収穫でした。
昨年12月27日分の記事でも述べたように、本書でも近年のネアンデルタール人「復権」・「見直し」の動きが紹介されています。その一例が、ネアンデルタール人を死肉漁り屋ではなく精悍な狩猟者として解釈しよう、との動向です。ネアンデルタール人は鳥も狩猟していた可能性があるとの研究が紹介されていて(P124~125)、恥ずかしながら私はこのことを知りませんでした。
鳥の狩猟となると、飛び道具が使われた可能性がありますが、河合氏は弓矢を使用した可能性にも言及しています。ネアンデルタール人がじっさいに弓矢を使ったかどうかは分かりませんが、私は本書を読むまで、ネアンデルタール人と弓矢とをまったく結びつけていなかっただけに、強く印象に残った記述となりました。
ネアンデルタール人と現生人類との違いを推測するうえで、重要な手がかりとなるのがシャテルペロン文化にたいする評価です。個人用装身具(と思われる遺物)が出土するなど、上部旧石器的な文化であるシャテルペロン文化(本書では上部旧石器文化と断言されています)がネアンデルタール人の所産だと判明してからというもの、この文化にたいする評価は揺れ動いてきました。
現生人類のアフリカ単一起源説が優勢となって以降、絶滅理由を説明しやすいということもあって、ネアンデルタール人の知的能力を低く評価する見解が主流となりました。そのためシャテルペロン文化については、ネアンデルタール人が現生人類の模倣をしたとか、ネアンデルタール人が現生人類の廃棄した遺物を拾い集めただけだとか、ネアンデルタール人が現生人類との交易で入手しただけだとか言われていました。こうした見解では、しばしば「その象徴的意味も理解できずに」という意味合いが込められています。
ネアンデルタール人を低く評価する見解においては、さらに単純に、現生人類の所産である上部旧石器文化層からの嵌入である、と主張されることもありました。しかし一方で、ネアンデルタール人がシャテルペロン文化を独自に発展させたとの見解もあり、本書ではフランチェスコ=デリコ博士などの研究がやや詳しく紹介されています。
デリコ博士の見解には説得力があり、シャテルペロン文化における個人用装身具については、ネアンデルタール人がじっさいに製作していた可能性が高いだろうと思います。ただ、現生人類の影響があったか否かについては、本書でもデリコ博士への反論が紹介されていて、現時点では断言の難しいところです。
デリコ博士は、シャテルペロン文化層はかならずオーリニャック文化層(近年になって現生人類の所産かどうか疑問が呈されましたが、現生人類の所産である可能性が高いでしょう)の下に位置するので(つまり、シャテルペロン文化のほうがオーリニャック文化よりも古いということです)、シャテルペロン文化はネアンデルタール人独自の所産と主張しているのですが、シャテルペロン文化層の間にごく薄いオーリニャック文化層が挟まっている、との指摘がなされました。
これにたいして、昨年8月29日分の記事でも紹介したように、シャテルペロン文化層のオーリニャック文化の遺物は嵌入だとの反論がなされています。しかし、今年2月27日分の記事で紹介したように、さらに再反論が提示されています。どちらの見解が妥当なのか、現時点では判断の難しいところです。
シャテルペロン文化と似たネアンデルタール人の文化としては、イタリアのウルツォ文化とハンガリーのセレタ文化があります。デリコ博士によると、ウルツォ文化にはオーリニャック文化の影響はないとのことですが、そうすると、シャテルペロン文化もセレタ文化もネアンデルタール人が独自に発展させたのかもしれません。しかし、ネアンデルタール人が現生人類と接触し、その影響を受けてこれらの文化を発展させた可能性も否定できないでしょう。
どちらにしても、似たような遺物を残しているからといって、同じような思考・観念や知的能力があったとは限りません。とはいっても、ネアンデルタール人が現生人類よりも象徴的思考能力で劣っていた、と性急に結論をくだすべきだということではありません。また、ある種の遺物・痕跡がないからといって、それに関連した能力がないと決めつけることもできないでしょう。文化と生物学的潜在能力とは、安易に関連づけるべきではないだろうと思います。
本書は、古人類学にたいする深い見識をもとに、簡潔にわかりやすく人類史の要点が述べられており、良書と言えるでしょう。ただ、古人類学にまったく関心のなかった人が読むには、敷居が高いように思います。その意味では、参考文献はすべて掲載すべきだったかな、とも思います。私の見解は、河合氏のそれと全面的に一致するわけではありませんが、基本的には同意できる内容でした。河合氏の見識にはとうてい及ばない私ですが、いつかは本書のような水準の文章を執筆できるよう、勉強を続けていきたいものです。
もっとも、本書の題名は『ホモ・サピエンスの誕生』となっていますが、現生人類の起源だけではなく、人類の誕生にまでさかのぼって近年の発見と研究が紹介されています。また、近年大きな話題を呼んだホモ=フロレシエンシスについても、1章割かれています。以下、本書において気になった見解を取り上げつつ、感想を述べていくことにします。
まずは最古の人類についての問題です。この7年ほどの間に、最古の人類をめぐる見解は劇的に変わりました。本書でも述べられていますが、最古の人類候補の化石が700万~600万年前頃までさかのぼることになったため、じゅうらいの分子生物学で推測されていた、500万年前頃の人類の誕生(人類の系統とチンパンジーの系統との分岐)という年代観とにずれが生じました。
しかし本書では、人類誕生についての分子生物学からの新たな年代観(760万~580万年前頃)が提示され、分子生物学と化石の年代が整合的である可能性が指摘されています。また本書では、今年8月24日分の記事でも紹介したように、ゴリラが人類・チンパンジーとの共通祖先から分岐した年代が、これまでよりも200万年以上さかのぼる可能性がでてきたので、人類とチンパンジーとの分岐年代が、1000万~700万年前頃まで繰り上がる可能性も指摘されています。
最古の人類をめぐる発見競争については、今年9月6日分の記事でも紹介しましたが、河合氏訳の『最初のヒト』に詳しく紹介されています。もちろん本書では、最古の人類候補の化石群について、『最初のヒト』ほど詳しく述べられているわけではありませんが、重要な情報が簡潔にまとめられていて、なかなかよいと思います。これは深く理解していないと無理なことであり、私もそのように的確な文章が書けるよう勉強しなければならない、と改めて思い知らされました。
本書の主題である現生人類をめぐる問題についてですが、現生人類の起源地についてはアフリカ単一起源説が主張されており、現生人類とネアンデルタール人のようなユーラシアの先住ホモ属との間の混血については、否定的な見解が提示されています。もっとも、今年11月9日分の記事でも述べたように、私は限定的な混血があったと考えています。
現在活発に議論されている現代的行動の起源については、今年10月24日分の記事などで紹介したクライン博士の見解が否定され、アフリカの中期石器時代における行動の現代性が指摘されていますが、私も同意します。ただ、今年11月2日分の記事で紹介したポール=メラーズ博士の論文でも指摘されているように、本書においても、中期石器時代における現代的行動性の発現がモザイク状であることが指摘されています。さらに、中期石器文化の発展自体も一様ではなくモザイク状であり、先行するアシュール文化との並行期間があったことが指摘されています。こうした指摘を読むと、人類進化を単純に図式化することの危険性を再認識させられます。
ネアンデルタール人の評価についてはやや詳しく述べられています。ネアンデルタール人の知的能力がどのていどのものだったのか、現生人類と比較してどうだったのかということが、根拠となる研究を引用しつつ論じられています。シャテルペロン文化の評価についてやや詳しく紹介されており、今までの私の知識に曖昧なところがあったのが確認できたのは、本書を読んでの私の一番の収穫でした。
昨年12月27日分の記事でも述べたように、本書でも近年のネアンデルタール人「復権」・「見直し」の動きが紹介されています。その一例が、ネアンデルタール人を死肉漁り屋ではなく精悍な狩猟者として解釈しよう、との動向です。ネアンデルタール人は鳥も狩猟していた可能性があるとの研究が紹介されていて(P124~125)、恥ずかしながら私はこのことを知りませんでした。
鳥の狩猟となると、飛び道具が使われた可能性がありますが、河合氏は弓矢を使用した可能性にも言及しています。ネアンデルタール人がじっさいに弓矢を使ったかどうかは分かりませんが、私は本書を読むまで、ネアンデルタール人と弓矢とをまったく結びつけていなかっただけに、強く印象に残った記述となりました。
ネアンデルタール人と現生人類との違いを推測するうえで、重要な手がかりとなるのがシャテルペロン文化にたいする評価です。個人用装身具(と思われる遺物)が出土するなど、上部旧石器的な文化であるシャテルペロン文化(本書では上部旧石器文化と断言されています)がネアンデルタール人の所産だと判明してからというもの、この文化にたいする評価は揺れ動いてきました。
現生人類のアフリカ単一起源説が優勢となって以降、絶滅理由を説明しやすいということもあって、ネアンデルタール人の知的能力を低く評価する見解が主流となりました。そのためシャテルペロン文化については、ネアンデルタール人が現生人類の模倣をしたとか、ネアンデルタール人が現生人類の廃棄した遺物を拾い集めただけだとか、ネアンデルタール人が現生人類との交易で入手しただけだとか言われていました。こうした見解では、しばしば「その象徴的意味も理解できずに」という意味合いが込められています。
ネアンデルタール人を低く評価する見解においては、さらに単純に、現生人類の所産である上部旧石器文化層からの嵌入である、と主張されることもありました。しかし一方で、ネアンデルタール人がシャテルペロン文化を独自に発展させたとの見解もあり、本書ではフランチェスコ=デリコ博士などの研究がやや詳しく紹介されています。
デリコ博士の見解には説得力があり、シャテルペロン文化における個人用装身具については、ネアンデルタール人がじっさいに製作していた可能性が高いだろうと思います。ただ、現生人類の影響があったか否かについては、本書でもデリコ博士への反論が紹介されていて、現時点では断言の難しいところです。
デリコ博士は、シャテルペロン文化層はかならずオーリニャック文化層(近年になって現生人類の所産かどうか疑問が呈されましたが、現生人類の所産である可能性が高いでしょう)の下に位置するので(つまり、シャテルペロン文化のほうがオーリニャック文化よりも古いということです)、シャテルペロン文化はネアンデルタール人独自の所産と主張しているのですが、シャテルペロン文化層の間にごく薄いオーリニャック文化層が挟まっている、との指摘がなされました。
これにたいして、昨年8月29日分の記事でも紹介したように、シャテルペロン文化層のオーリニャック文化の遺物は嵌入だとの反論がなされています。しかし、今年2月27日分の記事で紹介したように、さらに再反論が提示されています。どちらの見解が妥当なのか、現時点では判断の難しいところです。
シャテルペロン文化と似たネアンデルタール人の文化としては、イタリアのウルツォ文化とハンガリーのセレタ文化があります。デリコ博士によると、ウルツォ文化にはオーリニャック文化の影響はないとのことですが、そうすると、シャテルペロン文化もセレタ文化もネアンデルタール人が独自に発展させたのかもしれません。しかし、ネアンデルタール人が現生人類と接触し、その影響を受けてこれらの文化を発展させた可能性も否定できないでしょう。
どちらにしても、似たような遺物を残しているからといって、同じような思考・観念や知的能力があったとは限りません。とはいっても、ネアンデルタール人が現生人類よりも象徴的思考能力で劣っていた、と性急に結論をくだすべきだということではありません。また、ある種の遺物・痕跡がないからといって、それに関連した能力がないと決めつけることもできないでしょう。文化と生物学的潜在能力とは、安易に関連づけるべきではないだろうと思います。
本書は、古人類学にたいする深い見識をもとに、簡潔にわかりやすく人類史の要点が述べられており、良書と言えるでしょう。ただ、古人類学にまったく関心のなかった人が読むには、敷居が高いように思います。その意味では、参考文献はすべて掲載すべきだったかな、とも思います。私の見解は、河合氏のそれと全面的に一致するわけではありませんが、基本的には同意できる内容でした。河合氏の見識にはとうてい及ばない私ですが、いつかは本書のような水準の文章を執筆できるよう、勉強を続けていきたいものです。
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