ニコラス=ウェイド『5万年前 このとき人類の壮大な旅が始まった』

 沼尻由紀子訳・安田喜憲監修で、イースト・プレスより2007年9月に刊行されました。遺伝学の成果をおもな根拠として、考古学・言語学・形質人類学などの成果も取り入れつつ、現生人類の誕生と拡散、さらには拡散後の現生人類の様相が描かれています。

 原書の刊行は2006年で、今年9月19日分の記事で紹介した、似た主題の『人類の足跡10万年全史』よりも原書の刊行が後になるので、その分新しいデータも取り入れられた内容になっています。安田喜憲氏の監修という点がやや不安だったのですが、本文以外では訳者の後書きが2ページあるだけだったので、この点では私の不安は杞憂に終わりました。


 本書も『人類の足跡10万年全史』と同様に、現生人類アフリカ単一起源説を採用し、現生人類の出アフリカは1回だけだったとしています。ただ、本書では出アフリカの年代は5万年前頃とされており、8万5千年前頃とした『人類の足跡10万年全史』とは異なります。

 これは、5万年前頃に現生人類(解剖学的現代人)に神経系の突然変異が起き、象徴的思考や現代人のような複雑な言語活動が可能になるなど、現生人類の認知能力が飛躍的に向上し、現生人類(解剖学的現代人)は真の現生人類(行動学的現代人)となり、急速に発展して世界各地に拡散していったのだ、とする「創造の爆発論」に本書が依拠しているためです。

 「創造の爆発論」では、5万年前頃に解剖学的現代人から行動学的現代人へと進化してはじめて、現生人類は世界各地に進出できたのだ、とされます。そのため、6万年前頃にさかのぼるとされるオーストラリアの遺跡は都合が悪かったのですが、本書では、オーストラリアの遺跡の新たな年代測定(5万年前以降とされました)を引用し、5万年前頃の現生人類の出アフリカ説が支持されています。

 「創造の爆発論」に都合の悪い証拠としては、近年になって増加しつつある、中期石器時代における象徴的思考を示唆するアフリカの遺物(南アフリカのブロンボス洞窟の線刻オーカーなど)がありますが(レヴァントでも中部旧石器時代の貝製ビーズが確認されました)、本書では、そうした遺物は散発的であり、それらが示唆する現代的な行動もはっきり確認できず、後世の遺物の嵌入の可能性もあるというクライン博士の指摘が引用され、「創造の爆発論」を前提として記述が進められています。

 本書の人種にかんする記述や、欧州の旧石器時代の洞窟壁画と、脳の大きさを調節する遺伝子として知られる“microcephalin”とを結びつけている記述(“microcephalin”についての研究は、昨年11月9日分の記事で紹介しました)からも明らかですが、著者は文化的「発展」と遺伝子の変化(進化)とを関連づける傾向が強く、本書において、「創造の爆発論」を前提として現生人類拡散の様相が描かれているのは、当然だと言えます。

 しかし、文化的「発展」は自然環境や社会状態なども関連した総合的な出来事と言うべきであり、複数の遺伝子が関わっていると思われることからも、文化的「発展」の要因を特定の遺伝子と安易に結びつけるのは危険でしょう。このブログでもたびたび述べてきましたが、「創造の爆発論」を否定するような証拠がしだいに増えてきており、「創造の爆発論」はそのうち捨て去られることになる、と私は予想しています。


 人種についての本書の記述も気になるところですが、私は人種問題について勉強不足ですので、今回は触れないことにします。本書において文化と遺伝子に関する記述以外で気になったのは、定住生活(本書でも述べられていますが、定住生活は農耕開始前にさかのぼるという見解が現在有力です)の始まる前まで人類はひじょうに好戦的だった、という大前提のもとで記述が進められている点です。

 その根拠として本書では、採集狩猟民など現代の「未開民族」についての人類学の研究成果や、霊長類学の研究成果が引用されているのですが、現代の採集狩猟民から旧石器時代の採集狩猟民を推測するのはかなり危険と言うべきでしょう(この懸念については、本書でも一応指摘されてはいますが)。

 農耕の行なわれていない旧石器時代の人口密度は低く、現在は農業が行なわれている土地も、採集狩猟民が利用できました。そのような時代の採集狩猟民の社会と、現代の採集狩猟民の社会とを同一視するのはたいへん危険でしょう。ましてや、農耕を行なっている「未開民族」の社会ともなると、旧石器時代の人類社会とはかなり異なっている可能性が高いだろうと思います。

 また本書では、旧石器時代の人類社会は自由で平等だったとされていますが、ロシアの上部旧石器時代のスンギール遺跡の豪華な副葬品などを見ると、旧石器時代の人類社会が、新石器時代以降の人類社会と比較して、本当に自由で平等と言えるのか、疑問です。


 本書については、その他にも疑問点があるのですが、そこまで熱心に述べるほどの魅力も感じなかったので、ここまでにしておきます。人類の進化は今でも続いているという見解など、本書には見るべきところも少なからずありますが、上述したような疑問点があり、現生人類の起源や拡散について述べた一般向け書籍としては、問題の書と言うべきだと思います。似た主題の一般向け書籍としては、本書よりも前の刊行となりますが、『人類の足跡10万年全史』のほうがお勧めだというのが私の結論です。

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