400年前の韓流?(東京新聞社説より)
4月15日の東京新聞の社説「週のはじめに考える 四百年前の『韓流』」には考えさせられるものがありました。この社説は、明石書店より2000年に刊行された、日本語訳『国定韓国高等学校歴史教科書』などに見られる、韓国の一般的な歴史認識とも通ずるところが多分にあります。次に、同書から朝鮮通信使に関する記述を引用します(青字の箇所)。
壬申倭乱をきっかけに朝鮮と日本の外交関係は断絶していた。したがって、日本は経済的に困難に陥った。ために戦後成立した日本の徳川幕府は、先進文物を受け入れるために、対馬当主をとおして交渉を許可するように朝鮮に懇請した。朝鮮では日本が犯した誤りを恨みながらも、建国以来の交隣政策の原則に照らし、制限された範囲内での交渉を許した(1609年、己酉約条)。そうして富山浦に再び倭館が設置され、そこで日本人は米、木綿、人参などを求めていった。
また、日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。これに対し、朝鮮では通信使を派遣したが、その一行はおよそ400余人になり、国賓として待遇を受けた。日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった。したがって、通信使は外交使節としてだけでなく、朝鮮の先進文化を日本に伝播する役割も果たした。
この後、竹島問題に関わる記述が続きますが、省略します。ここまであからさまな自国優位の物語を開陳されると、呆れるというよりもかえって清々しい気にさえなりますが、日本でこんな感じの物語を教科書などで述べたら、自国の民族主義には過敏な日本の「良心派」が激怒し、ただちに大々的な糾弾活動を行なうことでしょう。
しかし、そうした日本の「良心派」が韓国の強烈な自国中心主義派と結託していることは少なくなく、私にはじつに醜悪な結合に見えます。そうした日本の「良心派」の根底には、遅れた韓国を啓蒙してやろうという、帝国主義の時代の考えと通ずるものがあるように思われ、それはこの東京新聞の社説の筆者にもあるのでしょう。
現生人類が「歴史の真実」や「客観的な歴史」にたどりつけるとは思いませんし、そもそも現生人類の社会は無数の虚構・約束事がなければ成立しませんが、だからといって、都合のよい歴史像を創り上げて何かの目的のために利用するというのは感心しません。日韓の間の平和的な関係は、確かにほとんどの日本人にとっては必要ですが、その構築にあたって客観性を無視した歴史物語を利用するというのでは、かつての皇国史観や唯物史観の政治的利用と変わりないでしょう。
この社説には、朝鮮通信使は学校でも教えられているだろう(少なくとも、私が使用していた高校用日本史教科書には太字で記載)とか、「世界史にまれな使節団」という評価は妥当なのか、朝鮮通信使にはかなり暗い側面があったのではないか(朝鮮側の偏見に起因するさまざまな摩擦)、といったさまざまな疑問がありますが、ここでは、朝鮮が日本にたいして文化的優位にあった、との認識についてちょっと雑感を述べることにします。
なるほど、当時の通信使一行、つまり朝鮮の知識人が日本文化を見下していたのは間違いありません。それは、彼らの文化の定義、つまり漢詩文を最高峰とする価値体系からすると、あるいは妥当なのかもしれません(私は不勉強で、近世思想史に疎いものですから、断言はせず保留扱いとしておきますが)。
すべての歴史は現代史であるとはいえ、現代の価値観を安易に過去に投影して解釈してしまえば、それはもはや歴史ではなく信仰告白と言うべきで、過去の価値観に迫る努力を怠ってはなりませんが、だからといって、過去の価値観をそのまま引き写してしまったら、それも歴史とは言えないでしょう。
そもそも、安易に文化的優位という表現を用いるのにも感心しませんが、現代の社説において文化の優劣を判定するならば、現代的価値観からは文化の一部にすぎない漢詩文という分野の優劣(前述した通り、この分野について、私自身の現時点での優劣の判断は保留しておきますが)、しかも当時の知識人の判断にすぎないものをそのまま採用するのはどうかと思われます。
通信使一行の中には、金仁謙のように、日本を見下しつつも、その繁栄に驚き、日本を朝鮮の国土にしたいと述べている者いました。自分たちより劣等であるべきはずの日本人という、当時の(今でも?)朝鮮知識人にとっての価値体系・物語と齟齬する現実にたいして、戸惑い屈辱を感じつつも、精神の安定を得ようとの内的葛藤も見受けられます。
こうしたことは江戸時代だけのことではなく、すでに室町時代において、通信使として来日した朝鮮の朴瑞生は、日本社会の先進的側面(もちろん、先進的と表記したのは、現代的というか私の価値観に基づくのですが)を見習うべきだと提言していました。もちろん、こうした記述も当時の社会の一面をとらえたものにすぎませんが、おそらく現代的価値観から総合的に判断すれば、少なくとも朝鮮王朝の成立以降、朝鮮が日本にたいして文化的優位にあったとの言説は、幻想である可能性がひじょうに高いだろうと思います。
前近代における朝鮮の日本にたいする文化的優越、日本の教師としての朝鮮との言説は、ほとんどの韓国人にとっては自明の「歴史的事実」なのでしょうが、非韓国人の一人である私からすると、それはたんなる願望にすぎません。しかし、それが韓国社会を成立させている一要素(重要ではありますが)であるところの歴史認識(物語・虚構・約束事)の一つであることは否定できず、私も含めて多くの日本人にとっては不快なことでしょうが、それが韓国社会の内部にとどまっているかぎりは、外部から訂正を強制できる問題ではないと思います。しかし、それが韓国の外に向かって発信されるようであれば、批判の声をあげていく必要があるだろうとは思います。
もちろん、この社説の執筆者のように、日本人がこのような物語を韓国人と共有(しようと)すること、さらには共有した(と錯覚した)結果による認識に基づく言論活動は自由であり、日本においてそのようなことが容認されているのは、ある意味では現代日本社会の自由・寛容さの証として誇ってもよいものかもしれませんが、日韓友好という大義のために、朝鮮通信使にまつわる物語を利用して日本社会に向けて発信する行為にたいしては、批判の声をあげていこうと思います。
歴史認識の共有は、あるいは部分的には可能かもしれませんが、基本的には同じような文化的背景で育った者同士でも困難であり、ましてやことなった文化的背景で育った者同士では、ほとんど不可能でしょう。もっとも、どちらか一方が相手の主張に屈服し、信仰するようになれば、かなりの程度の共有は可能でしょうが。重要なのは、歴史認識の共有ではなく、相手の歴史認識を知り、自分のそれとの違いを確認することだと思います。
壬申倭乱をきっかけに朝鮮と日本の外交関係は断絶していた。したがって、日本は経済的に困難に陥った。ために戦後成立した日本の徳川幕府は、先進文物を受け入れるために、対馬当主をとおして交渉を許可するように朝鮮に懇請した。朝鮮では日本が犯した誤りを恨みながらも、建国以来の交隣政策の原則に照らし、制限された範囲内での交渉を許した(1609年、己酉約条)。そうして富山浦に再び倭館が設置され、そこで日本人は米、木綿、人参などを求めていった。
また、日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。これに対し、朝鮮では通信使を派遣したが、その一行はおよそ400余人になり、国賓として待遇を受けた。日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった。したがって、通信使は外交使節としてだけでなく、朝鮮の先進文化を日本に伝播する役割も果たした。
この後、竹島問題に関わる記述が続きますが、省略します。ここまであからさまな自国優位の物語を開陳されると、呆れるというよりもかえって清々しい気にさえなりますが、日本でこんな感じの物語を教科書などで述べたら、自国の民族主義には過敏な日本の「良心派」が激怒し、ただちに大々的な糾弾活動を行なうことでしょう。
しかし、そうした日本の「良心派」が韓国の強烈な自国中心主義派と結託していることは少なくなく、私にはじつに醜悪な結合に見えます。そうした日本の「良心派」の根底には、遅れた韓国を啓蒙してやろうという、帝国主義の時代の考えと通ずるものがあるように思われ、それはこの東京新聞の社説の筆者にもあるのでしょう。
現生人類が「歴史の真実」や「客観的な歴史」にたどりつけるとは思いませんし、そもそも現生人類の社会は無数の虚構・約束事がなければ成立しませんが、だからといって、都合のよい歴史像を創り上げて何かの目的のために利用するというのは感心しません。日韓の間の平和的な関係は、確かにほとんどの日本人にとっては必要ですが、その構築にあたって客観性を無視した歴史物語を利用するというのでは、かつての皇国史観や唯物史観の政治的利用と変わりないでしょう。
この社説には、朝鮮通信使は学校でも教えられているだろう(少なくとも、私が使用していた高校用日本史教科書には太字で記載)とか、「世界史にまれな使節団」という評価は妥当なのか、朝鮮通信使にはかなり暗い側面があったのではないか(朝鮮側の偏見に起因するさまざまな摩擦)、といったさまざまな疑問がありますが、ここでは、朝鮮が日本にたいして文化的優位にあった、との認識についてちょっと雑感を述べることにします。
なるほど、当時の通信使一行、つまり朝鮮の知識人が日本文化を見下していたのは間違いありません。それは、彼らの文化の定義、つまり漢詩文を最高峰とする価値体系からすると、あるいは妥当なのかもしれません(私は不勉強で、近世思想史に疎いものですから、断言はせず保留扱いとしておきますが)。
すべての歴史は現代史であるとはいえ、現代の価値観を安易に過去に投影して解釈してしまえば、それはもはや歴史ではなく信仰告白と言うべきで、過去の価値観に迫る努力を怠ってはなりませんが、だからといって、過去の価値観をそのまま引き写してしまったら、それも歴史とは言えないでしょう。
そもそも、安易に文化的優位という表現を用いるのにも感心しませんが、現代の社説において文化の優劣を判定するならば、現代的価値観からは文化の一部にすぎない漢詩文という分野の優劣(前述した通り、この分野について、私自身の現時点での優劣の判断は保留しておきますが)、しかも当時の知識人の判断にすぎないものをそのまま採用するのはどうかと思われます。
通信使一行の中には、金仁謙のように、日本を見下しつつも、その繁栄に驚き、日本を朝鮮の国土にしたいと述べている者いました。自分たちより劣等であるべきはずの日本人という、当時の(今でも?)朝鮮知識人にとっての価値体系・物語と齟齬する現実にたいして、戸惑い屈辱を感じつつも、精神の安定を得ようとの内的葛藤も見受けられます。
こうしたことは江戸時代だけのことではなく、すでに室町時代において、通信使として来日した朝鮮の朴瑞生は、日本社会の先進的側面(もちろん、先進的と表記したのは、現代的というか私の価値観に基づくのですが)を見習うべきだと提言していました。もちろん、こうした記述も当時の社会の一面をとらえたものにすぎませんが、おそらく現代的価値観から総合的に判断すれば、少なくとも朝鮮王朝の成立以降、朝鮮が日本にたいして文化的優位にあったとの言説は、幻想である可能性がひじょうに高いだろうと思います。
前近代における朝鮮の日本にたいする文化的優越、日本の教師としての朝鮮との言説は、ほとんどの韓国人にとっては自明の「歴史的事実」なのでしょうが、非韓国人の一人である私からすると、それはたんなる願望にすぎません。しかし、それが韓国社会を成立させている一要素(重要ではありますが)であるところの歴史認識(物語・虚構・約束事)の一つであることは否定できず、私も含めて多くの日本人にとっては不快なことでしょうが、それが韓国社会の内部にとどまっているかぎりは、外部から訂正を強制できる問題ではないと思います。しかし、それが韓国の外に向かって発信されるようであれば、批判の声をあげていく必要があるだろうとは思います。
もちろん、この社説の執筆者のように、日本人がこのような物語を韓国人と共有(しようと)すること、さらには共有した(と錯覚した)結果による認識に基づく言論活動は自由であり、日本においてそのようなことが容認されているのは、ある意味では現代日本社会の自由・寛容さの証として誇ってもよいものかもしれませんが、日韓友好という大義のために、朝鮮通信使にまつわる物語を利用して日本社会に向けて発信する行為にたいしては、批判の声をあげていこうと思います。
歴史認識の共有は、あるいは部分的には可能かもしれませんが、基本的には同じような文化的背景で育った者同士でも困難であり、ましてやことなった文化的背景で育った者同士では、ほとんど不可能でしょう。もっとも、どちらか一方が相手の主張に屈服し、信仰するようになれば、かなりの程度の共有は可能でしょうが。重要なのは、歴史認識の共有ではなく、相手の歴史認識を知り、自分のそれとの違いを確認することだと思います。
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