テオティワカンの人身供儀
テオティワカンで何世紀にもわたって犠牲に供されたのは、テオティワカンから400~600kmも離れた遠方の人々だった、との報道がありました。
http://www.msnbc.msn.com/id/18063260/
先スペイン期の中米において、人々が犠牲に供されていたことはよく知られていますが、テオティワカンの月のピラミッドで発見された50体以上の人骨(その多くは斬首されていて、年代は紀元後50~500年頃)のDNA鑑定をしたところ、犠牲者が、テオティワカンから遠く離れたマヤ・大西洋岸・太平洋岸といった、異なる文化圏の人々であることが判明した、とのことです。また犠牲者は、黒曜石の刃のような大量の貴重品や、ピューマ・コヨーテ・鷲・蛇などのような、象徴的とみなされ重視されていた動物とともに葬られていました。
テオティワカンでの犠牲の儀式がどのようなものだったか、現在でもよく分かっていません。こういう場合、犠牲者は戦争捕虜だったのではないか、という可能性がすぐに思いつきますが、テオティワカン文化の遺物は、グアテマラやホンジュラスといった、テオティワカンから遠く離れたマヤ文明の遺跡からも出土していて、テオティワカンの影響範囲の広さを示していることもあって、犠牲者は戦争捕虜というだけではなく、ある種の外交で得られた可能性もある、と推測されています。
月のピラミッドにて犠牲に供された人々のDNA鑑定が、テオティワカンのみならず、中米の社会状況を解き明かす一助になりそうだということで、なかなか興味深い報道です。犠牲者が戦争捕虜だとしたら、復讐という意味合いもあったのかもしれませんが、ある種の外交で得られていたのだとしたら、マヤの諸都市はテオティワカンに従属していて、その証として犠牲者を差し出していたのかもしれません。
そもそも、人身供儀の意味合いについて考察するには、それを行なった人々の世界観を深く知る必要がありますが、テオティワカンの場合、文字がなく、スペイン人が直接見聞したわけでもないので、現代人が推測するのはなかなか難しいところがあります。
確かマヤ文明の人身供儀については、世界の崩壊を先に延ばすため、といった説が提唱されていましたが、テオティワカンでも同様の動機があったのかもしれません。ほかには、遠方から来た捕虜を儀式的に殺害することで、政治的支配を可視化するという目的もあったのかもしれませんが、こうした議論が決着することはおそらくないのでしょう。
また、捕虜の側の意識というのも気になります。遠方から来た人々ですし、現代人の私は、そうした人々が喜んで犠牲になったというわけではないだろう、と考えてしまうのですが、あるいは、そうした犠牲になることは何らかの名誉だという意識が当時の社会にあったのかもしれず、社会的規範と個人的心情との間で犠牲者が悩んだことがあったのかもしれません。また犠牲者本人も、神に近づけるということで、犠牲者に選ばれたことに感謝していたのもしれません。もっともこうした推測は、テオティワカンのみならず当時の中米の人々の世界観が分からないうちは、単なる妄想にすぎませんが・・・。
http://www.msnbc.msn.com/id/18063260/
先スペイン期の中米において、人々が犠牲に供されていたことはよく知られていますが、テオティワカンの月のピラミッドで発見された50体以上の人骨(その多くは斬首されていて、年代は紀元後50~500年頃)のDNA鑑定をしたところ、犠牲者が、テオティワカンから遠く離れたマヤ・大西洋岸・太平洋岸といった、異なる文化圏の人々であることが判明した、とのことです。また犠牲者は、黒曜石の刃のような大量の貴重品や、ピューマ・コヨーテ・鷲・蛇などのような、象徴的とみなされ重視されていた動物とともに葬られていました。
テオティワカンでの犠牲の儀式がどのようなものだったか、現在でもよく分かっていません。こういう場合、犠牲者は戦争捕虜だったのではないか、という可能性がすぐに思いつきますが、テオティワカン文化の遺物は、グアテマラやホンジュラスといった、テオティワカンから遠く離れたマヤ文明の遺跡からも出土していて、テオティワカンの影響範囲の広さを示していることもあって、犠牲者は戦争捕虜というだけではなく、ある種の外交で得られた可能性もある、と推測されています。
月のピラミッドにて犠牲に供された人々のDNA鑑定が、テオティワカンのみならず、中米の社会状況を解き明かす一助になりそうだということで、なかなか興味深い報道です。犠牲者が戦争捕虜だとしたら、復讐という意味合いもあったのかもしれませんが、ある種の外交で得られていたのだとしたら、マヤの諸都市はテオティワカンに従属していて、その証として犠牲者を差し出していたのかもしれません。
そもそも、人身供儀の意味合いについて考察するには、それを行なった人々の世界観を深く知る必要がありますが、テオティワカンの場合、文字がなく、スペイン人が直接見聞したわけでもないので、現代人が推測するのはなかなか難しいところがあります。
確かマヤ文明の人身供儀については、世界の崩壊を先に延ばすため、といった説が提唱されていましたが、テオティワカンでも同様の動機があったのかもしれません。ほかには、遠方から来た捕虜を儀式的に殺害することで、政治的支配を可視化するという目的もあったのかもしれませんが、こうした議論が決着することはおそらくないのでしょう。
また、捕虜の側の意識というのも気になります。遠方から来た人々ですし、現代人の私は、そうした人々が喜んで犠牲になったというわけではないだろう、と考えてしまうのですが、あるいは、そうした犠牲になることは何らかの名誉だという意識が当時の社会にあったのかもしれず、社会的規範と個人的心情との間で犠牲者が悩んだことがあったのかもしれません。また犠牲者本人も、神に近づけるということで、犠牲者に選ばれたことに感謝していたのもしれません。もっともこうした推測は、テオティワカンのみならず当時の中米の人々の世界観が分からないうちは、単なる妄想にすぎませんが・・・。
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