社会的余剰と生活水準と戦争の起源について

 一般的に、社会的余剰は完新世における農耕の開始とともに始まり、更新世における採集狩猟社会はたいへん貧しく平等な社会だった、と考えられているようですが、古人類学を学んでいると、そうした考えとは矛盾するような証拠を突きつけられることが少なからずあります。
 まず世界的な傾向として、更新世から完新世へと移り、農耕が本格的に始まるようになると、人類の体格が小さくなり、栄養不良による成長障害など、「不健康」な人が増えた、という指摘があります。更新世の採集狩猟社会だと、体格のよい人しか成人になるまで生きられなかったのではないか、との指摘もあるでしょうが、この傾向は更新世末という農耕が本格的に始まる前からの現象でもあり、この点も踏まえて、もうちょっと詳しく見ていく必要がありそうです。

 採集狩猟社会と農耕社会を比較すると、一般的には、一定面積における人口収容力は農耕社会のほうがはるかに高くなりますが、利用可能な面積となると、農耕社会のほうがずっと狭くなります。とくに初期農耕の場合は、後世と比較して技術的な制約が多いので、いっそう可耕面積は狭くなります。
 おそらく、更新世の採集狩猟社会において、後期石器・上部旧石器時代以降は、技術革新の速度が向上して人口も増えていったのでしょうが、更新世末には技術・社会革新が人口増加に追いつかなくなって、一人当たりのカロリー摂取量が減少していって体格が小さくなり、不健康な人が増えたのでしょう。農耕は、こうした社会変化や劇的な気候変化に対応すべく、生存戦略の一環として、長期にわたる試行錯誤を伴いつつ、世界の何ヶ所かで独自に進められていったものと思われます。
 なお、農耕開始以降の採集狩猟社会については、アフリカにおいて顕著なことですが、農耕民に土地を追われることが多く、農耕開始前と比較して、不利な環境での生活を余儀なくされている場合が少なくないことを、念頭にいれておかねばならないでしょう。

 人口収容力の増大からも、農耕開始により社会的余剰というか社会の総体的な富がはるかに増加したことがうかがえますが、一般に、その社会形態の違いから、農耕社会は採集狩猟社会よりも多産になりやすい傾向があるとされていますから、そうした富の増加以上に人口が増加しやすくなり、更新世の採集狩猟社会よりも個人の平均的な体格は小さくなり、不健康になっていった、ということなのでしょう。
 完新世の農耕社会よりも更新世の採集狩猟社会のほうが、個人の平均カロリー摂取量は高かっただろうというのは、体格の推移を見ていけばよく分かります。中世の欧州の家具を見た現代人の中には、家具が小さいのではないか、と思う人もいるそうですが、これは当時の人々の体格に合ったものであり、不自然ではないのです。こうした更新世末降の体格の縮小は、欧州だけではなく世界的な傾向です。
 つまり、更新世末からの完新世の農耕開始のあたりで縮小した体格は、中世においても縮小したままで、単純化していえば、近現代の栄養事情の改善により体格が向上したというか、更新世の状態に戻ったというわけで、氷河期の終了による気候変化や、農耕より危険な狩猟への依存度が低下したことが体格の劣化の根本要因ではなく、また体格に関わる遺伝子に根本的な変化が起きたというわけではなさそうなのです。

 日本の場合は、更新世の人骨がほとんどなく、弥生時代以降にも一定水準以上人の流入があったと思われるので、採集狩猟社会と農耕社会の体格の比較は難しいのですが、農耕開始以降においても短期的な変化は認められ、時代環境による体格の変化を示す好例となっています。
 近現代以降の日本人の体格の向上は、とくに現在年配の日本人にはつよく実感されることでしょうが、その前提として、江戸時代の日本人の体格が小さかったという事実があります。じつは、江戸時代は日本史上庶民の体格がもっとも劣悪だった時代とされていて、近年、江戸時代の豊かさ・成熟が強調される傾向にありますが、庶民の体格についても考慮にいれたうえでの、総合的な江戸時代論が要求されているといえるでしょう。

 もっとも、生活水準の問題も評価が難しく、体格がよかった更新世の採集狩猟社会のほうが、完新世の農耕社会より生活水準が高かったと結論づけられるのかというと、そうでもなかろうと思います。まず、住居・技術・知識など、総合的な社会基盤の蓄積が異なります。
 日本史上もっとも体格が劣悪だったとされる江戸時代にしても、平均寿命は、縄文時代の10代前半や室町時代の15歳よりもずっと向上し、30歳ていどにはなっています(地域によってかなりのばらつきがありますが)。これは、端境期の飢えという問題を、17世紀になって克服できたことが大きいようですが、こうしたことは、社会の発達・個人の生活水準の向上と評価できるでしょう。ちなみに中国でも、端境期の飢えという問題が解決されたのは、日本と同じく17世紀になってからのようです。

 どうもまとまりのない話になってきましたが、ここでもう一つさらに戸惑ってしまう材料を提供すると、一般的に農耕社会よりも採集狩猟社会のほうが、労働時間が少ないという傾向が挙げられます。採集狩猟民の中には、複雑で壮大な神話体系を築き上げている部族もいますが、そのような神話を語り合い練り上げていくことなどで、余暇を過ごすこともあったのでしょう。
 また、上部旧石器時代の副葬品にはたいへんな豪華なものもあり、作成するのに相当な時間がかかったとされていますが、そういった工芸品の作成で余暇を過ごすこともあったのでしょう。こうした副葬品の存在は、更新世の採集狩猟社会においても一定以上の社会的富があったことと、あるていど貧富の差や階層分化があったことをうかがわせ、更新世の採集狩猟社会の平等性という常識に疑念を抱かせるものです。

 さて、いいかげん、そろそろ結論を述べなければなりませんが、社会の総体的な富・社会的余剰は、採集狩猟社会よりも農耕社会のほうがずっと上であり、一般的に文明の代表的な指標とされる大規模な建築は、社会の総体的な富・社会的余剰がかなりの高水準にならないと不可能なことなので、文明の構築は採集狩猟社会ではひじょうに厳しいでしょう。またその結果として、住居・技術・知識など総合的な社会基盤の蓄積も農耕社会のほうがずっと上になり、こうした点からは、更新世の採集狩猟社会よりも、完新世の農耕社会のほうが生活水準が高かった、といえるでしょう。
 しかし一方で、上述したような農耕社会の体格の小ささや余暇の問題がありますので、一概に更新世の採集狩猟社会のほうが個人の生活水準が低かったとは言えず、玉虫色的な結論になりますが、個人の生活水準という基準において、体格や余暇といったある側面では、完新世の農耕社会よりも更新世の採集狩猟社会のほうが高かった、としておきます。

 さて最後に、戦争の起源についてです。この問題は、戦争の定義にも関わるので、たいへん難しい問題なのですが、やはりある規模以上の闘争を戦争と考えるべきで、たとえば暴力団同士の抗争を戦争と定義するのは無理であり、そうすると、一定水準以上の社会的余剰・社会の総体的な富が要求され、人口の面からいっても、農耕開始前の戦争はなかったとするのが妥当なところだと思います。もっとも、採集狩猟社会の中には、一部の農耕社会並の社会的余剰のある集落を営んでいる部族もあり、採集狩猟民同士の戦争も認められますが、それはあくまでも例外的と考えるべきでしょう。
 前述したように、農耕社会は採集狩猟社会よりも利用可能面積は減少しているのに、人口は増加していますから、農耕社会民同士の軋轢が生じやすくなり、またそうなったときの選択肢はさほど多くありません。これが採集狩猟社会だと、そもそも人口密度が希薄で集団間の軋轢が生じにくく、利用可能面積が広いのですから、軋轢が生じても選択肢が多数あり、解決の余地が大いに残されています。やはり、戦争とは基本的に農耕社会の産物である、と考えるのが現時点では妥当なところだと思います。

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