縄文時代の推定平均寿命の妥当性をめぐる議論

 昨日、縄文時代の平均寿命についての一文を掲載しましたが、
https://sicambre.seesaa.net/article/200701article_10.html
この一文を執筆するきっかけは、最近ある掲示板にて、縄文時代の平均寿命は30歳だというA氏の投稿があったので、15歳以下ではないかと指摘したところ、そんなことで人類集団を維持できるわけがなく、15歳説など読むに値しないと反論されたので、それにたいして私が試みた批判を整理してまとめてみよう、と思ったからです。A氏としたのは、以下の文章は結果としてA氏の面子を潰すことになるので、A氏に配慮したためです。うーん、私はやはり甘い人間ですなあ(笑)。
 本来なら、その掲示板で続ければよいのですが、さすがに空気の読めない私でも(笑)、掲示板の雰囲気が悪くなっていることは分かりますので(その掲示板の管理人さんには、申し訳ないことをした、と私も反省していますが・・・)、縄文時代の平均寿命は15歳以下という私の見解に異論のある方は、私のホームページの掲示板にて投稿してください、と言っておきました。しかし、まだ私のホームページの掲示板に投稿はありませんし、おそらく今後もないでしょうから、ブログにて述べることにした、というわけです。

 縄文時代の平均寿命30歳説の根拠とその間違いについては、上記リンク先の昨日の一文にて述べましたが、A氏も同様の間違いを犯しています。それは、A氏の以下の発言からも明らかです(以下、○はA氏の、●は私の発言)。
○元厚生省人口問題研究所の小林和正さんは、興味深い研究をされています。縄文人の15歳現在での平均余命です。早期から晩期の235体を調べて、16年と言う結論を出されています。私は、これは大変生物学的にも合理的な数字だと思います。15くらいで子供を生んで,子育てを終わって孫の顔を見て死ぬ。
しかし一方でA氏は、
○平均寿命15歳なんてのは読むに値しないと判断したからです。平均寿命と言うのは,生まれた赤ん坊がいくつで死ぬかの平均でしょう?これは納得されますね。これを納得されなくては、百年河清を待つと思うので、私はこの議論から降ります。
とも述べており、よくよく考えてみると、A氏は、平均寿命の定義を知らなかったというよりは、平均余命という概念を理解できていなかった、ということなのかもしれません。

 さて、私の当初の指摘は、
●縄文時代の推定平均寿命は15歳以下ではないでしょうか?江戸時代で30代半ば程度といったところだと思います。
という短いものだけでしたが、これにたいしてやや長めの反論があり、その一部を引用すると、
○そんな無茶な。15歳だと子孫は残せませんよ。第二成長期とともに死ぬことになります。生殖能力を持った途端に死にます。そうなったら、日本人は絶滅します。現在では、縄文時代は平均寿命は30歳と言ったところと言うのが一致した見方です。江戸時代は、大体50歳程度です。
となります。私のほうこそ、無茶な、と言いたいところですが(笑)。

 この後もA氏からは、平均寿命が15歳では「進化論を蹴飛ばしている」だの、「平均寿命30歳前後のほうが、余程進化論に合致してます」だのといった発言がなされましたが、その根拠は示されていません(笑)。どうもA氏には、平均寿命が15歳では人類集団の維持は不可能だという信念があったようで、
○縄文人の平均寿命が15歳だったと言うことは,一度に大量に子供を生むか,生殖可能年齢が7歳くらいだったと言う説が定説になるまで私は読む記しません。
というそれこそ無茶な(笑)発言もありましたが、室町時代の平均寿命は15歳そこそこと推定されていますし、鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』(講談社、2000年)P43でも、縄文時代の平均寿命は14.6歳という説が紹介された後、「もっとも、縄文人の平均余命が狩猟採集民として特別短かったというわけではなさそうである。世界各地の狩猟採集民はほぼ似たようなものであった。自然条件に強く依存する不安定な生活基盤が短命の原因であったと考えられる」と述べられており、平均寿命が15歳以下でも人類集団の維持は可能で(多産と乳幼児死亡率の高さは相関しているということでしょう)、進化論に反しているとするのは、根拠のない思い込みにすぎません(笑)。もっとも、世界各地の採集狩猟民の平均寿命について、私は具体的な数字を直接参照したわけではないので、その点では多少留保はつきますが・・・。

 さて、「平均寿命15歳なんてのは読むに値しないと判断した」とまで言いきったA氏でしたが、私が何度か平均寿命30歳説の誤りを指摘して、やっと自分のほうが分が悪いと悟ったのか、
○私には縄文人平均寿命30歳としか思えません。
と信仰告白をした後(笑)、
○もっとも、縄文人の骨が全部出てくるか、全部の墓に墓碑銘でも入っていないと、どっちも推測値であると思います。多分、これ以上やっても歩み寄れないでしょう。でも、楽しかったです。ありがとうございました。
と述べたり、
○納得できないより、縄文人の正しい平均寿命は未来永劫分からないと思います。あくまでも、残ってる骨のサンプリング調査でしょうから。極論すれば、15歳でも20歳でも30歳でも正しいと思いますよ。全員の骨が無いでしょうし,墓に全部墓碑銘が入っているわけでもないでしょうから。それに,新生児の死亡率や乳幼児の死亡率は、もっと分からないと思いますよ。
○私が議論をやめたのは,結論が出ないと思うからです。結論を出すには,縄文人の骨の8割がたがあるかでないと,どちらにしても推測値でしょう。水掛け論になりますよ。それで辞めたのです。状況証拠だけで、裁判やってるようなものですよ。もっとも状況証拠も豊富にあれば,公判は維持できますが,先ず状況証拠も豊富に無いでしょう。
と述べたりして逃げをうち、なんとか痛み分けにもっていこうとしたようです。

 「平均寿命15歳なんてのは読むに値しないと判断した」との発言や、小林和正氏の研究を高く評価していたこととの整合性はどうなるのでしょうか?まあ私はA氏の面子を重んじて、掲示板では指摘しませんでしたが。私のホームページの掲示板にて投稿があれば、そうしたことも指摘するつもりでしたが、
○どこの板でやっても、平行線のままですよ。要は、信念の問題ですから。
とA氏より発言がありましたので、このブログにて掲載することにしたしだいです。

 それにしても、こうしたA氏の言い逃れにはまったく説得力がないばかりか、過去のA氏の発言とも矛盾するところがあります。「全員の骨が無いでしょうし,墓に全部墓碑銘が入っているわけでもないでしょうから」というようなことを根拠に結論は出せない、などと言い出せば、昔の時代についての研究の正否を検証することは無意味となるでしょう。
 状況証拠としては、前近代の欧州の死亡率や世界各地の採集狩猟民の平均余命の事例がありますし、小林和正氏の研究で用いられた縄文人骨235体分というのも、けっして少ない数とは言えないでしょう。
 A氏は信念の問題としていますが、けっきょくのところ、縄文時代の平均寿命が30歳という説には根拠はなく、小林和正氏の研究の誤読にすぎないのですから、間違った情報が刷り込まれて、面子からその誤情報に固執しているにすぎないのでしょう。まあでも、ある意味では信念の問題かもしれませんが(笑)。

 そもそもこんな弁解を認めれば、
▼室町時代には80歳以上の死亡者の多くは海葬にされていたので、平均寿命は現存する人骨から推定できるものよりずっと高くなる。当時は海葬が普通だったので史料にわざわざ書き残されるようなことはなかったし、室町時代の人間全員の人骨や現在のような戸籍もないのだから、この考えを否定することはできない。
▼戦国時代、武田騎馬隊なるものは存在しなかった、という見解が近年有力となったが、当時の軍役状のうちの何割が現在に残っているだろうか?だから、武田騎馬隊が存在しなかったと結論づけることはできない。これは信念の問題である。
▼現代人でネアンデルタール人由来のミトコンドリアDNAをもっている人はいないとされるが、60億人以上の現代人の中で、分析されたのはごく一部なのだから、ネアンデルタール人由来のミトコンドリアDNAをもっている現代人がいる可能性は否定できない。
▼現生人類を特徴づけている遺伝子は、地球外知的生命体の遺伝子操作によりもたらされた。これを全否定できる人はいないはずである。
といった「見解」ですら結論が出せず、信念の問題(笑)として議論を拒否することができるようになります。ちなみにA氏は、武田騎馬隊なるものは存在しなかった、と堂々と断言したことがありますし(笑)、室町時代の平均寿命が15歳そこそこという説にたいしては、「蒙は開かれましたので感謝はしております」とまで述べています。室町時代の人々の人骨の8割以上が分析されたとはとても思えませんが、こうしたご都合主義的な態度は笑えます。

 全部は判明していない、全否定はできない、といった言い逃れは、トンデモ思考の始まりです。現生人類の頭脳は、「すべてのこと」を把握できないのですから、極論をいえば、ほとんどすべての問題の正否は程度問題だということになります。学問といえども、この制約から逃れることは困難です。
 どちらにより妥当性があるのか、推定して検証するのが学問というものでしょう。1%どころか、1億分の1すらなく、皆無に近いような「可能性」を認めて、結論が出ないと逃げるのは、トンデモさんの常套手段というべきで、いくら面子のためとはいえ、こんなことを言い出すのはいかがなものかと思います。

 それにしても、A氏はこのていどの言い逃れでなんとか痛み分けにもっていこうとしているのですから、呆れてしまいます。私としては、掲示板で私よりも古参で常連のA氏の面子を潰さないようにと、空気を読めないながらも(笑)、配慮して述べてきたつもりなのですが、自分の間違いを認めず、こんな弁解にもなっていない逃げをうたれたとあっては、もう遠慮する必要はないかなと思い、この一文を執筆したしだいです。
 これだけ述べたからには、もちろんこの一文を執筆する発端となった掲示板に今後投稿するつもりはありません。自省することがなく、説得力のない言い逃れをするような人と議論してしまうと、本当にたいへんなことになります。まあでもA氏から、このブログにコメントがあったり、私のホームページの掲示板に投稿があったりしたら、返信はしますが。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック