掲示板でのやりとりからみえてくる日本社会の特徴
最近、ある掲示板でやりとりをかわしたのですが、そこに現在の日本社会によくみられる観念というか思考様式(もちろんその中には、過去の日本社会にもみられる特徴が少なからずあるのですが・・・)が表れているように思われるので、ちょっと雑感を述べることにします。
発端となったR氏による投稿は、14億の中国人が社会主義を目指しているなんて「サヨク」は言っているが、今の中国のどこが社会主義なのだと言って中国社会の欠点を挙げ、「サヨク」を愚弄する内容でした。
それにたいして私は、そんなことを言っている人が本当にいるのでしょうか?と疑問を呈したのですが、R氏に日本共産党綱領を突きつけられて、そのような主張がなされていることと自分の無知を認めました。
しかしながら、建前の強くなりがちな政党の綱領において、こうした文言を真に受ける人はどれくらい存在するでしょうか?ごく少数の人ではないでしょうか?と私は疑問を呈したのですが、それにたいするR氏からの反論は今のところありません。
私は、R氏を近年ネットでよく見かける「国士様」だと判断したのですが(私の「国士様」の簡潔な定義は、安易に批判できる「サヨク的」な言動を叩くことで、愛国者・現実主義者になったかのように錯覚している人というもので、いわゆる「ネット右翼」とほぼ同義で使用しています)、R氏からは、「司馬遼太郎を愛読し、小林よしのりを嫌悪する穏健な民主党支持者ですのでお間違いないように」との反論がなされました。
ここまでが掲示板でのやりとりを簡潔にまとめたもので、以下、最初にも述べたように、こうしたやりとりの中から現代日本社会の思考様式を探り、雑感を述べていくことにします。
現代の日本において、いわゆる左翼が苦境にあるのを否定できる人は皆無に近いでしょう。その要因の一つとして、左翼がソ連・中国・北朝鮮などの社会主義諸国を美化してしまったことが挙げられ、左翼の苦境は、左翼の自滅という側面も多分にあります(それだけとは言いませんが)。
そのような左翼の言説は、ちょっと本や雑誌やネットで調べればすぐに分かることで、批判が容易なものですから、左翼を叩いて見下すことによって安易に自尊心を満たす人々が増えました。こうした人々が、いわゆるネット右翼だと私は認識しています。
ネット右翼は、左翼を見下して自尊心を満たしていますから(もちろんほとんどのネット右翼は、左翼批判だけが自尊心の源というわけではないでしょうが)、明らかに間違いだと判明した過去の左翼の発言のみならず、現在のいわゆる左翼的な言説にも拒否感を示し、その反対を志向する傾向にあります。
現生人類には心の拠り所が必要であり、それは宗教だったり収入だったり社会的地位だったり知的優越感だったりするわけですが(ほとんどの人は、それらのうち複数を心の拠り所としているわけです)、ネット右翼の場合は、左翼にたいする知的優越感(に基づく自尊心)が該当するわけです。
これは現生人類の精神衛生上必要なことであり、その対象が苦境にある(劣勢である)勢力に安易に向けられるのは、虐め問題にもつながる現生人類の心理問題だとは思いますが、現生人類が別の生物種に進化しないかぎりは、こうした問題が解決されることはないでしょう。
「織田信長見直し論」を主張する私にしても、堺屋太一氏のような「信長信者」を批判するさいに、そのような知的優越感がないといえば嘘になります。もっとも私は、戦後日本でABO式血液型別性格判断なみに根強い信長賛美論を批判しているわけで、弱小勢力をわざわざ叩いているわけではない、との自負を抱いていますが、この認識が妥当だという保証はもちろんありません。
批判しやすい弱小勢力を叩いて安易に自尊心を得るのは、感心できることではありませんが、私も含めて心の弱い人の多い現生人類にとって必要悪な行為であることも否定できません。せめてできるだけ各人の心の内にしまっておくことが必要になるのでしょうが、けっきょくは各人の良心頼みということになり、現実社会の法律・倫理違反の多さからして、きわめて解決困難な問題といえます。
ネット右翼の批判対象としては、左翼への批判とかなり重なるところがあるのですが、中国・南北朝鮮も挙げられ、R氏の発言も、中国を批判して優越感を得るという構造になっています。中国・南北朝鮮が対象となるのは、日本にとって身近な地域で摩擦も多くあり、安易に叩けるところが多くあるからでしょう。
つまり、中国・南北朝鮮への批判も、左翼への批判とおなじく、容易に批判できるところを叩いて安易に自尊心を満たすという側面もあるのですが、異なる側面も多分にあり、それは日本社会のある観念と密接に結びついたものだと思います。
近代以降の日本において、日本>中国>朝鮮という序列はほとんど自明のものであり、日本人の意識を根強く拘束していますので、かなりの中国・朝鮮贔屓の人でも、この序列意識から自由というわけにはいきません(もちろん私も自由ではありません)。
また、欧米>中国>朝鮮という序列も近代以降の日本においてはほとんど自明のものなのですが、欧米>日本なのか、欧米≧日本なのか、欧米=日本なのかは、日本人の中でも見解の分かれるところでしょう(時期によってかなり違ってくると思います)。
もちろん欧米とはいっても、その中でもさらに格付けがあるわけで、たとえば米>仏>伊といった序列があり、日本の位置は米と仏の間だったり、仏と伊の間だったりするわけですが、ここでは煩雑さを避けるために欧米としてまとめておきます。
日本社会では昔より、身分に応じた振る舞いが要求され、それを逸脱した行為をとると、たいへんな怒りをかい、攻撃を受けることもしばしばあります。もっとも、このような観念は日本だけのものではなく、程度・様式の違いはあれども、現生人類の社会全般に共通するものだとは思いますが。
つまり、中国や南北朝鮮への批判は、ネット右翼に言わせれば、中国や南北朝鮮が不当に日本を攻撃するからだということになり、そうした側面があることを私も否定するつもりはまったくありませんが、その根底をなすものの一つに、身分相応の振る舞い、つまり格下は格下らしく振舞え(格上の存在におとなしく従え)との日本社会(に特有というわけではありませんが)の伝統的な観念があるのではないかと思われます。
もっともこれは、中国や南北朝鮮にも認められる傾向であり、かつて侵略をした日本は道徳的に劣るとして、この点で日本にたいする優越感を抱くわけで、冊封体制論にもつながる東アジア世界の伝統的観念も源の一つだろうと思われます。ただ、道徳的には日本に優越感を抱いても、経済的には劣っていますから、そのねじれに、ネット右翼が中国や南北朝鮮の主張に面白さ・軽蔑を抱く主因があるのでしょう。
上述のように、ネット右翼とは逆の「親中韓朝」の日本人も、このような序列意識から自由ではなく、ネット右翼が好んで批判する朝日新聞やいわゆる進歩的知識人や良心派の多くにしても、ネット右翼の言うように中韓を崇拝しているのではなく、目上意識から接しているところが多分にあるように思われます。
それは、いわゆる良心派がネット右翼にみられるような日本のナショナリズムを否定しながら、それ以上に盲目的な中国や南北朝鮮のナショナリズムには沈黙することが多いことから推測できることです。
良心派に言わせれば、中国や南北朝鮮のナショナリズムは、過去に日本に傷つけられたことの補償を求める正当なナショナリズム、日本のナショナリズムは過去の過ちを直視できていない間違ったナショナリズムということになるのでしょうが、その根底には、日本はナショナリズムを卒業すべき脱近代の先進的社会、中国や南北朝鮮はナショナリズムの必要な近代の後進的社会、との発想があるように思われます(当の良心派にはそのような自覚はないでしょうが)。もちろん、そのような意識のない「親中韓朝」の日本人も中にはいるかもしれませんが・・・。
そうした良心派の一例が、司馬遼太郎氏を批判する佐高信氏で、佐高氏は司馬氏を批判する理由の一つに、朝鮮に優しくなかったという点を挙げていますが、これは完全に目上からの視線であり、かつて朝鮮を啓蒙して文明化しようと考えた日本の帝国主義者と、根底において通ずるところがあります。
つまり、ある国や民族に耳障りのよい言説であっても、その真の意味合いを考える必要があるのだと思います。その意味で、バートランド=ラッセルについてのこのサイトはたいへん示唆に富んでいます。とくに魯迅の発言の引用箇所は興味深く、私の魯迅への評価は劇的に上昇しました。
ある人の、「身に着けているものは腰蓑だけ。穂先が石で出来た槍を手に狩猟生活をする黒人。これを見て微笑むB.ラッセル」、「スーツを着、片手にケイタイ。PCを使って仕事をする黒人。これを見て憎悪の表情を露わにするB.ラッセル」との評価は的確なのだと思います(これは、良心的日本人の朝鮮への眼差しとは方向性が異なりますが、目上からの視線という点では通ずるところがあります)。
もっとも、日本人の中国・朝鮮にたいする目上からの視線は、そう簡単には解消されるものではないでしょうし、その心理的背景はどうあれ、中国・朝鮮を愛すのも憎むのも軽蔑するのも個人の自由ですが、目上からの視線ではないか、との自省の念はつねに必要でしょう。もちろんこれは、私自身にもあてはまることです。
さて、ネット右翼による中国・南北朝鮮への批判には、安易に批判できるところを叩くという側面と、日本社会の序列意識という側面があることを述べましたが(もちろん、両者は密接に関連しているのですが)、もう一つ、別の側面もあります。もっともこれは、主に対中国の場合に認められるもので、対韓国の場合は対中国よりもその要素はずっと弱くなり、対北朝鮮の場合には皆無といってよいものです。
それは、後進的と思っていた勢力が自らを追い抜くという危険性・恐怖心であり、GDPで中国が日本を抜くのは時間の問題でしょうし、政治的にも中国の世界への影響力は拡大し、軍事面でも中国の軍拡路線は日本も含めて周辺地域への脅威となっています。もちろん、中国社会には多数の不安定要因があり(それがネット右翼の中国にたいする優越感の根拠にもなっているのですが)、その前途は必ずしも楽観視はできませんが・・・。
日本の中国への優越感の最大の根拠は経済力にあったわけですから、GDPで中国に抜かれるというのは、多くの日本人にとってたいへんな衝撃だろうと思います(一人あたりのGDPで日本が中国に抜かれることはまずないでしょうが)。もっとも、たとえ中国がGDPで米国を抜いて世界第一位になったとしても、中国社会には日本や欧米といった先進諸国から批判されるような後進性・欠陥が存在し続けることだろうと思います。
そこで、政治・経済・軍事では抜かれても、文化・道徳などで中国の後進性を指摘する言説はかなり後まで続くことでしょう。しかしこれは、かつて米国が西欧から、日本が欧米から受けた批判と通ずるところが多分にあり、ひじょうに後ろ向きな批判だといえます。日本の相対的な地位低下による不安を、相対的に地位を向上させてきた中韓を批判することによって和らげるというわけで、ネット右翼にとって、中韓批判がいわば癒しになっているわけです。
そのようなことでしか中国を批判できないような、後ろ向きで活気のない社会に日本が陥ることがないよう、私も願っていますが、近年の日本の思潮には、多少とはいえそのような不安も感じます。おそらく中国人の中には、日本人のこうした言説を聞いて、日本人が中国を恐れているとして、優越感を抱く人もいることでしょう。
では、中国・南北朝鮮といかに付き合っていくべきかというと、私程度の見識では名案が浮かぶはずもないのですが、一つ言えるのは、少々の摩擦は気にしなくてもよいということで、そもそも隣国同士の摩擦は珍しいものではないので、無理に相手の主張に迎合してまで友好関係を維持する必要はありませんし、そもそもそのような友好関係は対等なものとは言えないでしょう。
日本にとっては、長期的には北朝鮮の暴発よりも中国の覇権主義のほうが脅威であり(日本だけではなく、中国の周辺地域にとっても脅威ですが)、中国が国内の不満をそらすために、対外的な侵略路線に進むことのないような枠組みを構築するのが必要になるでしょう。といっても、それを実現するのはなかなか難しいところがありますが、経済的な相互依存を深めていくのは、そのための一つの手段となるかもしれません。
また、中国・南北朝鮮による日本軍国主義批判については、プロパガンダ的性格が多分にあることを考慮に入れるべきで、真に受けてはならないでしょう。もはや日本単独での軍国主義復活はありえず、日本が他国に軍事的脅威を与えるとしたら、それは米国の命令によるものでしかなく、中国・南北朝鮮もそれを理解していて、叩きやすい日本を批判しているところが多分にあります。米国よりも日本を叩くほうがはるかに譲歩を引き出しやすい(利益を得やすい)のですから、中国・南北朝鮮にとっては当然のことでしょう。
中国や南北朝鮮への批判から考察した日本社会の思考様式についてはここまでとし、次にR氏の「司馬遼太郎を愛読し、小林よしのりを嫌悪する穏健な民主党支持者ですのでお間違いないように」との発言から、日本社会の思考様式について考察していきます。
鍵となるのは、「司馬遼太郎を愛読」、「民主党支持」という発言です。おそらく以下に述べることも、日本社会のみならず現生人類の社会全般に、程度・様式の差こそあれ共通すると思われますが、それはさておき、上記の発言からみえてくるのは、日本社会におけるブランド力の問題です。
つまり、現代の日本において、司馬遼太郎氏・民主党には一定水準以上のブランド力があり、その愛読者・支持者だと公言することにたいする社会的圧力なり反発はきわめて低いということです。もちろん、中にはたいへんなアンチ司馬遼太郎の人もいますから、運悪くその人の前で司馬遼太郎ファンだといえば、たいへんな攻撃を受けるかもしれませんが・・・。
これにたいして、たとえば公明党・共産党支持だと公言することには、まだ一定水準以上の社会的圧力なり反発がありますし、昔は人気があったのに今では売れなくなった歌手(あるいは、まったく売れたことのない歌手)のファンだと公言することも(おもにポップミュージックを念頭においています)、恥ずかしいからといって躊躇ってしまうような雰囲気が日本社会にはありますが、こうした理由を、もう少し詳しくブランド力について分析しつつ考えていきます。
ブランド力には二つの方向性があり、それは高尚さもしくは信頼度と多数派だということです。たとえば公明党や共産党は少数派ですし、売れない歌手も同様です。しかしながら、少数派とはいえ、クラシック音楽や漢詩が趣味だと公言することにたいする社会的圧力や反発は弱いと思われます。これはなぜかというと、クラシック音楽や漢詩は高尚だという社会的合意が日本ではほぼ成立しているからです。もちろん、高尚さや多数派であることを俗物的だとして批判する人は、どの社会にも少数派ながらいますが・・・。
ポップミュージックの場合は、まだ高尚さがあるとの社会的合意が日本では成立していないため、ブランド力を獲得するには、多数派であること、即ち売れる必要があるわけです。公明党や共産党の場合は、少数派だということとも密接に関連しますが、社会的信頼度もなく、それは、公明党の支持母体である創価学会にたいする不信感や、現実の社会主義国の失敗に要因があります(共産党の場合は、過去の暴力路線や戦前からの共産主義にたいする警戒も原因ですが)。
ここで民主党について考えてみると、自民党と比較すると少数派ですし、2005年の衆院選では議席を大幅に減らしましたが、参院選では自民党と互角に戦っており、多数派というと変かもしれませんが、一定水準以上の支持を得ています。さらに、小沢一郎氏の民主党参加により、保守層からの支持も得て、一定水準以上の信頼度を確立したのも大きいと思います。
つまり民主党は、ブランド力の二つの方向性をともに一定水準以上満たしているわけですが、とくに小沢氏の参加は大きかったように思います。20代のネット右翼には評判のよくなさそうな小沢氏ですが、そのブランド力は30代以上の男性には今でも通用しそうで、かつては、好きな政治家に小沢氏の名前を挙げるのは、現実主義者で大人の男性の証のように見られたところがありました。
もっとも失礼を承知でいえば、小沢氏は不幸なことに不細工で悪人顔ですから(あらかじめ断っておくと、これは私が醜男であろうが美男子であろうが成立し得る論評です)、女性の支持が弱点とされる民主党の党首には向かないかなあ、とも思います。顔で政治家を判断するのはよくないことではありますが、これも現生人類の心理としては当然のことであり、残念ながら仕方のないことなのでしょう。
このように、ブランド力の弱いものへの支持を公言することを躊躇ってしまうような日本社会の状況について、おそらく少なからぬ人々(日本人もそうでない人も含めて)は、日本社会は個の確立が未熟な、遅れた・古い社会だと指摘するでしょう。
しかしながら、欧米のような先進諸国と日本とを比較して本当にそう言えるのか、私の見識では断言できませんが、ここにはオリエンタリズム的日本批判の性格があるようにも思われます。またそのようなオリエンタリズム的視点は、日本側からの中国・朝鮮への眼差しとも共通するものがあるのではないか、とも私は考えています。
なお、以上で述べたことについては、執筆する契機となった掲示板にも投稿しますが、冒頭の一節のような掲示板を紹介するための箇所などは省略します。
発端となったR氏による投稿は、14億の中国人が社会主義を目指しているなんて「サヨク」は言っているが、今の中国のどこが社会主義なのだと言って中国社会の欠点を挙げ、「サヨク」を愚弄する内容でした。
それにたいして私は、そんなことを言っている人が本当にいるのでしょうか?と疑問を呈したのですが、R氏に日本共産党綱領を突きつけられて、そのような主張がなされていることと自分の無知を認めました。
しかしながら、建前の強くなりがちな政党の綱領において、こうした文言を真に受ける人はどれくらい存在するでしょうか?ごく少数の人ではないでしょうか?と私は疑問を呈したのですが、それにたいするR氏からの反論は今のところありません。
私は、R氏を近年ネットでよく見かける「国士様」だと判断したのですが(私の「国士様」の簡潔な定義は、安易に批判できる「サヨク的」な言動を叩くことで、愛国者・現実主義者になったかのように錯覚している人というもので、いわゆる「ネット右翼」とほぼ同義で使用しています)、R氏からは、「司馬遼太郎を愛読し、小林よしのりを嫌悪する穏健な民主党支持者ですのでお間違いないように」との反論がなされました。
ここまでが掲示板でのやりとりを簡潔にまとめたもので、以下、最初にも述べたように、こうしたやりとりの中から現代日本社会の思考様式を探り、雑感を述べていくことにします。
現代の日本において、いわゆる左翼が苦境にあるのを否定できる人は皆無に近いでしょう。その要因の一つとして、左翼がソ連・中国・北朝鮮などの社会主義諸国を美化してしまったことが挙げられ、左翼の苦境は、左翼の自滅という側面も多分にあります(それだけとは言いませんが)。
そのような左翼の言説は、ちょっと本や雑誌やネットで調べればすぐに分かることで、批判が容易なものですから、左翼を叩いて見下すことによって安易に自尊心を満たす人々が増えました。こうした人々が、いわゆるネット右翼だと私は認識しています。
ネット右翼は、左翼を見下して自尊心を満たしていますから(もちろんほとんどのネット右翼は、左翼批判だけが自尊心の源というわけではないでしょうが)、明らかに間違いだと判明した過去の左翼の発言のみならず、現在のいわゆる左翼的な言説にも拒否感を示し、その反対を志向する傾向にあります。
現生人類には心の拠り所が必要であり、それは宗教だったり収入だったり社会的地位だったり知的優越感だったりするわけですが(ほとんどの人は、それらのうち複数を心の拠り所としているわけです)、ネット右翼の場合は、左翼にたいする知的優越感(に基づく自尊心)が該当するわけです。
これは現生人類の精神衛生上必要なことであり、その対象が苦境にある(劣勢である)勢力に安易に向けられるのは、虐め問題にもつながる現生人類の心理問題だとは思いますが、現生人類が別の生物種に進化しないかぎりは、こうした問題が解決されることはないでしょう。
「織田信長見直し論」を主張する私にしても、堺屋太一氏のような「信長信者」を批判するさいに、そのような知的優越感がないといえば嘘になります。もっとも私は、戦後日本でABO式血液型別性格判断なみに根強い信長賛美論を批判しているわけで、弱小勢力をわざわざ叩いているわけではない、との自負を抱いていますが、この認識が妥当だという保証はもちろんありません。
批判しやすい弱小勢力を叩いて安易に自尊心を得るのは、感心できることではありませんが、私も含めて心の弱い人の多い現生人類にとって必要悪な行為であることも否定できません。せめてできるだけ各人の心の内にしまっておくことが必要になるのでしょうが、けっきょくは各人の良心頼みということになり、現実社会の法律・倫理違反の多さからして、きわめて解決困難な問題といえます。
ネット右翼の批判対象としては、左翼への批判とかなり重なるところがあるのですが、中国・南北朝鮮も挙げられ、R氏の発言も、中国を批判して優越感を得るという構造になっています。中国・南北朝鮮が対象となるのは、日本にとって身近な地域で摩擦も多くあり、安易に叩けるところが多くあるからでしょう。
つまり、中国・南北朝鮮への批判も、左翼への批判とおなじく、容易に批判できるところを叩いて安易に自尊心を満たすという側面もあるのですが、異なる側面も多分にあり、それは日本社会のある観念と密接に結びついたものだと思います。
近代以降の日本において、日本>中国>朝鮮という序列はほとんど自明のものであり、日本人の意識を根強く拘束していますので、かなりの中国・朝鮮贔屓の人でも、この序列意識から自由というわけにはいきません(もちろん私も自由ではありません)。
また、欧米>中国>朝鮮という序列も近代以降の日本においてはほとんど自明のものなのですが、欧米>日本なのか、欧米≧日本なのか、欧米=日本なのかは、日本人の中でも見解の分かれるところでしょう(時期によってかなり違ってくると思います)。
もちろん欧米とはいっても、その中でもさらに格付けがあるわけで、たとえば米>仏>伊といった序列があり、日本の位置は米と仏の間だったり、仏と伊の間だったりするわけですが、ここでは煩雑さを避けるために欧米としてまとめておきます。
日本社会では昔より、身分に応じた振る舞いが要求され、それを逸脱した行為をとると、たいへんな怒りをかい、攻撃を受けることもしばしばあります。もっとも、このような観念は日本だけのものではなく、程度・様式の違いはあれども、現生人類の社会全般に共通するものだとは思いますが。
つまり、中国や南北朝鮮への批判は、ネット右翼に言わせれば、中国や南北朝鮮が不当に日本を攻撃するからだということになり、そうした側面があることを私も否定するつもりはまったくありませんが、その根底をなすものの一つに、身分相応の振る舞い、つまり格下は格下らしく振舞え(格上の存在におとなしく従え)との日本社会(に特有というわけではありませんが)の伝統的な観念があるのではないかと思われます。
もっともこれは、中国や南北朝鮮にも認められる傾向であり、かつて侵略をした日本は道徳的に劣るとして、この点で日本にたいする優越感を抱くわけで、冊封体制論にもつながる東アジア世界の伝統的観念も源の一つだろうと思われます。ただ、道徳的には日本に優越感を抱いても、経済的には劣っていますから、そのねじれに、ネット右翼が中国や南北朝鮮の主張に面白さ・軽蔑を抱く主因があるのでしょう。
上述のように、ネット右翼とは逆の「親中韓朝」の日本人も、このような序列意識から自由ではなく、ネット右翼が好んで批判する朝日新聞やいわゆる進歩的知識人や良心派の多くにしても、ネット右翼の言うように中韓を崇拝しているのではなく、目上意識から接しているところが多分にあるように思われます。
それは、いわゆる良心派がネット右翼にみられるような日本のナショナリズムを否定しながら、それ以上に盲目的な中国や南北朝鮮のナショナリズムには沈黙することが多いことから推測できることです。
良心派に言わせれば、中国や南北朝鮮のナショナリズムは、過去に日本に傷つけられたことの補償を求める正当なナショナリズム、日本のナショナリズムは過去の過ちを直視できていない間違ったナショナリズムということになるのでしょうが、その根底には、日本はナショナリズムを卒業すべき脱近代の先進的社会、中国や南北朝鮮はナショナリズムの必要な近代の後進的社会、との発想があるように思われます(当の良心派にはそのような自覚はないでしょうが)。もちろん、そのような意識のない「親中韓朝」の日本人も中にはいるかもしれませんが・・・。
そうした良心派の一例が、司馬遼太郎氏を批判する佐高信氏で、佐高氏は司馬氏を批判する理由の一つに、朝鮮に優しくなかったという点を挙げていますが、これは完全に目上からの視線であり、かつて朝鮮を啓蒙して文明化しようと考えた日本の帝国主義者と、根底において通ずるところがあります。
つまり、ある国や民族に耳障りのよい言説であっても、その真の意味合いを考える必要があるのだと思います。その意味で、バートランド=ラッセルについてのこのサイトはたいへん示唆に富んでいます。とくに魯迅の発言の引用箇所は興味深く、私の魯迅への評価は劇的に上昇しました。
ある人の、「身に着けているものは腰蓑だけ。穂先が石で出来た槍を手に狩猟生活をする黒人。これを見て微笑むB.ラッセル」、「スーツを着、片手にケイタイ。PCを使って仕事をする黒人。これを見て憎悪の表情を露わにするB.ラッセル」との評価は的確なのだと思います(これは、良心的日本人の朝鮮への眼差しとは方向性が異なりますが、目上からの視線という点では通ずるところがあります)。
もっとも、日本人の中国・朝鮮にたいする目上からの視線は、そう簡単には解消されるものではないでしょうし、その心理的背景はどうあれ、中国・朝鮮を愛すのも憎むのも軽蔑するのも個人の自由ですが、目上からの視線ではないか、との自省の念はつねに必要でしょう。もちろんこれは、私自身にもあてはまることです。
さて、ネット右翼による中国・南北朝鮮への批判には、安易に批判できるところを叩くという側面と、日本社会の序列意識という側面があることを述べましたが(もちろん、両者は密接に関連しているのですが)、もう一つ、別の側面もあります。もっともこれは、主に対中国の場合に認められるもので、対韓国の場合は対中国よりもその要素はずっと弱くなり、対北朝鮮の場合には皆無といってよいものです。
それは、後進的と思っていた勢力が自らを追い抜くという危険性・恐怖心であり、GDPで中国が日本を抜くのは時間の問題でしょうし、政治的にも中国の世界への影響力は拡大し、軍事面でも中国の軍拡路線は日本も含めて周辺地域への脅威となっています。もちろん、中国社会には多数の不安定要因があり(それがネット右翼の中国にたいする優越感の根拠にもなっているのですが)、その前途は必ずしも楽観視はできませんが・・・。
日本の中国への優越感の最大の根拠は経済力にあったわけですから、GDPで中国に抜かれるというのは、多くの日本人にとってたいへんな衝撃だろうと思います(一人あたりのGDPで日本が中国に抜かれることはまずないでしょうが)。もっとも、たとえ中国がGDPで米国を抜いて世界第一位になったとしても、中国社会には日本や欧米といった先進諸国から批判されるような後進性・欠陥が存在し続けることだろうと思います。
そこで、政治・経済・軍事では抜かれても、文化・道徳などで中国の後進性を指摘する言説はかなり後まで続くことでしょう。しかしこれは、かつて米国が西欧から、日本が欧米から受けた批判と通ずるところが多分にあり、ひじょうに後ろ向きな批判だといえます。日本の相対的な地位低下による不安を、相対的に地位を向上させてきた中韓を批判することによって和らげるというわけで、ネット右翼にとって、中韓批判がいわば癒しになっているわけです。
そのようなことでしか中国を批判できないような、後ろ向きで活気のない社会に日本が陥ることがないよう、私も願っていますが、近年の日本の思潮には、多少とはいえそのような不安も感じます。おそらく中国人の中には、日本人のこうした言説を聞いて、日本人が中国を恐れているとして、優越感を抱く人もいることでしょう。
では、中国・南北朝鮮といかに付き合っていくべきかというと、私程度の見識では名案が浮かぶはずもないのですが、一つ言えるのは、少々の摩擦は気にしなくてもよいということで、そもそも隣国同士の摩擦は珍しいものではないので、無理に相手の主張に迎合してまで友好関係を維持する必要はありませんし、そもそもそのような友好関係は対等なものとは言えないでしょう。
日本にとっては、長期的には北朝鮮の暴発よりも中国の覇権主義のほうが脅威であり(日本だけではなく、中国の周辺地域にとっても脅威ですが)、中国が国内の不満をそらすために、対外的な侵略路線に進むことのないような枠組みを構築するのが必要になるでしょう。といっても、それを実現するのはなかなか難しいところがありますが、経済的な相互依存を深めていくのは、そのための一つの手段となるかもしれません。
また、中国・南北朝鮮による日本軍国主義批判については、プロパガンダ的性格が多分にあることを考慮に入れるべきで、真に受けてはならないでしょう。もはや日本単独での軍国主義復活はありえず、日本が他国に軍事的脅威を与えるとしたら、それは米国の命令によるものでしかなく、中国・南北朝鮮もそれを理解していて、叩きやすい日本を批判しているところが多分にあります。米国よりも日本を叩くほうがはるかに譲歩を引き出しやすい(利益を得やすい)のですから、中国・南北朝鮮にとっては当然のことでしょう。
中国や南北朝鮮への批判から考察した日本社会の思考様式についてはここまでとし、次にR氏の「司馬遼太郎を愛読し、小林よしのりを嫌悪する穏健な民主党支持者ですのでお間違いないように」との発言から、日本社会の思考様式について考察していきます。
鍵となるのは、「司馬遼太郎を愛読」、「民主党支持」という発言です。おそらく以下に述べることも、日本社会のみならず現生人類の社会全般に、程度・様式の差こそあれ共通すると思われますが、それはさておき、上記の発言からみえてくるのは、日本社会におけるブランド力の問題です。
つまり、現代の日本において、司馬遼太郎氏・民主党には一定水準以上のブランド力があり、その愛読者・支持者だと公言することにたいする社会的圧力なり反発はきわめて低いということです。もちろん、中にはたいへんなアンチ司馬遼太郎の人もいますから、運悪くその人の前で司馬遼太郎ファンだといえば、たいへんな攻撃を受けるかもしれませんが・・・。
これにたいして、たとえば公明党・共産党支持だと公言することには、まだ一定水準以上の社会的圧力なり反発がありますし、昔は人気があったのに今では売れなくなった歌手(あるいは、まったく売れたことのない歌手)のファンだと公言することも(おもにポップミュージックを念頭においています)、恥ずかしいからといって躊躇ってしまうような雰囲気が日本社会にはありますが、こうした理由を、もう少し詳しくブランド力について分析しつつ考えていきます。
ブランド力には二つの方向性があり、それは高尚さもしくは信頼度と多数派だということです。たとえば公明党や共産党は少数派ですし、売れない歌手も同様です。しかしながら、少数派とはいえ、クラシック音楽や漢詩が趣味だと公言することにたいする社会的圧力や反発は弱いと思われます。これはなぜかというと、クラシック音楽や漢詩は高尚だという社会的合意が日本ではほぼ成立しているからです。もちろん、高尚さや多数派であることを俗物的だとして批判する人は、どの社会にも少数派ながらいますが・・・。
ポップミュージックの場合は、まだ高尚さがあるとの社会的合意が日本では成立していないため、ブランド力を獲得するには、多数派であること、即ち売れる必要があるわけです。公明党や共産党の場合は、少数派だということとも密接に関連しますが、社会的信頼度もなく、それは、公明党の支持母体である創価学会にたいする不信感や、現実の社会主義国の失敗に要因があります(共産党の場合は、過去の暴力路線や戦前からの共産主義にたいする警戒も原因ですが)。
ここで民主党について考えてみると、自民党と比較すると少数派ですし、2005年の衆院選では議席を大幅に減らしましたが、参院選では自民党と互角に戦っており、多数派というと変かもしれませんが、一定水準以上の支持を得ています。さらに、小沢一郎氏の民主党参加により、保守層からの支持も得て、一定水準以上の信頼度を確立したのも大きいと思います。
つまり民主党は、ブランド力の二つの方向性をともに一定水準以上満たしているわけですが、とくに小沢氏の参加は大きかったように思います。20代のネット右翼には評判のよくなさそうな小沢氏ですが、そのブランド力は30代以上の男性には今でも通用しそうで、かつては、好きな政治家に小沢氏の名前を挙げるのは、現実主義者で大人の男性の証のように見られたところがありました。
もっとも失礼を承知でいえば、小沢氏は不幸なことに不細工で悪人顔ですから(あらかじめ断っておくと、これは私が醜男であろうが美男子であろうが成立し得る論評です)、女性の支持が弱点とされる民主党の党首には向かないかなあ、とも思います。顔で政治家を判断するのはよくないことではありますが、これも現生人類の心理としては当然のことであり、残念ながら仕方のないことなのでしょう。
このように、ブランド力の弱いものへの支持を公言することを躊躇ってしまうような日本社会の状況について、おそらく少なからぬ人々(日本人もそうでない人も含めて)は、日本社会は個の確立が未熟な、遅れた・古い社会だと指摘するでしょう。
しかしながら、欧米のような先進諸国と日本とを比較して本当にそう言えるのか、私の見識では断言できませんが、ここにはオリエンタリズム的日本批判の性格があるようにも思われます。またそのようなオリエンタリズム的視点は、日本側からの中国・朝鮮への眼差しとも共通するものがあるのではないか、とも私は考えています。
なお、以上で述べたことについては、執筆する契機となった掲示板にも投稿しますが、冒頭の一節のような掲示板を紹介するための箇所などは省略します。
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